crisi!! 03


 静かに流れるように、忍び寄る鋭いナイフは小さな窓の隙間を抜けて柔らかな赤毛の髪をプツリと裂いた。
 ベージュを基調としたワンルームに据付の小さな窓。
 目を凝らさないと見えないほどの細さを誇る硬質ワイヤーを強く握り、歯の隙間から漏れる乾いた笑い声が木々のざわめきに掻き消える。
 小窓から僅かに見える先に、上質な生成のタオルケットにくるまった赤毛の女が身じろぎしていた。頼りないほどに細長い左手の指先が手繰りで宙を掴む。それを手繰り寄せると窓枠が変形して防弾硝子が割れる。
 赤毛の女は眉をひそめたが、薄い瞼は閉じたままだ。くぐもった呻き声を上げ、ベッドから落ちた反動で窓の向こうに渡った硬質ワイヤーは、割れた硝子の鋭利な破片に食い込み、弦楽器を弾くように切れてしまう。
 赤毛の女は寝惚け眼で、這うようにベッドに戻る。右腕に血が滲んだ包帯が巻きついていた。
 僅かに視線をずらすと、枕元には先ほど投下したナイフが刺さっている。回収するにも、外からでは窓が小さすぎて返り討ちに遭いかねない。
 歯の隙間から漏れる乾いた笑い声と共に、ナイフの持ち主は座っていた木の股から鳥のように飛び降りた。


 静けさを取り戻した部屋の主、名前は覚めきらない意識を動かし始めていた。
 枕に細いナイフが突き刺さっている。小窓が割れ、床にガラスの破片が散乱している。
 意識を手放す以前にはなかった異変を目の当たりにしながら、枕に突き刺さったナイフを引き抜く。それを手にすると、美しい模様が入っていることがわかる。
 ナイフを眺めながら新米ソルジャーとなった名前は。一つの疑問に行きつく。
―――割れた窓の補修と、穴が開いた枕の交換だ。ファミリーの一員となった今、どこまでの扱いが受けられるか未知数。このまま壊れた物と共に生活せざるをえない可能性が高い。
 風通しが良くなり、小窓から新鮮な空気が流れて心地いい。
 右腕の怪我が浅いとはいえ範囲が広いため、炎症反応による熱が出るのは予想していた。実際に全身に熱を帯びるのを感じ始めていた。
 目に写る物が薄らぼやけている。生活には支障が無いレベルでも、新居を与えられたばかりで不安が多い。
 今日はフランが邸内の案内をしてくれる予定だが、間取りを覚えられるだろうか。

 規則正しく扉を叩く音の後に、カラカラとキャスターが転がる音が聞こえる。
 二重になった扉の前に音の持ち主が現れると、木枠の合間に付けられたスモーク硝子からうっすらと影が見えた。
 直ぐに動けるよう、ナイフを左手に構えつつ、足を立てる。
 金属が擦れる音と共に入口のドアノブが回る。現れたのは黒装束の男性だった。衣服はフランやスクアーロと同じ、黒い皮を基調とし、黄色いラインが入っているものを着用している。
 男は一礼し、キャスターの回る音と共に配膳台を運ぶ。
「療養の間は私が配膳を勤めさせていただきます。朝食をお持ちいたしました」
 男は言いながら、サイドテーブルに食事を順序よく並べていく。パンの芳しい香りが部屋を包み込む。部屋をぐるりと見渡すと、名前に向き直る。
「食事の後にフラン様がこちらにお見えになります。邸内をご案内の間に、窓と枕の交換に参ります。それでは」それだけを述べ、男は踵を返した。

 姿が見えなくなると名前はナイフを枕元に置いた。
 新米ソルジャーの待遇にしては、扱いが丁寧過ぎる。これが基本なのだろうかと思いながら、散漫な動作で壁側の椅子に移動し、並べられた食事の臭いを嗅ぐ。
 異臭はしないが、念のため備えられたスプーンでスープの味を見る。
―――うん、美味しい。

「お邪魔ー」食事の最中、カエル帽子のフランが紙袋を片手に、名前の部屋へと入ってきた。
 フランは真直ぐベッドの縁に座り、枕元に置いたナイフを手に取り、指先で踊らせる。
 名前は慌てて残りのパンを口に放り込み、咀嚼する。テーブルの端に置いたままの薬を手に取り、アルミのシートを破る。錠剤を一つ取り出して水と一緒に飲み込んだ。
「少しは眠れましたかー? ミーが居ない間に駄王子が来たみたいですけどー」
「駄王子って?」
「ミー達が初めて在った時に居たじゃないですかー。ティアラを付けた頭悪そうなのがー」
 フランは生ゴミを摘むように、ナイフを投げ捨てる。
 名前はナイフを拾い上げ、テーブルに載せた。ナイフに刻まれた繊細な模様や、既製品にはない特徴的な先端の形。持ち主の顔を忘れるわけがない。
「プリンス・ザ・リッパーか」
「正解ですー。そうそう、ボスからのプレゼントがあるんで、早急に着て下さーい」
 フランは紙袋を差し出し、名前は頭に疑問符を浮かべながら受け取った。中身を取り出すと、フランが着ている物と同じ上着、パンツ、ブラウスの三点セットが入っている。
 先ほど配膳に来た男も同じ衣服をまとっていたことから、制服である事がわかる。
 紙袋を抱えたまま洗面所に入り、着替える。上着が包帯越しに右腕の切創を刺激するが、必死に声を堪える。
 パンツがやや大きく、手持ちのチントゥーラで調整したが、聊か気持ち悪い。
「サイズ合わないみたいですねー。靴もあるんですけどー女性用は控えが無いんで採寸しましょー」
 アジトに入る際、気絶していたので外に出るのは初めてで緊張に胸が高鳴る。意を決しフランの後を追い、おずおずと足を踏み出した。
 誰かしら居るだろうと思ったのだが、廊下には人一人歩いておらず、静けさが趣を引き出している。

 上層階は殆どがプライベートルームになっていて、会議室、医務室、連絡室、食堂、階段の構図や配置を聞いた。テロ対策のために入り組んだ構造になっている建物は、知識がなければ迷ってしまうだろう。
 フランが説明した以外の設備が数多にあるようだが、規定任務をこなすまでの間は知らされる事がないと言う。
 途中で隊服の採寸を行い、休憩室へと向かう。
 名前はふらつくのを堪えながら椅子に腰を下ろす。
 フランは自販機のボタンを押している。紙コップが設置され、中に氷が流れ落ちる。水と液体が混じり、紙コップが満たされると取り出し口が光った。
「名前は何を飲みますかー?」
「アイスコーヒーのブラック、ミルクなし。」
 フランは満たされた紙コップを取り出し、自販機のボタンを押す。窓のない休憩室に、空調の音が頭に木霊する。鼻を擽るコーヒーの香り。
 名前は僅かに汗がにじんだ額を袖で拭う。体が火照り、息が苦しい。
 フランが紙コップを差し出し、当たり前のように右手を伸ばすと、電流が走るかのような痛みに顔を顰め、左手で受け取った。
 痛み止めを飲んだとはいえ、全ての痛みを取り払ってくれるものではない。
「息が荒いですねー。熱出てるんじゃないですかー?顔がタコみたいですよー」
 フランは最初に会った時と性格が違うように感じた。仕事とプライベートを切り分けているのだろうか。しかし、考えてみれば今、フランは仕事で邸内を案内してくれているのだ。
―――フランをじっくり観察してみよう。
「忘れてましたー。新しい隊服が仕上がり次第、訓練しますんでー」
「訓練?」
「サバイバルの実技とか色々ですねー。せいぜい頑張りやがれー」
「なに、ここって軍隊?」
「生き抜くための秘策ですー。凡人のアンタがこのまま生きていられる訳ないじゃないですかー」
 名前は紙コップに唇を寄せ、コーヒーで喉を潤した。
 突拍子もなく、名前の目の前で風切り音が通過する。
「何だったのだろう」そう思いながら、隣で心ここにあらずといった状態のフランを見ると、心臓のあたりにナイフが突き刺さっている。名前は驚愕のあまり、コーヒーが気管に入ってしまい、盛大にむせる。
 フランは突き刺さったナイフを引き抜き、二つ折りにしてダストボックスに投げ捨てる。
「面倒なのが来ちゃいましたー」
「てんめっ・・・ぶっ殺そ」
 開け放たれていた休憩室の入口に、ギターの弦を弾いた様な声が響く。
 頭に煌びやかなティアラを乗せ、目は金色の前髪で隠れている。プリンス・ザ・リッパーだ。
 名前は見覚えのある佇まいに身構えるが、今は愛用のダガーが手元にない事を思い出す。代わりに、襲われた時に手に入れたナイフを左ポケットに忍ばせている。
「駄王子のせいで、ミーの可愛い後輩がビックリしてるじゃないですかー」
「ベルフェゴールだし。つーか心臓に刺さったんだから死ねよ」
 プリンス・ザ・リッパーが名前を視界にとめ、鼻で空気を吸い込んだ。途端に口元が歪むのを見て、嫌な予感が頭を過ぎる。
 ベルフェゴールは、どんな時に笑っていたか。鮮明な記憶が、危険信号を察知する。
「ししっ・・・面白くなりそうじゃん。赤毛のお前、いい匂いがすんじゃん」
「血に反応して見境なく盛るのやめろよー」
 フランがいつの間にか空になった紙コップで口元を隠し、名前の裾を引く。
 名前が反応した事を目の端で一瞬だけ確認し、唇だけを動かしている。「にげます」名前は紙コップをテーブルに置いた。
 出入り口はプリンス・ザ・リッパーの後ろにただ一つ。二人は一斉に踏み込み、左右に分かれてすり抜ける。
 名前は隊服の襟を捕らえられたが、即座に脱ぎ、走り去った。

 プリンス・ザ・リッパーは白く整った歯が剥き出しにて、隊服に隠したナイフをフラン目掛けて投げる。過半数のナイフは全てフランの体に留まり、背中がハリネズミのような姿に変わる。
 フランは涙を浮かべつつも刺さったナイフをそのままに、廊下の窓硝子を突き破り、跳躍するが大した高さではないため、難なく地面を迎え入れる。
 既にフランは森に向かっており、名前は背中を追う。
 プリンス・ザ・リッパーが追跡しているのを肌で感じ、ブラウス越しに滲み出る血液を気にせず一心に駆ける。

 プリンス・ザ・リッパーが森の奥へと消えた頃、ヴァリアーのアジトのすぐ近くにある定義の茂みがわさわさと動く。
「これで駄王子は当分帰ってこないですねー。アンタ、手負いの癖に良い腕しててムカつきますー」
「とりあえず生き延びるって、この事か」
 フランと名前は安全を確認しながら茂みから姿を現す。
 互いに葉っぱまみれになり、小枝で服のあちこちが擦れていた。幻術でプリンス・ザ・リッパーを捲いた名前は、肩で息をしながら安堵のため息を吐いた。
 フランは背中に突き刺さったナイフを抜き取り、忌々しいと言わんばかりにもれなくひん曲げて草むらに捨てる。
「アンタ血だらけじゃないですかー」
「開いたかも。切れた感覚あったし」
 フランは不機嫌そうに口をひん曲げる。名前の部屋に行くまでの体力を考慮し、再び治療を受けることになった。
 フランは経過報告のため、名前を医務室まで送った後、姿を消した。

 医師の指示で上着とブラウスを脱ぎ、タオルで下着を隠すと、縫合された傷口を覆うように血が滴る。皮膚を繋いだものが切れているのが視界に入る。
 紅潮した肌は汗ばみ、息はどんどん荒くなる。視界が薄らと白みがかり、自身の限界を自覚する。
 医師は傷口を水で洗い流し、露わになった脂肪の粒に麻酔を直接注射する。傷を受けて直ぐは防衛本能で痛覚を麻痺させるが、時間と共に機能が回復していく。
 昨日よりも鋭い痛みが全身を支配し、声が漏れそうになるのを必死でこらえる。

 縫合を終え、感染症を防ぐための抗炎症剤と痛み止めの投与を受ける。療養のため、1日だけ医務室のベッドで寝るようにと注意を受ける。
 手当てをしたのは、医務室に駐在しているという白髪混じりの中年男性だ。暗殺という組織に似つかわしくなく、動作一つをとっても和やかな雰囲気を醸し出している。
「血気盛んなのは結構ですが、美しい肌が勿体無い。体を労ってやりなさい」
「ここじゃ暫くは無理ですね。プリンス・ザ・リッパーに目を付けられたみたいですし。」
 医師は困ったように笑いながら名前の左手首の動脈に点滴の針を刺す。
「可憐な身体で良く頑張ったものだ。しかし無理はいけないよ。怪我をしたら何が何でもここに来ると良い」
 手際よく管を繋げ、液体が満たされた点滴のパックを釣り下げる。ギアで滴加速度を調整し終え、椅子に腰を下ろす。
 名前が静かに医療ベッドに身を沈め、暫くするとカーテンが閉まる。
 点滴がポタリと落ちる度に、針がつながる場所から冷たい物がじわりと広がるように溶ける。全身が暑くて苦しい。目を閉じても瞼の先が真っ赤に染まり、眠れない。
 先刻まで自分を追い回していた金髪のティアラが頭に浮かぶ。
 名前にとって彼が投げたナイフ1本しか獲物が無い。愛刀は自宅に置きっぱなしなので暫くは返すつもりはない。
―――そういえば、ティアラの人に自己紹介するのをすっかり忘れていた。今度会ったときに彼が平常だったら挨拶しよう。
「電話借りてもいい? 自宅の荷物をどうにかしなきゃいけないから、知人に連絡したいの」
 ジーノは快諾し、あっさりと電話を貸してくれた。気を使ってか別室に移動したようだ。手短に済ますべく、慣れた番号を押す。
 電話はすぐに終わったが、荷物を運ぶのにどうしても人出と車が必要になる。自分で手配するとは言ってもここは暗殺部隊のアジト、知り合いであろうと場所を知られるような事があってはならない。
 受話器を置き、別室に居るジーノを呼ぶとすぐに駆けつけてくれた。
「君の担当はフラン君だね? 彼の方が人員を動かせる立場だから、かけあってみよう」
「あっ、いえ、急ぎでは―――」
 恐縮している名前を余所に、医師は内線でフランを呼ぶ手配をした。
 フランはタイミング良く報告が済んだようで、直ぐに医務室に戻ると返答が来たと言う。
「我が儘を聞いて下さってありがとうございます。」
「美人は眉間に皺を寄せるより、笑顔で居てほしいからな。協力出来るところなら、何でも言っておくれ。自己紹介がまだだったね。私はジーノ、医務室長だ。麗人のためならいつでも力になるよ」
「私は名前。宜しく」
 ジーノと名乗った医者はニヒルな笑みで握手を交わした。
 フランが来るまでの間、ジーノの昔話を聞いた。彼は闇医者で、襲われていた所をボスに拾われ、以来ヴァリアーに尽くしてきた。
 現役時代は現場専属医者を行っていたが、老化のため後任に引導を渡し、今は医務室に収まった、と。
 名前がソルジャーとして入隊した事は知っているようで、薬学の訓練があるなら是非とも指名してくれと名乗りを上げてくれた。
 フランが医務室に到着すると、ジーノは席を立ちフランに礼をすると、別室へと消えていった。
 難しい話でもしていたような面持ちのフランは、当たり前のようにベッドの縁に腰を下ろす。
 右腕を包帯越しにそっとさするが、麻酔が効いているので痛みはない。それでも反射的に手を庇おうと起き上がった瞬間、視界に星が広がり、ベッドに体が沈んでしまう。
 フランは笑いを堪えながら、名前が横たわるベッドの枕元に手を伸ばす。
 気がつかなかったが、枕元にコントローラが吊り下げられている。フランがボタンを押すと名前の上半身が勝手に起き上がる。介護などに使われる、電動ギャッチベッドだ。
感激しているとフランが小馬鹿にしたような視線を送っている事に気が付き、視線を逸らす。
「で、例の条件とやら、ですねー」
「あー・・・・・・うん。どうしても人出か欲しいの。荷物はかなり絞り込んだけど、手放したくない物があるから」
「全く。仕方ないですねー・・・その代わり、休養の後にミーの仕事を手伝ってもらいます」
「ありがとう」
 名前は途端に目を輝かせ、フランを力の限り抱きしめ、頬にキスする。フランは視線を逸らして何か言いたげにしているが、嫌がるそぶりはなくなすがままだ。
 心なしか顔が赤いようにも見えるが、視界が霞んでいるので見間違えかもしれない。
「その怪我を早く治してくださいねー。見てるだけで体調悪くなりそうなんでー」
 フランは名前の耳元で切なそうに呟く。
 多少休んだとはいえ、貧血の所為か肌が青白くなっている。気を取り直して、フランを開放する。
 傷が癒えたら真っ先にスクアーロに報復しようと心に決める。

自重しないあとがき

始まってまいりました。

次に進む