ふわりと体に這うように重厚な空気と、ピリピリと耳鳴りのようなものを感じる。
意識が浮上し、勢いよく起きあがると、質素な生成のシーツが敷かれたベッドの上に居た。薄手のタオルケットがかけられていて、起きあがった反動で乱れている。
辺りを見回すとそこは見慣れた自室ではなく、ブラウンカラーでシックに纏められた空間。
ベッドから降りようとすると、肌が突っ張るような痛みを感じ、腕を捲ると線状に出来かけた瘡蓋があった。傷口の状態を見る限り、意識が途切れて以降はあまり時間が経っていない。
つい先ほどまで会っていた目深帽子の男の顔が頭に浮かび、唇を強く噛む。
「入りますよー」
聞き覚えのある間延びした声と共に、北側にある扉から2人の人物が姿を表す。カエル頭のフランと、もう一人は銀色の長髪の中性的な顔立ちの人間で声は独特な嗄れがある。
「お前がメッサジェッロの名前かぁ!」
大音量のスピーカーが間近にあるようなやかましい声に、名前は目を細めた。
銀髪の男が眉間に皺を寄せながら名前を見据える。
「言語は幾つ喋られるんだぁ?」
突如投げ掛けられた質問に疑問符が浮かぶも、応える義理はないと冷たく言い放つと、銀髪の男は空を切り裂くように腕を振る。
硝子窓が二つに裂け、地面と接触して粉々になる。
「言えば危害は加えないでおいてやるがなぁ!」
首を傾けて過去の記憶を思い出す。仕事柄、各国の会話を要するため自然と身につく変わりに、どの発音がどの国の言葉なのかわからない事が多々ある。
声に出しながら一つ一つ思い出しては指を折る。
「―――合格だぁ。挨拶が遅れたが、俺の名はスクアーロだぁ。手荒な真似をして悪かったなぁ」
重々しい口調が弾むような声色へと変化した。
「名前と言ったな。薄給で運び屋をやっていたと聞く。
今回の件ではっきりしたが、格安で裏の仕事をされちゃあ商売が成り立たねぇ。昨今の報告を聞く限り幻術のスキル、戦闘センスは悪くねぇ。そこでだ。」
スクアーロと名乗った銀髪の男はぐさりと居たい所を突くが、負けていられない。
暗殺部隊のスカウトとなれば殺しは必然だろう。
名前はこれまで、配達物の保守及び配達主の護衛を主とし、命を奪う行為は経験が無い。自分や仕事仲間の命がかかっているとは言っても到底やる気にはなれなかった。
背筋に痒みが這い上がる。
名前は心境を表に出さずに冷たく言い放つ。
「どうなるかは同胞に聞いた。答えはノー」
「お前が殺しをした事が無いのはお仲間から聞いているぞぉ。晴れて入隊となれば適正職務を与えてやる」
スクアーロはまるで想定しているとでも言わんばかりに、カエル頭の少年が手にしていた荷物から一枚の書類を取り出し、木製のテーブルに広げた。
名前は書類に視線を落とすと、報酬についての詳細が記されていた。
そこに書かれた桁違いの金額に目を見開く。何よりも意外だったのは職務内容。マフィアならではのレパートリーだが、普通の事務処理や電話番などもあると記載されている。
場所が場所なだけに、入隊したらいきなり決死隊なんて事も考えられる。
―――鵜呑みにしてはいけない。
スクアーロは名前の表情の変化を見逃さず、もう一つ書類を取り出して名前に差し出した。書かれていたのは同胞の、目深帽子の仲間の男が見せた物と同じだった。
「仮に暗殺部隊に入隊したとして、本当に≪メッサジェッロ≫の―――リストに載っていない人達は無事で済むの?」
「全てはお前らリストの返答次第だぁ。拒否した奴は消すが、八割残ればメッサジェッロはヴァリアーの傘下に収まる。十分だけ待ってやるからよく考えろぉ。フラン、こいつを見張ってろぉ」
「ゲロロー・・・・・・すんごい嫌ですー」
スクアーロの後ろ姿を忌々しそうに見つめながら舌打ちし、名前の向かい側にあるソファーに腰を沈める。
見た目は華奢だが、力量は計り知れない。
昨日の仕事で顔を合わせたばかりのカエル頭は、確か幻術を使っていたな、と靄がかる思考の中から思い出していた。
「改めて自己紹介といきますかー。僕はフランって言いますー」
「名前です。」
「つれないですねー。ミーも拉致られて入隊したクチなんでアンタには同情しきりですー」
フランは無機質な表情のまま、両腕を頭の上で組んだ。
改めて対面すると気の抜けた声、変化のない表情、何を考えているのか解らない不思議な子だ。言葉使いが若々しく、身長が小さいため年齢は高校生くらいか。
部屋に一つだけある窓から陽光が漏れている。ざわざわと木々が鳴り背筋に悪寒が走る。幻術の兆候だ。
視界に写る全てが歪む。木々が窓を突き破って名前を襲う。
名前は楽しげに唇を尖らせながらベッドを蹴り、フランの元へと一気に詰める。右手がフランの喉元へと伸び、力を込めるも違和感だらけの感触に手を緩めたと同時に、世界が硝子の様に割れる。足元が腐り、次第に泥沼へと変化していく。
名前は溜息を吐き、ベッドの上に座り、テーブルの上に纏められた資料を手に取っていた。
フランは相変わらず椅子で寛いでいる。
窓は割れていない。幻術だから現実では何も起こっていない。
「あんた面白いですねー。ミーの幻術をこうもあっさりと破られると清々しいくらいムカつきますー」
「しがない幻術使いなんで。破るのは得意ですけど、逃走用なんであまり大層なのはかけられないんです」
「へー。アンタスパイとか工作員とか向きじゃないですかー? それに女隊員が少ないんでアンタ重宝されますよー」
「前線に立たなければ嬉しいんだけど。殺しとか生々しいのは無理だもん」
「ここは成功率九十パーセント以上の任務に配置されるんでー。失敗しそうなのには滅多に出されないですよー。運が悪いとよくありますけどー・・・・・・それに奇人ばっかで観察してると楽しいですよー」
「それなのに、何故でこんな手荒な真似してまで?」
「スカウトはイコール拉致だそうですよー。ミーもそうだったんで」
書類を確認しながら思案を巡らせる。
求められているのは運び屋で培った腕だけではないようだ。深刻な人員不足に労力が枯渇していて、手駒を増やせるだけ増やしたいのだろう。
―――目深防止の男は「面白い」と言った。
フランは暇そうにテーブルの上で幻術の変な触手を創って遊んでいる。
扉をノックする音が響き、スクアーロが顔を出す。
彼の後ろから一人、野性味たっぷりの男が不機嫌そうにこちらを睨んでいた。髪の左側にエクステが付いている。
散漫な動作で室内に入ると、スクアーロはワンテンポ遅れて室内に入り、扉を閉める。
隣にいたフランは軽く会釈したが、男は気にもとめぬように真っ直ぐこちらに向かう。ベッドの前で歩を止め、こちらを見下ろしながら鼻で笑う。
フランは名前に「あれが怒りんぼのボスですよー」と耳打ちする。
「ひとつ条件がある。飲んでくれるならここのボスに忠誠を誓う」
「なんだぁ?」
「家にある物を全部ここに移したい。手配は自分で行いたい。それを飲んで頂けるのなら」
値踏みをされているかのような嫌な視線を送るボスの瞳を、ぎろり、と睨みつける。
試されるとか、舐めまわすような視線とか、人に優劣を付けるタイプの人間はどうも苦手だ。とはいえ無暗に表に出せないのは、目の前に居るボスが一目で屈強な兵だと判断できるからで。
ボスはニヒルな笑みを浮かべ、こちらに背を向けた。
「いいだろう。カス鮫。辛気臭ぇツラしたカス女にオメルタを叩き込め。指揮はお前が取れ」
「うおぉい! 責任放棄かぁ?」
ボスはサイドテーブルにあった花瓶をスクアーロに投げつける。
物の見事に顔面で受け止め、花瓶の破片と水が散乱する。全身水浸しの状態に、不快を露わにしてボスに怒鳴りつけるも聞く耳持たず。
傍から見ていて不憫でならない。
長ったらしい掟を散々説明され、適当な儀式らしき時間は終わった。
これで正式にマフィア界隈に全身どっぷり浸かる事が約束される。
右腕から滴り落ちる血を眺めながら、はあ、とため息を吐いた。
形式として、組織に就く場合は血を交わす必要がある事はそれとなく知っていた。普通は指先とかに切り目を入れる程度だが、ありえない程に切り開かれ、血を交わすには多過ぎるほどのダダ漏れ状態。
掟のほか、ここでは気性が荒い者が多く、敵味方関係なく気に入らない者をあらゆる手段で追放せんとする輩が居るようで「力にものを言わせても構わない」という特殊ルールを知る。
―――新米は、とりあえず生き延びることが今後の課題になるようだ。
ボスが部屋を後にしてからようやく静寂が訪れ、質素なテーブルの上に金属が落ちる。見ると、それは鍵の形をしていた。
「そこの銀髪、これは?」
「人の名前ぐらい覚えやがれぇ! スクアーロだぁ!」
「はいはい、わかりました。わかりましたよー。で、この鍵は?」
「この部屋の鍵だから好きに使え。それからフランは明日、邸内を案内してやれぇ」
「ミーは任務が・・・・・・」
「無くなったから安心しろぉ」
「えーお断りですー。ミー任務大好きなんで、戦前ってー生きてるって感じがするじゃないですかー」
「普段からその熱意を見せやがれぇぇぇ!」
「その前にこの傷何とかして下さい。痛いです」
スクアーロはち、と盛大な舌打ちをしながらけたたましい音を立てて室外へ行ってしまった。
(いきなり放置かよ。世知辛い組織だなあ)
名前は一先ず垂れる赤い体液を少しでも止めるため、首に巻いていたスカーフを巻き付けて止血した。
室内を詮索する。ここが自室になるとすれば、知っておくに越したことはない。入口に繋がる扉の隣に、もう一つ扉がある。そこを開けると正面に洗面所が見え、更に左右にも扉がある。開けてみると右が手洗いで左はバスルームだと言う事が解った。
唯一安らぐ場所が共同の部分ではない事実に・ 傷口を精製水で洗浄し、局所麻酔をかけてからじっくり時間をかけて割けた傷口がぴたりと繋がる様子は見事なものだった。血液の処理を終え、真っ白な包帯で右腕が覆われる。
医療班の男は淡々と名前に抗生物質と解熱剤を手渡し、静かに去って行った。
麻酔をしているとはいえ、縫合により体力を消耗しきった名前は力の抜けた体を椅子に預け、ベッドを占領しているカエル帽子に視線を移す。
衰弱した部屋主をよそに、両手で頬杖をつき楽しげに名前を観察している。
「寝るんでそこ退いてください」
フランはにやりと怪しげな笑みを浮かべながら、肘を離して仰向けに寝そべり、両腕を広げた。
「今なら生温かい枕になってあげますー」
「広いベッドで寝るのが夢だったんです。一人でね」
「話が全く噛み合わないですねー。」
フランは、やれやれ、と言わんばかりの散漫な動きで起き上がり、ベッドサイドに居直す。枕を軽く叩き「ここに来い」とばかりに意思表示する。
名前は梃子でも動く様子を見せず、その場でウトウトと舟を漕いでいた。
勢いよく首を垂れたあと、ハッとしたように目を大きく見開く。しかし、体力はとうに尽きているのは明白で、再び首がだらしなく前に倒れた。
出血性ショックのせいか、意識が遠くなっていくのを感じるが、必死に持ち直そうと気張る。
「大人しく寝てくださーい」
柔らかく微笑むフランを、焦点の合わない瞳で見つめる。言いかけるも、重い瞼が勝手に下りてくる。金色の瞳が見えなくなる。
フランは重い体をしっかりと抱きとめ、緋色の髪の持ち主をクイーンサイズのベッドに身を預けた。
沈む意識の中で、最後に会ったメッサジェッロの仲間が頭に浮かんだ。
自重しないあとがき
見事フランが上司に当選いたしました。スクアーロの洗礼怖いよー。