「・・・い、おい!目を覚ませ!」
「おはよ」
「昔の夢、見てたんだろ。そんなに泣きはらして」
「ごめん・・・」
「名前が謝る必要なんてないだろ。悪いのはアッチの方だ。今でも」
殺したいくらいに。友達は激高にまかせて言葉の続きを言う前に、名前が友達を抱きしめる。
可愛そうなくらい震えている。
名前から香る色濃い死神の残り香に眉を潜める。
友達はそうしようもなくなって名前の背中をぽんぽん叩く。
両親を知らない友達はずっとひとりぼっちだった。そんな折、自分と親しくしてくれたのは名前ただ一人だけ。
どこに居ても一人ぼっちの二人は、名前が通う公園のすぐ近くで出会った。
初めて顔を合わせたとき、名前は今のように泣きはらし、友達は人間というものにより深い絶望を抱いた。
幾年重ねても人間は傲慢で、己の欲に忠実な生き物だ。
しかし名前は少し違った。
小さな体なのに生きることを諦めたような目をして、その奥で燃えるような何かを―――力強く生きたいと願う心のともし火を燃やしていた。
合う回数を重ねていくうちに、名前とはどんどん打ち解けた。
彼女は幸福を知らないままどんどん成長していった。
その過程で名前の生い立ちを知り、激高さえした事もある。
そんな姿を複雑な思いで見届けた。俺の姿は何年経っても変わっちゃいない。
俺が悪魔だからだと伝えても名前は何も疑うことなく受け入れてくれた。
だから守ってやりたかった。悪魔は普通なら狡猾に人を陥れ、魂を食らう。しかしそんなことはしたくなかった。
もう何百年、人の魂に興味を無くしていたのだろうか。
「最近ね、変な人に会ったの」
「変?」
「ちょっと変わってるんだけど優しくて不思議な人だった。黄緑色の目をした人」
友達はそれに覚えがあった。
少し前に臨時講師だとかで大学に入り込んだ死神。
「オカマ・・・じゃないや、グレル先生のこと?」
「うん。それでね」
「あんまり他の人を信用したらいけないよ。人間は狡猾で醜悪だから」
「友達は悪魔なのに優しいね」
「優しくなんかないよ・・・・・・」
死神風情が出しゃばってくるなんて、虫唾が走る。
まさか死期が近づいてくる人間の前に、前もって接触するはずがない。
だとしたら十中八九、自分絡みで名前は目を付けられているのだろう。
「友達がいてくれなかったら私、どうなっちゃってたんだろう」
名前は単純だから、あっさり友達の方向転換の話に引っかかってくれた。
「考えるのはやめよう?俺はお前を大事にするから。お前が死ぬまでずっと一緒にいるからな」
優しく言ってやれば、徐々に名前の重い目蓋が閉じられていく。
人間は脆弱で、脆くて、すぐに命を散らす。
だから守らなければ、特に弱い名前なんかあっという間に命を投げ捨ててしまうだろう。
いつもぼろぼろで弱りきった魂をした名前は、いつも他の悪魔に狙われている。
今だってそう、小腹を空かせた低級悪魔の気配がうようよしている。
守らなくては。
友達は眠った名前を置いて外に出る。
多数の悪魔の気配のする野外は、夜はよく冷える。
思い切り跳躍して屋根に上り、辺りを見渡すと案の定悪魔がぽつぽつ見て取れる。
臨戦態勢に入り、最後の一匹に手をかけた刹那、嫌な臭いと気配を纏った存在がこちらに近づいてくる。
真っ赤な髪の毛。着崩したコートは少し前に名前が手にしていたものと全く同じだった。
その人物は大学でよく見慣れた死神、グレル・サトクリフ。
「これまで相対していなかったから手は出さなかったけど、そちらがその気なら俺だって容赦しない」
「今にも空腹で死んじゃいそうな癖にアンタの殺気、ゾクゾクしちゃうワ」
にたりと汚らしい笑みを浮かべる死神に、不快感がこみ上げる。
二人の間に火花が散る。
「害獣が何をしようが知ったこっちゃ無いわ。でもねえ」
「死神風情が説教?煩いよ」
「せっかちな男はモテないわ―――よっ!」
言い終えるや否や、グレルが先制してデスサイズを友達目掛けて振り下ろされる。
友達はよろけながらも指先でデスサイズをつまみ、グレルごと持ち上げてぽいっと放り投げる。
「アラ。死にかけだと思ってたけどまだそんな力が残ってたのね。でももう身体は限界なんじゃないかしら?」
「ご高説は結構です。グレル先生」
「いやあねえ。生徒の悪魔と死神講師のアタシとのイケナイ火遊び、存分に楽しもうじゃない!」
「っ反吐が出る!」
力任せに長い爪をグレルに振りかぶる。が、そこに死神の姿は既に無かった。
「見た目通り餓鬼ねえ」
背後に感じた死神の気配を即座に察知し、デスサイズの刃を手で受ける。
表情だけは余裕を取り繕うが、中身はグレルの言うとおり、とっくの昔から弱りきっていた。
魂を口にしていない代償なのはわかっている。
「ンフッ!じゃあアンタには特別少しだけ本気を見せてアゲルわ」
たった一瞬で詰め寄られ、あっさりとデスサイズの刃が友達の身に突き刺さる。
傷口からシネマティックレコードが飛び出す。
友達はあまりの衝撃と痛みに気を失いそうになった。
一方のグレルは余裕綽々と両目を凝らす。
俺のシネマティックレコードが、大事な記憶が、こんないけ好かない奴に見られるなんて。
かといって力をつけるために魂を食らうのは、もう嫌だった。
長きに渡り、人の心の隙に漬け込み、巧妙に騙し、魂という名の馳走を啜り。
いつしか悪魔としての生に疲れていた。
罪の意識があったわけではない。人間と契約してきた数多の主は悪魔を私欲のままに利用し、最後は醜く頭を垂れて命乞いをし、滑稽なやつらをただの餌として食ってきた。
紛争に利用され、享楽の相手として惰性を貪り、幾千年のときを経て、見るのですら吐き気がするようになっていた。
いつしか魂を食らうことに興味をなくし、そのまま朽ちる日を何百年待ったろうか。
ふらりと立ち寄った、まだ魂が清らかな子供達が集まる公園。そこでいつかこの子達も成長し、かつての契約者達のように醜く黒ずんだ魂へと化していくのだろうかと、ぼんやり考えていた。
そこで魂が酷く傷ついた名前と出合った。
彼女は一人公園の隅っこで泣いていた。
こっそり覗き込んだ魂は今にも壊れそうなほど悲鳴を上げていた。
それを見たとき疑問が生まれた。
名前の姿を、他の誰が気にかけるでもなかった。清らかだと思っていた魂でさえ汚いものに見えた。
何となく人間らしく振舞い、名前の頭を撫でながら、悪魔にも他にできることがあるんじゃないか、と。
ありがとう、と名前が泣きじゃくりながら自分の腕の中で泣いたある日、その思いは一層強くなった。
ただ一人の人間を幸せにしてみたい。
単なる気まぐれだったかもしれない。
その日のうちに俺は彼女を浚った。ついでに彼女の父を探し出して葬り、魂を食らうでもなく、惨めに握りつぶしてやった。
今までの葛藤が確信に変わった。
人間のほうが悪魔より悪魔じみていて、醜悪で狡猾。
その後、事実を彼女には一切伝えず、怯えがちに寄り添う彼女をひたすら大事にしてきた。
友達という偽名に一切疑問を抱かず、日を追うごとに純粋に自分を慕ってくれた。名前の傷ついた魂は時間をかけて癒える兆しを見せていた。
そんな毎日は、腹が満たされなくとも乾いた心を充分に潤してくれた。
「―――見るな!」
体から失われかけていた力を必死に振り絞り、デスサイズの刃から逃れる。
デスサイズの傷は癒えにくい。容赦なくぼたぼた垂れる血から、濃い瘴気が漂う。
「アンタが名前を大事にしてる事はよくわかったわ。でもアンタが悪魔である以上、人を不幸にしかしないのよ」
「知ったような口をきくな」
「弱い犬ほどよく吼えるわねえ。立ってるのが精一杯ってトコでしょうに。アンタ自分を追い詰めて楽しむのが趣味なのかしら?ヤダー!刺激的でたまらなーい!興奮しちゃうわー!」
「・・・言われなくてもわかってるんだよクソオカマ。こんなのあいつの幸せなんかじゃないって事ぐらい」
「最後に言いたいことはそれだけ・・・・・・ってあら?ヤダ!嘘でしょ?!」
友達は最後の力を振り絞って全力で駆けていた。
死神風情に背を向けるなんて一生の恥だが、この際仕方ない。
悪魔にハッピーエンドがない事ぐらい、知能を有して数百年、とっくに理解していた事だ。
それでも―――偽りの日々だとしても束の間の幸せぐらい人に与えたっていいじゃないか。
ただの口約束だけど、絶対に名前は死神風情なんかにやってたまるものか。
グレル・サトクリフ。お前に名前は渡さない。