モノクロストライプ6
死神派遣協会会議室。
そこは美しいほどの白い壁に、完璧に磨きあげられたテーブルが輪のように並んでいる。
広い室内に対して、椅子はたったの三つ。座っているのは髪をぴっちりとオールバックにしたウィリアムが、こめかみに青筋を立てていた。
どれくらいの時間が経過しただろうか、けたたましく開いた扉からは赤毛のオカマ、グレルが珍しく神妙な面持ちをしている。
グレルは乱暴に椅子に座ると、ウィリアムは眼鏡を怪しげに輝かせる。
「一時間の遅刻です」
「わかってるわ。それよりロナルドはいくら待っても来ないわよ」
「・・・・・・どういう意味ですか」
「アタシの担当地区の悪魔がソッチに逃げ込んだの」
「なぜ追わなかったのですか。事と次第によっては」
「やあねえ、収穫はバッチリよ。アッチはアッチに任せて話がてら報告書を纏めたいの。アタシこれでも急いだんだからさっさと始めましょ」
えも言えぬ雰囲気に、ウィリアムは珍しく気圧される。
グレルは手際よく用意していた数枚の書類を見て、真面目に取り組む意思を垣間見る。
ウィリアムは眼鏡をくい、と正して具に語るグレルの言葉に耳を傾ける。
友達が住むアパートで、名前はたった一人部屋の片隅に縮こまっていた。
ここ数日使われた形跡のないキッチン。
放り出されたままの教科書、レポートなどには、埃が溜まり始めている。
冷蔵庫の中にあった野菜はすっかり瑞々しさを無くし、しおしおに干からびていく。
家主である友達は、ある日突然姿を消した。名前はその間ずっと肩を震わせていた。
初日は出掛けているのだと自分に言い聞かせ。
翌日はどこかの友達の家に泊まっているのかと言い聞かせ。
そこから先は、もう帰ってこないーーーとうとう捨てられたのだろうか、と日々心が沈んでいく。
友達に連絡したくとも、携帯は家のテーブルの上にある。
唯一の心の救いは、グレルがたまにメールをくれることだった。しかし元気を取り繕うような気力もなく、返事が思い浮かばないまま放置していた。
現実から逃げるように目蓋を閉じる。
何度も眠れば、そのうち友達が帰ってくるかもしれない。そんな願いは虚しく、今日も新しい一日を迎えた事に再び絶望する。
このまま友達が帰ってこなければ死んでしまおうか。名前の顔には生気が失われかけていた。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴り、名前は一瞬、友達が帰ってきたのかと目を輝かせた。
しかし、友達は一人で出歩いても、帰ってくるときはチャイムを鳴らさず、そのまま入って出迎えてくれる。
名前は居留守を決め込む。
二、三度チャイムが鳴った後、漸く訪れた静寂にほっと一息つける・・・と思っていたが、考えは甘かった。
「アンタそこに居るのはバレバレなのよ。いつまで籠城決め込むつもり?」
聞きなれた声に、名前は顔を上げる。紛れもないオカマ講師、じゃないグレルだ。
一体何故ここにグレルが来るのか、どんな用事があるのか。
不安に苛まれた頭では何も考えられない。
ただ、その声は求めていたものとは少し違ったが、安堵をもたらした。
ドアを開けに行こうとしたら、玄関の扉が開いた音がする。
驚いて毛布を手繰り寄せ、再び部屋のすみっこで縮こまる。
隠れる必要なんてないのに、あまりグレルにはこんな姿を見せたくはない。
信じて裏切られる、そんな恐怖心で心が一杯になる。
「汚い。臭い。最低の居心地ねえ」
足音は無情にもこちらに向かっている。
カツカツとヒールが鳴っていることから、土足で踏み込んでいるのだろう。
「仮にも乙女なんだからきちんとなさい。危ないんだから鍵くらい閉めておきなさい。ワルい狼に襲われても知らないわよ?」
どこの小姑だ!と内心突っ込むが、声は出さない。
握りしめた毛布が剥がされていく。
そこからグレルが無言になり、名前は膝に埋めた顔を上げられないでいた。
のだが、ふんわりとした暖かい手が、力強く名前の頭をがっちり掴み、強引に上を向かされる。
グレルを見る勇気がなくて、思わず目をそらす。
「言いたいことは腐るほどあるケド、まずはアタシの家に行くわよ」
「ひぃっ!」
「今のアンタ見てると意地悪したくなっちゃうのよね。強がったって無駄よ?そんな痩せこけて、お肌もガサガサじゃない。アタシがと・び・き・り!のサービスしてあげるわ」
「意義あり」
「アタシが聞くワケないでしょ」
そこではじめてグレルの顔を見上げた。
ここ数日何も食べていなかったせいか、視界は霞んでいたけど意地悪く笑っているその表情は、数日前に見たものと全く変わらない。
何日かぶりに頬が緩む。
グレルは名前を横抱きして立ち上がる。
何かがボトリと落ち、グレルはそれを拾って名前の手に持たせる。
携帯電話だ。
「ったく、手元にあるならメールくらい返しなさいよ。いくら在学生じゃなくてもたまには顔を出してくれなきゃガールズトークが出来なくて寂しいもんなのよ」
男にかこまれていた方が目の保養になるんじゃ、と言いかけたが、あまりに優しい声色だったから口にはしないでおいた。
颯爽と歩き始め、地面が遠くなる。
それがどうしても怖くてグレルにしがみついた。高いところが苦手なのだ。
たどり着いた先は、やけに大きく華美な高層マンション。
グレルは手慣れた手つきでエレベーターのボタンを押す。
ガラス張りのエレベーターからは、夜景がよく見える。道路がどんどん遠退き、名前はグレルにしがみつく手に力を込める。
グレルは耳元で、アンタって高所恐怖症なのね、と艶っぽく囁く。
そのせいか、高いところにいる実感がより掻き立てられた。
怖くなってグレルの首に手を回して顔を埋める。
芳しいローズの上品な香りがして、高鳴っていた心臓が徐々に落ち着きを取り戻す。
カツカツとヒールが響き、グレルは器用に片手でポケットからカードキーを取り出し、部屋の扉を開ける。
グレルと同じ香りが充満している。グレルはそこから少し歩いたところで、名前を下ろす。
ぽふん、と小気味のいい音がする。視線を落とすと、特別指導室にあるものより遥かに上等だと、庶民でもわかりやすいほどの手触りを誇っている。
「ロクに何も食べてなさそうだし、余り物で悪いけど少しは食べてもらうわよ」
「料理できたんだ」
「失礼しちゃうわね。お料理くらいできるわよ」
これまで見たことないほど穏やかなグレルの表情に魅入る。
こうしてみると、中性的な顔立ちはとても綺麗だ。
それに抱きついていた時の感触。胸板は服の上からでも程好く筋肉がついていて、散々頭のなかでオカマだと罵っていたが、均一がとれているように思える。
喋らなければイケメン美男子の部類だ。一切喋らなければ。
グレルはどこかに、多分キッチン辺りに向かい、何やらカチャカチャと音を立ててシルバートレーを目の前のテーブルに置く。
チェイサー、スープ、トマトの香りのするリゾット、小ぶりなフルーツの盛り合わせが順番に広げられていく。
「これで料理が出来ないって・・・・・・私でもこんなの出来ない」
名前はいつも人前で取り繕っていた「男らしい」仮面が、自然と剥がれている事に全く気付いていない。
「当たり前じゃない。何百年生きてると思ってるの?これでも貴族令嬢の執事だった事もあったんだから」
「グレルが執事?」
「遠い昔話よ。あの頃はデキない執事のふりしてなきゃいけなかったから大変だったのよね」
「うっそ」
「元気があるうちに食べられるだけ食べなさい。ウッカリしてたら倒れちゃうわよ」
名前は意を決して食事を取ろうとするーーーが、やけに種類の多いシルバーの数に閉口した。
テーブルマナーの知識なんて皆無だ。
狼狽えてると、グレルがシルバースプーンを差し出す。
「スープのスプーンはコレ。アンタってホント何も知らないで生きてきたのねえ」
名前は驚いてグレルの顔を穴が開くほど見つめる。
暫くそうしていると、グレルがため息混じりに手にしていたスプーンでスープをすくいとり、名前の口元に持っていく。
戸惑いがちにグレルを見つめると、穏やかな表情をしてはいるが、瞳からはさっさと食べろという意思が伺える。
恐る恐るスプーンに唇を寄せ、なるべく音を立てないように気を付けながら飲み干す。
味はこれまで口にしたことのないような、上品かつあっさりとして飲みやすいもの。
「おいしい・・・・・・」
「このアタシが作ったんだから当然じゃない」
グレルの餌付けを経て漸く空腹が満たされる。
「さて、と。次はお風呂に入ってきなさい。どうせ何日もご無沙汰なんでしょうし」
友達が居なくなってからお風呂すら入っていなかった事を思い出す。
抱き上げる時、さぞ臭かったろうと思うと劣等感に苛まれた。
素直に促されるがままバスルームに通されると、異形な光景に目が点になる。
脱衣所はいい。問題はバスルームだ。ガラス張りのそこは庶民には辛いものがある。
証明は程好く薄暗く、やけにムード満天だ。
美意識が高いんだなと感心するが、いくら高層マンションとはいえ外が丸見えというのは抵抗がある。
グレルはさも当たり前と言わんばかりに着替えのバスローブを籠に放り投げ、脱衣所から出ていってしまう。
渋々服を脱ぎ、見たこともないような形状のシャワーのコックと格闘したのち、冷水を頭から浴びて悲鳴を上げる。
少し弄っていくうちにコツを掴み、暖かなお湯に安堵する。
薔薇のパッケージのボディケアグッズはいかにも高級そうで、使うのが忍びない。
かといって臭いままでいるわけにもいかない。
葛藤の末にシャンプーをワンプッシュすると、先程嗅いだばかりのグレルの香りが室内に充満する。
どことなく品のある香りに、名前は凝り固まった思考が緩んでいく。
一通り体を清め、バスローブを羽織るとかなりぶかぶかだった。
普段はグレルが使うものだろうから仕方がない。腰の紐をぎゅっとしめる。
バスルームの扉を開き、リビングに向かうとグレルはソファーに凭れかかりながら書類に視線を落としていた。
ぱたぱた、と子供じみた名前の足音で顔を上げたかと思えば、眉間にシワを寄せる。
ソファーから立ち上がり、名前に近付くなり濡れた髪の毛に手を添える。
「そんなんじゃ風邪引くわね。こっちへいらっしゃい」
促されるままドレッサーの前に座らされ、ドライヤーで髪の毛を乾かされる。
「いい?アンタ乙女なんだからもう少し自分に気を使いなさい」
わけがわからないまま髪の毛を弄られる。
触れる手つきがやけに心地よく、うとうとし始める。
完全に紙が乾く頃には眠気眼。
グレルは名前を抱き抱え、ワインレッドのふかふかベッドに身を落とし、布団をかける頃には完全に眠りに落ちていた。
さっさとその場から立ち去ろうとすると、服の裾ががっしりと力強く握りしめられていた。
振りほどくのは簡単だが、あえてそうしなかった。
グレルはため息をつきながら、名前の隣に寝転がる。
名前はすっかり規則正しい寝息を立てている。
中性的で整った顔立ちは、すっかり頬が痩せこけ、目蓋には深い影が出来るほど痩せこけている。
グレルが名前が住まう家を見つけたのは偶然ではない。講師の職権を使い友達という名の皮を被った悪魔の家を調査したでもない。
疲弊しきった魂に群がる悪魔が彼女の回りを彷徨いていたからだ。
悪魔にとって弱った魂は格好の餌食。
それを守っていたのは悪魔のルームメイトなのだが、魂を食い散らかす危険因子は排除しなくてはならない。
幸いにして名前の居る地区はグレルの担当区、潜入調査を任されたのもついでのようなものだ。
本来ならば日々淡々と、リストに載った魂の審査をするだけが役割の死神。
わかっていても、たった一人の女に深入りしすぎてしまっている。
まるでマダム・レッドの時のように。
泥沼に落ちたような気分になり、名前の髪を指ですくいとる。するりと
流れる様子をただ眺めていた。
「アンタには悪いけど、彼が悪魔である以上邪魔はさせてもらうわ。仮初めの幸せはただ苦しむだけなのよ」
こんなにもやるせない仕事がこれまであったろうか。
考えるだけ無駄。
グレルは名前が寝返りを打つのを合図に起き上がり、リビングのカーテンを開く。
弱った魂に惹かれた悪魔が、窓硝子の向こう側に犇めいていた。
デスサイズを片手に、ギザギザの歯を剥き出しにして笑う。