時計の針が一日を終えた頃。
臨時講師としての一日を終え、死神としての業務にいそしんでいたグレルは適当な屋根の上にデスサイズを突き刺し、空を眺めていた。
着崩した真っ赤なコートのポケットから着信音が鳴り響く。
画面に表示されたのは見知らぬ番号のもの。
大学潜入調査の任を任されてからというもの、番号交換した覚えは沢山あったが未登録番号からの着信は久々だ。
気だるい動作で携帯を取り出し、通話ボタンを押すと、暫しの無言が続く。
悪戯電話だろうか、と想いかけた頃。
「何を言っても信じてくれますか?」
声の主は少し落ち着きの無い名前の声だった。
たったその一言にもやりきれない衝動に駆られる。
二、三のやりとりを経て電話を切る。内容はこれから会う約束を取り交わすだけの簡潔なものだ。
約束の時間は午前一時。
指定されたのは大学から少し離れた公園だった。
どうせ暇を持て余していたので約束より早く着いたグレルは、冷えた夜風に当たるついでに頭を冷やしていた。
腕時計に目をやると、もうすぐ約束の時間だ。
程なくしてたったの数日で目に馴染んだ人影が現れる。
「遅かったじゃない・・・って、そんな格好じゃ風邪引くわよ?!」
「ちょっとルームメイトの所をこっそり抜け出してきたんで。誰もいなかったし・・・・・・」
「手のかかる子ねえ」
グレルは着ていたコートを、薄い寝巻き姿の名前に着せる。
気遣いは無用です、と名前は言ってくれたので、何となく腹が立って「反抗的なコにはまたキスするわよ?」と、ぴしゃりと言ってやる。
「お手を煩わせてしまいまして「敬語禁止って言ったでしょ」ごめん・・・」
「まーた辛気臭い顔して」
「順を追って話しま・・・話すね」
アラ、律儀な子じゃないの。
感心するグレルを他所に、浮かない顔をした名前は、まず疑問を投げかけた。
「グレルが死神って、本当なの?」
「事実よ、なんて言っても信じちゃ貰えないかもしれないけど」
「さっきルームメイトから聞いた」
「じゃあ、そのルームメイトが悪魔だって事も?」
「ええ、知っているワ」
名前のルームメイトは、グレルが臨時講師をしていた切っ掛けとなった悪魔だ。
資料によれば数百年間、魂を一切口にしていないイレギュラーだ。
だが、その姿は人間である名前の直ぐ隣に常にあった。
グレルが臨時講師している間、講義の合間を縫って、友人も作らずただ名前だけに寄り添っていた。
そこにどんな契約が交わされているかなど知らないが、名前の右目からは悪魔と何かあったということはわかる。
しかし名前は右目が血のように赤い、それこそあくまのものであっても、名前自身は悪魔ではない。
「一つ一つ話す・・・けど、いい話なんかじゃない」
グレルは無言で名前の頭を撫でると、真剣な表情に打って変わった。
昔からこうだった私の父さん。
物心がついた頃には、父も母も私を蔑み、力の限り殴り散らかし、拒絶した。
どんなにいい子を装おうとしたって良い事なんて見てくれなくて、家のどこに居ても一人だった。
そんな父に愛想を尽かせた母は私を一人ぼっちにして、ある日突然居なくなった。母親が家を出て行くまでの間、ずっと私を罵倒した。
だから母が居なくなった時は捨てられた物悲しさもあったが、日々エスカレートしていく父に恐怖を感じ、唯一のより所でもあった公園に逃げた。
そこで出合ったのが友達だった。
名前自身の生い立ちをいつも親身に聞いてくれる、優しいお兄さん。
名前が泣けば悲しそうに抱きしめてくれて、いつも暖かく迎え入れてくれた。
いつしか幼かった名前も学業に身を置くことになり、それでも親からの冷遇は変わらなかった。
不思議なことに友達は成長が止まっているかのように、昔から変わらない風貌だった。
それに疑問を投げかけたのは、後から思えば酷なことだったと思う。
「俺はね、悪魔なんだ。人の魂を食べて生きてきた、醜くて悪い悪魔だったんだ」
「でも友達は友達だよ?悪くないよ?優しいよ?友達みないな悪魔だったら怖くないよ?」
「名前は優しいのねえ・・・」
でも相手は所詮害獣よ、と言いそうになって止めた。
でなければ機嫌を損ねて帰ってしまうだろう。
強引にシネマティックレコードを見れば簡単に割り出せる“作業”なのだが、今回は穏便かつ慎重に事を成せとのお上からのお達しだ。
そんな任など昔ならあっさり破って謹慎を食らうのは遥か昔の話で、大人しく型に収まるようになったのは少しは成長したからなのかもしれない。
ぽつり、ぽつりと語り始める名前に、グレルは人知れず複雑な思いを抱えながら、話の続きを待つ。
ある時、何が切っ掛けだったかは思い出せない。
散々殴られて、体のあちこちが痣だらけになり、頭からは生ぬるい雫が垂れた。
「お前は二度と帰ってくるな!」
「でも・・・」
「もううちの娘なんかじゃない!」
もうそんな日々は嫌だった。
終止符を打つなら、せめて誰かの手で無く自分の手で。そう心に決めていた名前はナイフを片手に公園に逃げ込んでいた。
すると、いつも通り友達はそこに居た。
「駄目だよ。命を粗末にしちゃ」
「でもっ!もう絶えられない・・・生きてるの、やだ!自分の手で死にたい!」
「じゃあ、君の親を殺したら名前は笑ってくれる?」
名前は涙を流して首を振った。
「名前はどうしたいのか言ってごらん?」
その言葉に名前は嗚咽を漏らしながら、消え入りそうな声で呟いた。
「友達と、いっしょに、い、居たい・・・!」
「名前がそう望んでくれるなら。これから俺は名前を守るために、ほんの少しだけ悪魔の力を分けるけど、これは名前を守るためだけの力だから・・・。要らなくなったら・・・一人で生きていけるようになるまで、それまで僕は名前と一緒にいるよ」
「ずっと一緒に居られる?」
「そうだね・・・名前が永遠を望むなら、それまで一緒に居るよ」
友達はゆっくりと名前の右目に手を翳す。
「いい?これから名前は人の本性を、魂の声を聞けるようになる。そうしたら怖い人かそうじゃないか、わかるようになるだろうけど、最初は辛いと思う」
「友達は優しいね」
「違うよ。僕は貪欲で、低俗な悪魔だよ・・・」
そうして授かった悪魔の力は、人の魂の声を聞かせてくれるようになった。だからこそ悲しい現実を知る事になる。
心清らかな人間なんてこの世に存在しないことが、右目に宿った力を通じて、醜悪なものばかりなんだと思い知らされた。
どこにいても嫌な声ばかり脳内に木霊する。
名前の人間不信は益々強くなり、友達からどんどん離れられなくなっていった。
友達の声はいつも優しさと、自責の念でうめつくされていたから、名前は自分と同じなんだと思っていた。
そこで言葉を区切った名前に、グレルは溜息を吐いた。
魂の声なんかを人間が聞けば、遅かれ早かれいつかは壊れる。
名前も例外に漏れず、精神は日々疲弊していた。ただの喧嘩でこんなに魂が悲鳴を上げるほど、ヤワに出来ちゃいない。
これをどう報告書に纏めようか。
臨時講師としての皮を被っている最中、話の友達という悪魔には何度か接触していた。
しかしそれだけで、込み入った話もいがみ合いにも発展していない。
成長の止まった悪魔が大学に入るとすれば、それは偽りの“身分”を詐称したからだろう。だとしてもグレルには悪魔の行動が理解の範疇を超えていた。人間を深く理解し、受け入れたと言う事だろうか。
名前の存在は捜索願の末に時効を迎え、表向きは死亡者扱いになっている。つまり世間は名前を保護しちゃくれない。
悪魔にとって、この世から情報を抹消された人間と共にいるのは好都合な状況の筈、だった。
名前が受けた力が悪魔のもの全てだとしたら話は百八十度変わっていただろう。だが悪魔はそうしなかった。
「それなら名前から契約者としての印が見つからない事も理解できるわねえ」
「契約者?」
「そ。悪魔は主として人間を迎えると契約の印が体のどこかに刻まれ、契約が終われば魂を貪り食うのよ。けれどアタシの目にはどこにも見えやしなかったわ」
「どういうこと?」
「つまりアンタの魂を食べる気が無いって事だけは確かだけど、力だけ分けるなんてアタシ聞いたことがないわ。前代未聞よ」
「友達になら食べられたって・・・」
「いい?魂は一人につき一個しかないの。それを友達って悪魔が理解していたとしたら、アンタに幸せになって欲しかったからよ」
「幸せ・・・・・・なる資格なんか無いのに」
「もう一度言ってみなさい」
グレルの声は真剣で、テノールが効いていることに、自分でも驚いた。
「誰にだって幸せになる権利はあるのよ。アンタはまだその重みがわからないダケ」
自分らしくも無い。グレルは胸がどうしようもなく締め付けられる。
シネマティックレコードで、壊れていった人間はそれこそ飽きるほど何百年と見てきた。しかしそれは所詮傍観に過ぎず、まともに接触したのはマダム・レッド以来初めてのものだ。
ここまで深入りしてしまったのは、調査が過ぎたせいか。
最初この案件に首を突っ込んだときは「厄介ねえ」程度にしか思ってなかった。
なのにたった一度会った時から、心惹かれてしまうのは何故なんだろうかと思案に耽る。
柄にもなく慣れないプレゼントなんかしちゃって。幸せになって欲しいと誰かを想うなんて日が来るなんて。
本当にらしくない。
相手がウィルやセバスちゃんなら話は別よ?でも目の前に居るのは、ちょっと普通じゃないだけの生い立ちを持った、中身は平凡な女の子。
うだつがあがらない自分に嫌気が差してやあねえ。
気がついたらグレルはとても優しい表情をして、名前を抱きしめていた。
名前は戸惑いを隠せず、ほんのちょっと肩を震わせる。
顔をそんなに真っ赤にしながら泣きそうになっちゃって。
なんていじらしいコなの。
「アタシだって名前に幸せになって欲しいのヨ」
抱きしめた名前からは色濃い害獣の臭いがして、抱きしめる腕に力をこめる。
「うぐふう・・・ば、馬鹿力・・・・・・」
「悪かったわね。少しは元気になったみたいで安心したわ」
腕から介抱してやれば、名前は照れくさそうに笑った。胸が痛いほど締め付けられる。
「とはいえもう少し様子は見させてもらうわよ。害獣がアンタの魂を掠め取らない保障なんてないの」
「友達は害獣なんかじゃない」
「アタシだって死神よ。敵対するもの同士、ここまで言えば理由はわかるわね」
先ほどとは一変、浮かない表情になった名前にどうしようもない苛立ちを覚える。
「アンタは保護されるべき存在よ」
その言葉を聞いた名前は、堪えきれなくなった涙を流してその場から走り去っていった。
グレルは追う事もせず、ベンチにどっかり座り込む。
アタシったら小娘相手にムキになって、調子狂いっぱなしよ。
はあ、と溜息を吐いたグレルは、やりきれなくなってその場で目を閉じる。
「グレル・サトクリフ・・・聞いているのですか、グレル・サトクリフ!」
「何度も言わなくたって聞こえてるわよウィル」
「対象への過干渉は控えてください」
「やあねえ、乙女のプライベートに水をさすつもり?」
「任がある以上あなたにプライベートはありません。スムーズに執行してください。でないと」
「謹慎されるような事はしてないわよ。地に足を着けるのが今回のアタシの仕事」
「対象を揺さぶればあの腹を空かせた害獣が何をするかもわかりません」
「今はアタシの可愛い生徒よ。いくら愛しのウィル相手だからってやり方に文句は言わせないわ」