小洒落たカフェ。写真で見たようなイタリアの風景を思わせる。
店内のBGMは控えめで、照明は明るすぎず目に優しい。
その場にはいつものように男装した名前は、相変わらず黒を基調とした服を身に纏い、小説を読みながらカップに唇を寄せている。
グレル・サトクリフという人物と出合ったあの日から、友達は大学に名前を連れて行くことが無くなった。
・・・気がする。
感ではあるが、グレルは確か死神教会とかいう所の人材。それに会ったその後直ぐ、友達は「不快な臭いがする」と言った。
恐らく相容れない仲なんだろうな、と頭の片隅で理解していた。
名前が小説を読んでいるのは形だけで、文字が頭に入ってこなかった。
友達が大学から帰るまで充分に時間がある。ここはそれまでの暇潰しだから、カップの中身が空になったら帰ろう。
カフェの入り口のベルがカラン、と鳴る。どうやらお客さんが来たらしく、店主が出迎える姿が見て取れた。
次の瞬間、名前は固まることになる。
「アラ、大学に居ないと思ったらこんな所に居たの」
数日前に鉢合わせた、グレル・サトクリフだ。
今日は先日と打って変わった出で立ちで、女物のコートを着崩したスタイル。
ラフなようにも見えるが、シックな服装が名前の好みと合致した。
が、そんな事よりも突然の再開に思わず身を固くする。
「お久しぶりです」
「ちゃあんと覚えててくれてたのね!ンフフッ!アタシ嬉しいわ」
グレルはさも当然とばかりに名前の向かいに座り、優雅にハーブティーを注文している。
どうしよう、何の心の準備もしていなかった。
あれから連絡を入れるか散々迷いに迷った末、何の結論も出ないまま今日に至る。
だから友達が暫く私を大学に行かせないと言った時、寧ろほっとした。
しかし牙城はあっさりと崩れ去った。件の人物は目の前に居るのだ。一体神は私に何をしろというのだろうか。
一人押し問答している名前はグレルを出来るだけ視界に入れないように、必死で活字に目を滑らせていた。文字通り滑っているだけでさっきより頭に入ってこない。
明らかに混乱しているのが自分でもわかった。
BGMが静かに店内に流れている。グレルは特別話しかけてこない。だが、代わりに視線を感じる、冷や汗が背中を伝う。
そうしていると、手にしていた本がひょい、と取り上げられる。
慌てて手を差し伸べ、視線で追うとそこには悪戯な笑みを浮かべるグレルが居た。
はあ、と盛大な溜息とともに緊張を吐き出す。それだけで少し気分が楽になったのは多分気のせいだ。冷や汗がぶわっと吹き出る。
何を隠そう、名前は極度の人見知りだった。
思わず下を向き、やけに正しい姿勢になっている。
店内BGMの合間にぱらぱらと紙をめくる音が聞こえる。
気まずい沈黙が凡そ十分ほど続いたろうか。
パタンと小気味良い音が聞こえたかと思えば、目の前に先ほどまで名前が読んでいた本が差し出される。
「この本面白かったわ。それ一度読んでみたかったのよね。でもどこも売り切れだったからずうっと手に入らなかったのよ」
まさか、そんな訳があるか。
目を点にしている名前が受け取った本は、分厚い児童書だ。幾らなんでも読みきるだけの時間には程遠いはず。
そんな思考を察したのか、臨時講師たるものこれくらい朝飯前よ、とグレルは嫌味なく言ってのけた。
講師にでもなれば速読が出来るものなのだろうか。どんだけ天才なんだこのオカマは。
「アンタ心の中で失礼なこと考えちゃってたりしない?」
「読むのが恐ろしく早いなと」
「それよりあれからアンタが大学に来ないから心配しちゃったじゃないンモー!女同士の話し合い、スッゴク楽しみにしてたのヨ?」
話し合い、という単語に名前は不安げな表情になる。
「でもアンタの場合心は男なのかしら」
「外見でなめられたくないのでここ数年間男として振舞ってましたが・・・」
「はっきりしないわねえ。でもそんなミステリアスな所もたまらないわー!アタシ目覚めちゃいそう!」
いやとっくに目覚めてるだろ。
なんてたった一度会っただけの相手に言う事もできず出来ず、名前は困ったように笑うしかなかった。
「それよりアンタに渡したいものがあったのよ。すーっかり忘れそうになってたわ」
グレルは足元に置いていた女物の鞄をがさごそと漁り、テーブルの上に小さな箱を置く。
丁寧に赤いリボンで装飾されたそれに、名前は目が点になる。
これは一体なんだろう。
そういえば、以前こんな感じにラッピングされたものを友達から貰ったことがある。
かといってそれがたった一度会っただけの自分に向けられたものとは思えなかった。
グレルは微動だにしない名前を見て、呆れかえっていた。
「アンタにプレゼントよ。畏まった物じゃないから開けてみなさい」
名前は驚いて目を見開く。
「そんな、突然」
「素直に受け取りなさい。さっきも言ったけど大したものじゃないわよ」
そう言ってグレルはしびれを切らしたように赤いリボンを解く。
反応しきれない名前はどうすることも出来ず、ひたすら様子を眺める。
手際よくラッピングの袋から取り出されたものは、どうやら紅茶の缶だった。
大したものではないと言って入るが、どう見ても高級そう・・・否、高級メーカーの刻印がばっちり入っている。
見たところそれはただの紅茶ではなく、ハーブが調合されたものだとわかる。薔薇のラベルが貼ってある。
「この間のローズヒップティーよ。美味しそうに飲んでたからあげるわ」
「高級なもの頂けません」
「アタシがあげるって言ったんだから手は引っ込めないわよ」
「・・・ありがとうございます」
生まれて初めて友達以外から貰うプレゼント。いや、正確にはバレンタインデーに女性からチョコレートを貰う事はあったが、こういうサプライズは体験したことが無かった。
体がむずむずして、落ち着かない。
動揺のせいかわからないが、顔が物凄く熱かった。
「照れちゃって。可愛い所もあるのねえ、顔がアタシ好みの赤に染まってるわ」
「こういうのは慣れていなくて」
「アナタ格好いいのに勿体無いじゃない。そんなんじゃ禄に外に出ていないでしょう」
「どうしてわかったんですか?」
「これでも講師DEATH☆」
「あー・・・よくわかりました。はい、すっごく」
「テンション下がるわねえ。さっさとソレ仕舞って飲むもの飲みきっちゃいなさい」
グレルは視線を僅かに天外へ向ける。
意味がわからぬまま、数十分ぶりにカップに口を寄せる。紅茶の温度はすっかり冷め切っていた。
そこから他愛の無いグレルの世間話に付き合う。
他人との関わりを極力避けていたせいか、相槌を打つことしか出来ず、すっかり男女の立場が逆転していた。
場所が変わって繁華街。
赤髪に赤いコート、長身のグレルと並んで歩く名前は、すっかりへとへとになっていた。
名前も女にしては背が高いほうだが、それでもグレルの身長には及ばない。
テンションが高いグレルの歩調に合わせて歩き通していたため、足がどうにかなりそうだ。
そでもこんな慣れない場所で逸れたら、という恐怖心で必死に小走り状態で着いていく。
段々と息も絶え絶えになり、いよいよ限界―――といった所でグレルが立ち止まる。
「アンタって体力無いのねえ」
「あんっ・・・ま、り、外に、でっ・・・でないん、で・・・・・・!」
ぜえはあと息を切らしながら喋っていたら舌を噛みそうになったが、何とかそれを免れる。
「それでも表情を崩さないんだからスマートで悪くないケド」
ウインクしながら肩を叩いてくれるグレルに、そりゃどうも、と嫌みったらしく返すとにんまり笑った。
あ、なんか嫌な予感がする。
「今日だけ特別エスコートしてあげるわ」
強引に腕を引かれたかと思うと、自分の腕がグレルの腕に絡められる。
恋人さながらの状態に、名前は再び顔に熱が集まるのを感じる。
人の気持ちなんかいざ知らず、グレルはゆっくり歩き出す。
またあの歩調に合わせなければいけないのか、と思うと気が重かったが、意外にもゆっくりとした歩きやすいペースで道を進んでいく事に驚く。
その奇抜な組み合わせは人目を惹いたらしく、道行く人が皆こちらを見ている。
穴があったら潜りこんで更に布団に被って引きこもりたい。絶対ソッチの気がある風に見られているに違いない。
よりいっそう顔に集まる熱に耐えるのは至難だが、どうしようもないので諦めて前を真っ直ぐ見据える。
どこに行くかサッパリわかんないけどね!
グレルはさり気無く周囲を一瞥し、次に名前の横顔を傍目で見据えて口角を吊り上げる。
「女ってわかっててもイケメンと歩くのって気分がいいわあ」
グレルのエスコートのお陰ですっかり上がりきっていた息が整い、段々と平静さが取り戻されていく。
しかし、何故こんなことになったのだろう。
夕刻になるまで友達を待つはずが、怪しいオカマ講師と腕を組んで歩くなんて。絶対ソッチの趣味の人だと思われるよ・・・。
途方に暮れているうちに、グレルは腕をくい、と引きいかにも高級そうな店に入る。装飾はとてもシックで、中にはゴスロリだったりと、様々な趣が見て取れる。
「アタシのお気に入りよ。一度やってみたかったのよねえ。アンタ素材がいいから・・・そうねえ、どういう色に染めちゃおうかしら」
「お、お金そんなに持ってないんで、え、ええ、え遠慮しますすすすすすすすす」
「アラ拒否権なんて無いのよ?大人しく巻かれるものには巻かれちゃいなさい」
「あんたそれでも講師か?!」
「これでも講師DEATH☆」
はい本日二回目きましたー。
ばっちりウインク付きでしたー。
着いて来たことを心底後悔する名前に後は無かった。
店内には椅子があり、そこで待っていろと指示され大人しくしていると、赤毛のオカマは店員と何やら話し込み、せっせと衣装を運ぶ店員に嫌な予感はどんどん沸きあがってくる。
やや離れたところで女同士の会話でキャッキャッしているグレルに、どんだけ適応力高いんだよあのオカマ・・・と毒づいた。
ら、グレルが踵を返してこっちに寄ってきた。
聞こえたか、と身構えていたら腕を引っ張られ、試着室に放り込まれる。程なくして現れたのは女店員だった。とても目が輝いている。
「あら~素敵な彼氏さんですね~」
「はい?」
「心は男性なんですよね?素敵なカップルだと思います!」
帰りたい。
心底帰りたい。
帰って心行くまで布団に篭りたい。
否定する気力も度量もなく、適当にはあ、とだけ返したらヒートアップされた。勢いはそのままにスリーサイズを測られ、矢次に運ばれる服を着ては脱ぎを何度も繰り返す。
こっそり値札をチェックしたら、それこそとんでもない値段のものばかりだった。
本当に・・・・・・帰りたい。
漸く試着が終わったかと思えば何着もの紙袋を抱え、それらは全てグレルが片腕から引っさげている。
とんだ怪力オカマだ。
「この後もあるんですか?」
「そうねえ、アタシも疲れたからカフェでゆっくりお茶でもしましょうか」
案内されたのはゆっくりする所でもさなそうな、これまた高級そうな店だった。
個室に案内されたときはまたあの時の話の続きかと身構えたが、そんな心配を他所にやたら高いテンションで今日の事を楽しそうに話すだけだった。
いい加減帰らせてくれ、と言いかけたが、嬉しそうに緩んだグレルの顔を見て言うのを止めた。
こんな自分相手だとしてでも、楽しんでもらえたなら本望だ。疲れたけど。
でも自分にはそんな資格が無い。そう思うと胸がきりりと痛んだ。
「また辛気臭い顔しちゃって。折角のイケメンが台無しよ?んまあ憂いを帯びた男装の麗人なんだから許しちゃうわー!」
「でも・・・こんなに良くして貰って、俺には返せるものがありません」
グレルは悲しげに微笑み、名前の髪の毛に手を触れる。
そのままクルクルと指に巻きつけ、目を伏せる。
「返せるものならあるでショ」
え、と短い反応を示すと、グレルは愁いを帯びた眼差しを名前に向ける。
返せるものなんて俺にはわからない。その答えを持っているのだろうか?
「アンタのカ・ラ「うわー!わー!無理ですそんなの!」なによもう、まだ言い切ってないわよ」
「見かけどおり破廉恥な・・・」
「アラ失礼ね。アタシだって小娘の体なんか興味ないわよ。冗談が通じないわねえ」
訝しげにグレルを睨み付けていると、グレルは穏やかで、悲しげな表情をして見せた。
「一度きりの人生なんだからそんな辛気臭い面してるより、楽しく生きていたほうが、って言ったわよね」
名前の思考は数日前にさかのぼる。
グレルは確かに言っていた。大人しく頷く。
「今日は楽しめたかしら?」
全く、と言えば嘘になる。
滅多に出ない外に、これまで体験しなかったような事をグレルはしてくれた。
気後れはするが。
「・・・楽しかった」
「それでいいのよ。アンタみたいな弱い人間はいつか潰れるわ」
わかっていた。
わかっていたから殻に引きこもって、他者を拒絶して、長い間友達とだけ寄り添って静かに過ごしていた。
この人ならわかってくれるのだろうか。
微細な希望が心の奥底で生まれる。
でも、そんな希望を持ったら、いつか裏切られたときに悲しさが倍増する。
「知ってる」
「・・・・・・アンタ見てると昔の事を思い出すわ」
「そ、昔。いつの頃だったかしらね。アンタみたいに他を拒んで、深い闇に落ちた人間を知っているわ。これで傍に居るのがセバスちゃんだったら嫌んなるくらいそーっくり!と思ったけど、アンタはあのコみたいな高慢ちきなクソガキじゃないから、似てるのはその辛気臭さだけかしらねえ」
グレルは人間の闇を嫌というほど知っている事が、何となくわかった。
だとしたら自分の闇にも、少しは理解してくれるかもしれな・・・いや、それは駄目だ。
俺には友達が付いていてくれる。
それだけで充分だったじゃないか。今までもこれからも。
思案に耽っていたら、思い切りでこピンされた。
「その辛気臭いツラするのはやめなさい。アタシにまで伝染っちゃうじゃない」
「でも・・・・・・俺には他の生き方を知りません」
「女同士なのに水臭いわねえ。苦しみたいなら勝手に苦しみなさいよ。でもアンタは違うでしょ、ココが」
グレルは名前の心臓を、細長い指でさし示す。
牙城が崩れるのを、心のどこかで認めてしまっていた。
グレルならわかってくれる気がする。