常に黒い服を身に纏い。
低い声は男性らしく。
慟哭は心の奥底にひた隠し。
いつものように大人びて笑えば完璧に男らしくなった自分が鏡の前に居る。
「今日もこれでよし、と」
鏡の前でにっこりと笑うは名前。
そんな姿を後ろからうっとりと見つめるルームメイトの友達は、今日も格好いいねと嬉しそうに笑う。
友達は赤い目を細めて名前の緩くセットされた髪を撫で上げ、トートバッグを肩にかける。
「そろそろキャンパスに行かなきゃ。いい子にしていられる?」
名前が勿論、と答えれば花が綻んだように笑みを浮かべる。
どちらともなく手を取ると、二人は中睦まじく学校への道を歩く。
大学に着くなり友達は名前をパソコンが並ぶフリールームに通し、一つ分の椅子を引くと、名前はいつものようにそこに座る。
「じゃあ、俺は行くから今日はこの論文を翻訳したいから参考になりそうなURLを探しといて。お昼には講義も終わるから」
言い終えるや否や、友達はそこでばったり出会った同学年の男たちに囲まれて終始笑顔で出て行った。
名前はそんな友達を尻目に早速渡された論文をはらりとめくる。見る限りドイツ語のそれを見て苦笑いし、パソコンを立ち上げる。
馴染んでいるようで馴染んでいない、男性ばかりのむわっとした空間に取り残された名前は、浮かない様子でキーボードを叩く。それは無理もない、名前の居る大学は男子生徒だけで構築された至って閉鎖的な空間。名前はそこの学生ではなかった。
ルームメイトの付き添いでなければ赴くことは無かったであろうその場所に、名前は疎外感を感じ取っていた。
誰かに声をかけられればさらりと表面上の会話に付き合うこともあったが、自らは話しかけることの無い名前にとって、そこは檻のようにすら思えていた。
沢山の人で賑わうそこで、名前はただ一人浮いていた。
「アラ、いい男が一人で居るだなんてこれって運命ってヤツ?」
隣から聞こえる、やけにオカマじみた声に名前は誰かの独り言か―――とさらりと受け流した。
気にせずドイツ語の羅列が表示されるモニタに視線を貼り付け、自分の世界に入り込もうとしていた矢先。頬がむにり、とつねられた。
「アンタの事よ。もう、イケナイ子なんだから。これって燃える恋の前触れだと思わない?キャー!ヤダ運・命・的!」
明らかにソッチの人だ。
名前はモニタから視線を外して声の主を一目見る。
赤い髪の毛にばっちり付け睫毛がされた目もと、一見艶やかな肌に、奇抜な赤く長い髪の毛。メガネをかけており、その瞳は黄緑の採光を放っている。
それより目立っていたのは奇抜なクネクネとした動き。
うわあ・・・と内心ドン引きしつつ、周囲に誰か助けを、と思っても皆見なかったことにしている。
改めてまじまじと赤毛のその人を見つめる。
悪寒が走る、というか、えもいえぬプレッシャーを感じる。
気持ちの悪い口調でもなく、見かけだけではないどこからか。
「それにしてもアンタ見ない顔ね。ミサの時間にも見たことが無いわ」
不意に顎をくい、と掴まれてそれをそっと制する。
ワインレッドのスーツに真っ赤なコート、装飾の凝った眼鏡。恐らくこの赤い人は講師なのだが。
「ちょっとアンタこっちへいらっしゃい。アタシ好みの良い男だし、それに」
彼は開いた片手で名前の右の目蓋をなぞる。
名前は直感的に嫌な気を察知し、あくまで優しく手を添える。
「嫌だな先生。ここでは人目もありますから、場所を移しませんか?そこでなら告白でも何でもいくらでも聞きますよ」
にっこりと言い放つ名前に、赤毛の人はギザギザの歯をむき出しにしてにんまりと笑う。
「ああん積極的ねえ。いいワ、アタシの特別指導室でたっぷりイケナイ事しましょう?ンフッ」
そうして連れてこられた特別指導室とやらは、二人がけのソファーに髑髏の装飾がなされ、シンプルさを兼ね備えつつも先進的なインテリアが目を惹く。
趣味がいいなあ、と辺りを見回していると、ソファーにかけるよう促される。
僅かに警戒の色を露にするも、着いてきてしまったのだから仕方が無い。
それにオカマに悪い人は居ない。
赤毛の講師は別室に移動したかと思うと、数分後、シルバートレーにティーセットを片手に名前の隣に座る。
手際よくティーポットをカップの上で傾けた、と思いきや何でそうなったのか折角の茶がだばだばとカップから流れ落ちる。
その様子に思わず講師を制し、ティーポットを奪いハンカチでこぼれたカップを磨くようにふき取り、慣れた手つきでカップに茶を注ぐ。
あら、器用なのね。というほめ言葉をさらりと流し、芳しい香り立ち上るティーカップを二つ、アンティークの風合いのあるガラステーブルに二つ並べる。
早速口にしてみるとローズヒップの香り高いハーブティーだった。
「紹介が遅れたわね。あたしはグレル・サトクリフ。グレルって読んで頂戴。ここで臨時講師をしているのよ」
「俺は名前です」
「ンフッ!そのクールなトコロ、あたし好みだわ」
突然グレルとの距離が縮まり、腰に手が回される。そしてつう・・・と指先でお尻に弧を描く。
「アラ?貴方イイ男だとばかり思ったら女だったのネ。残念だワ。でもアタシそういう女嫌いじゃないわよ。でもなんたって名前はこんな男子学院にいるのかしら」
再び顎に手を添えられ、右の目蓋にそっと触れる。
名前は罪悪感に駆られて目蓋を閉じる。
友達に付き添って早数年、ずっとバレることがなかった偽りの性別。
他人との付き合いから一線引いていたから当然なのだが、セクハラでこうなるとは予想だにしなかった。
「恩人の付き添いなんです。女人立ち入り禁止ではないというのは知っていますが、危ないからとこうして」
「ふうん。アンタってとーっても危険な香りがするワ」
名前は疑問符を浮かべながら目蓋を上げ、グレルの黄緑の採光をじっと見つめる。
「・・・?先生は」
「グレルって読んで頂戴。アナタここの生徒じゃないんだし、女同士仲良くしましょ」
「はい・・・・・・」
ウインクを飛ばすグレルに対して、バツが悪そうに答える名前。
グレルからはえもいえぬプレッシャーを感じ取る。グレルは危険人物だと、今更ながら実感がわく。
「先生は何者なんですか」
「単刀直入に言うしかないわねえ。貴方から害獣の臭いがプンプンするのよ。それもとびきり上級の」
名前は疑問符を浮かべる。
きょとんとしたままでいると、グレルは己の右目を指差す。それを見て全身が沸騰したように熱くなった。
大事なものを馬鹿にされた気分だ。
名前は挑戦的に笑い、グレルを睨み付ける。
「・・・見えているんですね。世間一般の人には見えないはずなんですが」
「そりゃもうバッチリ見えるわよ。で、アンタその目は一体どういう事?アンタ自身は害獣の悪魔ってワケじゃないみたいだし―――」
「知ったような口を叩かないで下さい」
名前は自分の声色が低く、口汚い事に気が付き、すぐに罪悪感を露にする。
それとほぼ同時に感じた妙な感覚に肩を竦め、ハッとグレルを見上げる。
ただの重圧感なんかじゃない。高尚で、洗練されていて、色濃い死を纏うこの空気感。
名前は思案する。
思いつめたような顔に、グレルは興味を持った。一瞬狩人の眼差しになったが、名前がびくりと体を震わせたため、すぐに取り繕う。
どうやらこういったものには、ある意味で慣れているのかもしれないとグレルは思った。さも面白そうにギザギザの歯をむき出しにして笑う。
「話すには・・・条件があります」
「あたし面倒な事はやらない主義だけど、アナタ面白そうだから乗ってア・ゲ・ル」
高慢なグレルの言葉も気にせず、名前は床に視線を落とす。
その表情は絶望を色濃く映し出している。それは僅か一瞬だけだったが、グレルは見落とさなかった。
名前は力なく笑って、程よくふっくらした唇を戸惑いがちに開きかけて止める。
グレルを信用していいのか。仮にも悪魔を害獣を罵った。この右目のことを何と形容したらいいか。
うまい言葉が見つからなかった。
沈黙が続く中、グレルは腑が落ちたように小さく微笑みながら、名前の髪を撫で上げる。一瞬肩がびくりとはねた。
どうやら警戒心が薄いようで、とても強い。グレルがそう察するには時間など必要なかった。
「思い詰めているなら吐き出しなさい。アタシだって一応講師なんだから、悩みがあるなら一つや二つ言って楽になれるならなっておしまい。一度きりの人生なんだからそんな辛気臭い面してるより、楽しく生きていたほうがいいじゃない?話せないなら話せるようになるまで待つわ」
ここまでふざけ半分だったグレルと一変した言葉。
名前ははっとしたように顔を上げ、縋るようにグレルを見つめる。目にはたんまりと涙が溜まっている。
確かにここで言ってしまえば少しは気が楽になるのかもしれない。しかしそれは所詮付け焼刃で、現実など何も変わらない。
「男前な顔が台無しよ」
「余計なお世話です」
「アラ元気あるじゃない」
それっきり反論するでもなく、だんまりを決め込んだ名前を、グレルは変わらず髪を撫で続ける。
グレルはあ、と思い出したように胸ポケットを漁り中のものを掴み、名前に差し出す。
受け取った名前はその場で破り捨てようかとも悩んだが、ちらりと見たそこには目を惹く文字があった。
“死神協会回収科”呆然とそれをじっと見つめていると、グレルが腕時計を見て立ち上がる。
言う気になったら連絡しなさい、と簡単に伝言して特別指導室の扉に手をかける。
そろそろ昼に差し掛かる。
「アタシは会議があるから行くけど、約束は違えないわよ」
挑戦的に笑って見せれば、名前は安堵したように笑い、あっと立ち上がる。
「一体どうしたって言うのヨ」
「昼までにって、頼まれごとしてたんだった!」
名前はいそいそと名刺をパンツのポケットにねじ込み、簡単なお礼を述べてその場を後にする。
嵐のように消えた後姿に、「ホーント、男だったらアタシ好みだったのに」とグレルはぽつりと呟く。
そして訪れた職員会議は人間界のものではなかった。
「遅刻ですよグレル・サトクリフ。害獣の残り香がありますが、仕事を放り出してあの害獣に現を抜かしていたんじゃあないでしょうね」
「やっだーんもーウィルったら!アタシの事そんなに嫉妬する位好きならもっと早ンブフゥ!」
「いい加減始めちゃいましょうよ先輩。俺、会議が終わったら合コンあるんで」
「煩いわねロナルド。女漁りも大概になさい」
「男漁りしてる先輩に言われたくないっす」
「いい加減に始めますよ」
「せっかちねえウィル。対象人物にならさっきまで会ってたわよ」
「貴方にしては上出来ですね。そのまま報告を」
「ヤッダー!褒めてるの?今晩アナタと一晩共にしたいワー!」
「謹慎処分を食らいたいようですね」
「ンモーつれないわねえ。冗談よ。接触はしたけど情報はまだ出せないワ」
「それはどういう意味っすか先輩?」
「女ってのは秘密の一つや二つ、あるものヨ。アンタ達に出る幕もチャンスも与えないわ。ここはアタシの管轄ヨ?」
「・・・責任を以って取り組むように」
ウィルはたった一言だけ残し、会議はお開きになった。
「はっくしょい!んー・・・風邪引いたかな」
名前はむずむずする鼻を摩りながらパソコンのキーボードと向き合っていた。
「遅くなってゴメンゴメン。随分おっさんくさいくしゃみしてたね」
音も無く友達が背後に現れる。
びっくりした名前は飛び上がり、勢い良く振り返る。
そこには両目に血のような赤を携えた男、友達が不機嫌そうに鼻をひくつかせている。
瞳孔が獣のように長細くなっている。
何か怒っているときの顔だ。
「不愉快な臭いがするけど何かあった?」
「臭い?よくわかんないけど、ごめんネットサーフィンしてたら全然調べ物できなかった」
「こんのやろー!ま、いっか。帰ろ?」
友達は先ほどまでの不機嫌さはどこへやら、一変して柔らかく笑って名前に手を差し伸べる。
少し浮かない表情の名前は、黙ってその手を取る。
帰路につく間、友達は名前に今日の講義はどうだとか他愛の無い話をして笑顔で歩いていた。
途中、公園へ寄ろうという提案を受けた名前は、誰も居ない公園のブランコに座り、ゆっくりとした動作でギイギイ漕いでいる。
その様子はやはりどこか元気が無かった。
「いつまでもこうやって一緒に居られたらいいね」
突然友達から発せられた言葉に、名前は両目を見開く。
そうだね、と短く返し、思い切り勢いをつけてブランコを漕ぎ始めた。