明け方、名前は眠れずにいた。
体がかたかたと震え、真紅のタオルケットを抱きしめる。
今日に限ってアイオリアの眠っているソファーは空いている。
真面目なアイオリアはほぼ毎朝のようにトレーニングへと赴いているらしく、時折相当早い時間に居なくなるときがある。
名前はまるで世界に自分一人しか居ないような錯覚を覚え、タオルケットを強く握り締める。
再び眠ってしまえれば気が楽なのだが、いつもこの部屋で呆けていたり、眠るしかしていない体に睡眠欲が再び訪れるなどありえない。
そんな折、通路スペースのほうから足音が聞こえる。
こんな時間に誰かが通っていくのは別段珍しい訳ではないのだが、今はただひたすら人恋しく、恐る恐る足音の主を探す。
ほんの数時間前に捻挫した足をひょこひょこと引きずるように歩いていると、見知った顔が見える。
「私に何か用かね?」
聞き覚えのある声色は、男性にしてはやや高い。
金色の長い髪を靡かせ、双眸を閉じているその人はシャカだった。
「その様子だと眠れぬ夜を過ごしていた、と言った所のようだな」
名前はどう返事をしていいのか解らず、しゅんと俯く。
「夕飯は中々に美味であったぞ。うちの女官にでもなるかね?」
名前は時折見かける女官の、いつも忙しなく掃除や給仕に励む姿を思い出して苦い顔をしたが、食事が口にあった事だけは素直に嬉しく感じる。
どうやらシャカは暇をしていたようで、名前の暇の相手をする運びになった。
とはいえ、処女宮には娯楽の一つない。
シャカは足を引きずるように歩く名前の歩調に合わせてゆっくり歩く。
無事処女宮に辿り着いたはいいもののそこには仏像が並んだエスニックな部屋が広がるばかりで、娯楽の一つもない。
シャカはといえば、いつのまにか瞑想に耽っていた。
名前もシャカの隣に座し、同じように目を瞑り瞑想の姿勢に入る。
胡坐をかいていると、歩いているよりは足の痛みも格段と和らいでいく。
心地よい清涼な空間は、とても瞑想に適していた。
いつしかもの寂しさは忘れ去り、虚無の空間に名前は穏やかな気持ちになる。
こうして過ごしていれば少しは暇な日々も退屈せずに済むだろう。
しかし、と名前は思い留まる。
何故自分がここ聖域に足を踏み入れ、それより以前の事が靄がかったように思い出せず、ずっとそれが引っかかっていた。
言葉数少ない自分を快く受け入れてくれて、尚且つ世話までしてもらっているだけに、今の生活はどことなく不自然な気がしていた。
「ほう、中々見込みのある娘よ」
シャカは名前の様子を見て、感銘を受ける。
声すらも耳には入らないほど深い瞑想に入っているものだとすっかり勘違いしたシャカは、久方ぶりに弟子を迎えたいという気持ちが湧き出てくる。
その後は淡々と瞑想に耽るシャカだったが、不穏な小宇宙を感じて片目を開く。
明け方に処女宮を通るといえば、あの二人くらいだろう。
「シャカー!通るぜー」
「しっ。こんな時間に大声を上げたらサガや女官たちが起きてしまうよ」
「うーん?どうもシャカだけじゃないらしいな。この小宇宙はあいつか?」
シャカの予想は見事に的中、デスマスクの声だった。
近くでぶつくさ言っているのは恐らくアフロディーテだろう。
シャカの瞑想の間に、とんだ邪魔者が入る。
「やっぱ名前じゃねえか」
その声で名前は深い瞑想の世界から呼び覚まされ、面を上げるなり短い悲鳴を上げる。
「名前が怖がっているではないか」
デスマスクはシャカを無視して名前の方へとにじり寄る。
名前は勝手知らぬ場で逃げ道もなく、あっさりとデスマスクに触れられる。
「今からアフロディーテと飲むんだけどよ、お前あいつが居たらオッケーなんだろ?」
そう言ってデスマスクはアフロディーテに目配せする。
アフロディーテはやれやれ、と呆れた様子だったが、全く意に介さない訳でもない様子だ。
「ほんの少しだけでも良ければ……」
「決まりだな」
「待ちたまえ、私を差し置いて行くつもりかね?」
「まさかシャカまで着いて来る訳じゃねーだろ?」
「名前が行くなら私も行こう。君達二人では名前に何をするかわかったものではないからな」
「おや、信頼されていないね」
それもその筈、いつも連れのミロやサガを酔い潰しているのだから、シャカにしてみれば至極当然だった。
付け加えて名前は、自らが幼少に体感したことのある飢餓を、望んでもいないままに苦しんでいるのだ。
「仕方ねーだろ!あいつら弱いんだからよ」
「私は止めているんだけどね……」
「大丈夫です。アフロディーテさんも居ますし」
「む……それでいいのかね?」
「折角なら俺んとこにとっておきの一本隠してあるから巨蟹宮で飲もうぜ!」
デスマスクは全は急げとばかりに名前を抱えて走り去っていく。
「苦労をかけてすまない、シャカ」
「どうということはないが、名前はあまり体調が万全ではない。あまり無理をさせてやらないでくれたまえ」
「シャカでも人を心配することがあるんだね」
「慈悲など持ち合わせてはおらぬ」
アフロディーテはむっとしたシャカに意味ありげな微笑を向け、デスマスクの後を追う。
既に姿が見えないあたり、高速でないにしてもかなり早足で行ったのだろう。
シャカの言葉通り無理をさせぬよう、心に誓いつつ巨蟹宮へと戻る。
一方その頃、アイオリアはムウ達との談話を、頭の中で範唱しながらトレーニングに励んでいた。
雑念にまみれた行為に限って体が鉛のように重く感じ、時間の進みがやけに遅く感じる。
が、気が付けば単に高速の、恐らくは自己ベストを更新する勢いで走っていたのにも気付いていないのだからしょうもない。
珍しく息切れを起こし、適当な岩場で休む。
これからどうすべきか、未だに打開策のない迷路に迷い込んだような気持ちになっていく。
ムウやアフロディーテの言葉を聞いて、これまで何でもなかった日々が疑問に変わっていく。
あの時こうしていれば―――そんな公開の念が、アイオリアを支配していく。
「未来を担う黄金聖闘士がこれでは、他の聖闘士達に示しがつかんな」
一人苦笑いしながら青いリストバンドで額にできた玉のような汗を拭う。
軽く一走りしてから、名前にはしっかりと謝罪をしよう。
そう決めたら心の靄がうっすらと晴れたような気がして、最初はゆっくりと、徐々にスピードを上げて道ならぬ岩場を疾走していく。
風が心地よく感じる。
これで毎朝の日課になっているトレーニングメニューは全て終了し、アイオリアは獅子宮へと歩いていく。
ふと、プライベートスペースへの扉が少しだけ開いているのを視認し、何となく嫌な予感がした。
開いてみると案の定、名前の姿はそこには無かった。
たまには外出したい気分になる事だってあるだろう。記憶が正しければここに来てからの数日、名前が外に出た回数は片手で指折り数える程度だ。
それを考えてから、自分がまるで名前を軟禁してしまっていたかのような気分に陥り、頭を抱える。
名前の小宇宙をそれとなく探ると、どうやら下の宮にいるらしく、かなり身近な所に居てくれていることにほっとする。
テーブルにいつも置いているフルーツのバスケットを見遣る。
相変わらず手をつけている気配はない。
アイオリアは南国から取り寄せたというマンゴーを手に取り、一人キッチンスペースに向かい、小さな果物ナイフを手に取る。
マンゴーを真っ二つに切り分けたは良いものの、力が入りすぎて種まで真っ二つにしてしまった。あまつさえ、自分の手の平に浅い傷をつけてしまった。
さっとヒーリングで傷を癒し、血を水で洗い流す。
今度こそはと果物ナイフで種を抜き、果肉と皮のみになったマンゴーに十字で切り目を入れ、反転させる。
不恰好ではあるがむきだしになった果肉から濃厚な甘い香りがする。その場で勢いよく貪りながら、もし名前なら器用に調理してしまうのだろうな、と想像する。
それだけ名前の食事はとても美味かったのだ。
早く会えぬものかと暫くそわそわしていたが、普段よりも遅寝早起きをしたせいか、段々と眠気が襲ってくる。
ベッドにぼふっと倒れこんだ後、枕から漂う薄っすらといい香りが鼻腔を刺激し、そういえば名前にいつも使わせているんだった―――という事を、今更再認識させられる。
そろそろ獅子宮にも新しいベッドが必要か、と考えながら、アイオリアは抗えぬ眠りの渦に飲まれていった。
外もすっかり明るんだ頃、名前はデスマスクのあまりにも豪快な飲みっぷりにドン引きしていた。
アフロディーテは呆れ返っていた。
デスマスクはぶつくさと、ここ数日間ずっと変則的な仕事をさせられていたようで、相当ストレスが溜まっているらしかった。
それにかんしてはアフロディーテが上手くフォロー、というか教皇という上司に対しての思いは同じようで、同上さえ垣間見せている。
どうやら話を聞く限り、この聖域という場所は各宮に配備されている人たちの職場のようなものだと察する。
話の途中で、デスマスクが何かを思い出したかのように名前を見遣る。
「そういや名前は教皇に会った事がないんだってな」
デスマスクはワイングラスを傾けながらそう言った。
確かにそうだ。彼らの、アイオリアの上司に位置する人にはまだ会った事がない。
名前の無言で返答を悟ったデスマスクは、ははん、と一人納得したように頷く。
その意味を捉えきれず、困惑がちにグラスに入ったジュースを一気に飲み干す。
「なんだ、お前飲み物はやっぱ飲めるんじゃん」
「これだけは摂らないと倒れるって、アイオリアに言われて……最初は飲めなかったんですが、段々飲めるように」
「不慣れそうな敬語やめようや。タメ口でいいぜ、アイオリアにだってそうしてんだろ?」
「そうでもないですよ。今更口調を変えるって、不自然な気がして」
「んな堅苦しいのは嫌いなんだよ。ここじゃ敬語はナシ。ここは俺様の宮なんだから絶対な」
「ええっ……無理ですよ」
「はい罰ゲーム」
「デスマスク。あまり名前に無理強いしてはいけないよ?」
デスマスクは真新しそうなワイングラスに酒を注ぎ、名前にぽんと手渡す。
「敬語を使った分だけ飲ましてやるから覚悟しろよな」
名前は最初こそ嫌そうな顔をしたものの、匂いを嗅いで一口、二口とグラスを傾け、ついには飲み干す。
これは案外美味しいかもしれないと思っていると、アフロディーテは意外そうに、デスマスクはやけに嬉しそうににやついている。
「なんだ、お前いける口か?」
「そんなことないです」
「名前……」
「そら、もう一杯追加な」
再びグラスの中が満たされ、なんて意地の悪い人なんだろうと心の中で悪態をつく。
しかし一方で、砕けた人当たりに気が楽になったような気がした。
明らかに心配している様子のアフロディーテは、空いていたままのもう一つのグラスにチェイサーを用意している。
もう一杯、と促されたワイングラスをくいっと傾け、それもまた一気に飲みつくしていく。
一気に体温が上がったような気がして、段々と気分が良くなっていく。
「なーんだ、こんな事ならこの間あのまんま誘っておきゃ良かったな」
「そうは言ってもデスマスク。名前は怪我人なんだよ?無茶をさせて足が悪化でもしたらどうするんだい?」
「大丈夫だって。俺達が付いてりゃんな事にゃならねーし、獅子宮にはあいつが帰ってきたみてぇだからな。万全だろ」
「だからといっても節度が……」
「デスマスクさん」
「面倒だから略称でいい」
「デスでおっけー?」
「おうよ。いい調子になってきたな」
「アフロディーテはアフロだねー」
すっかり口調がとろんとしてきた名前に、アフロディーテは苦笑いした。
それだけではない。
「アフロは髪形みたいであまり好きじゃないんだ。せめてディーテ、と呼んでもらえないか?」
名前は笑いながら、はあい、と短い返事をする。
合間にちゃっかりデスマスクに酒をせがんでいるのだから抜け目がない。
デスマスクに至っては既にラッパ飲みしているくらいだが、名前のペースはそれに引け目を取らないほど。あっという間に瓶が空になっていく。
「すっかり朝になってしまったし、そろそろお開きにしないかい?」
アフロディーテが名前のグラスを取り上げ、呆れた様子で言う。
名前はまるで人が変わったかのように、アフロディーテの手中にあるグラスに手を伸ばしていやいやするが、次第に大人しくなっていく。
「わかった……ディーテがそう言うなら」
唇を尖らせて拗ねる様子は、子供のようだとアフロディーテは困ったな、と内心で一人ごちる。
デスマスクは目的があくまで飲むことだったので、引止めはしなかった。
アフロディーテは名前を横抱きにして、巨蟹宮を出て行く。
手をひらりと翻して「んじゃまたな」と上機嫌で言い捨てるデスマスクに、名前も笑顔で手を振った。
巨蟹宮まで降りるときとは違い、一瞬で視界が変わる。
名前自身がいつの間にか獅子宮の中に居ることを理解するまでに、数秒の時を要した。
アフロディーテは涼しげな顔をしている。
よくわからないままお礼を言い、降ろしてもらうと僅かに足が痛みを発する。
今度もまた三人で飲みたい、と言うと僅かに困惑した様子だったが、アフロディーテは頷いた。
見送られてプライベートスペースに戻ると、ソファーには誰も居ない。
変わりに寝室にこんもりと真紅のタオルケットを被ったアイオリアが、寝息を立てている。
「さっきは突然逃げてごめんなさい」
案しきった様子で眠るアイオリアに、名前は言葉をかける。
当然返答などなかったが、今はそれでよかった。
名前はベッドに上がりこみ、アイオリアの足元で猫のように丸くなり、タオルケットに包まる。
アイオリアが寝起きに驚いて、大声を上げるまであと数時間。