Licht09


教皇宮、そこには普段なら滅多に書物の一つも手にしないであろう人物が、書類に視線を馳せていた。
端正な顔立ちに麿眉のその人は教皇シオン。

「これほどまでの事態であったとはな」

シオンが手にしている書類には結城の顔写真と共に、綿密な文字列が並んでいる。
向かい側に位置するムウは、聖衣を身に纏い淡々とその様子を眺めてる

「してムウよ、これは事実なのだな?」
「ええ、それが私の知る限りの情報です」
「そのものを教皇宮へ呼び寄せたいところだが、しかしこれは・・・・・・」
「まだ時期が悪すぎるでしょう。彼女は未だ記憶を取り戻していない状態ですから、下手に刺激してしまえば混乱を招きます」
「彼女は被害者でもあります」
「わかっておる」

シオンは眉間に深い皺を作る。

「この件はムウに一任する。かの地には既にアフロディーテとデスマスクを向かわせている。事は重大だ。早急にあの娘を―――」


剣呑な雰囲気に包まれたままの教皇宮を、ムウは一する。カツカツ、と聖衣のヒールを鳴らしながら十二宮を降りる
ムウの目は全く笑っておらず真剣そのものだ。
真っ直ぐに向かうは獅子宮。
今は昼、名前はまだ眠っている時間だ。

「何か用か?」

凡そ早朝のトレーニングをしていたであろうアイオリアは、ただならぬムウの気配に表情を引き締める。ムウの目には物を言わさぬ意思が宿っている。
アイオリアは無言で歩き出したムウの後を追うように歩き出す。






辺りがほの暗い未明となった頃。
名前は喉の奥から込み上げるような吐き気に目眩、それらに抗っていた。
まるで体の奥底にヘドロが流れているかのような感覚に、名前は何度も意識が持っていかれそうになる。
しかし気分を害する感覚は治まること無く、心を蝕んでいく。
頭の片隅で何かが解れぬ違和感が、より不快感を煽る材料となっていた。
名前は漏らすように悲鳴を上げた―――と思ったが、声帯は震えること無く乾いた吐息だけが漏れる。
静寂からは程遠い心臓の脈同感に、聴覚を奪われる。
名前は散漫な動作で据え付けのサイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばす。しかしそれは手に収まること無く、視界はぐらりと反転する。
硝子製の水差しと、その隣にあったコップが割れる。その音はどくん、どくんと頭に響き渡る鼓動に遮られ、名前の耳に入ることはなかった。

ムウから開放され、何枚かの紙束を渡されたアイオリアは、ソファーに背をもたれて一枚一枚確認していた。
それらは全て、名前にまつわるものだった。
信じがたい文字の羅列に、眉間によっていた皺がより深くなる。読み進めていくと、深く深く皺は刻まれていく。

ぱりん。
硝子が割れる音と共に上体を起こす。反射的に名前の姿を探すその目蓋には、くっきりと隈が刻まれている。この所、不眠不休で働いたツケだ。
視線の先には力無く倒れた名前が、割れた硝子の上に横たわっている。本来あるはずのサイドテーブルも、名前とまた同様になっている。
背筋にひやりとしたものが流れる。
アイオリアは直ぐ様名前の元に移動し、抱き寄せながら何度も名を呼ぶが反応がない。
薄く開かれていた名前の瞳は虚空を見詰め、呼吸はひどく浅い。
その様子は得たいの知れぬものを拒絶し、泣きわめく赤子のように見える。
普段の様子からはかけ離れた姿に、アイオリアは狼狽えながらも、名前をそっと抱き寄せると嗅ぎ慣れた鉄錆にも似た臭いが鼻を掠める。
名前の頬を見遣ると、小さな硝子の破片が柔らかな頬に食い込んでいる。それを出来るだけそっと抜き取り、止血に宛がう布を探そうとする。
しかし腕の中で震える名前に気付き、アイオリアは自身が着ている服の片腕分を破いて頬から滲む血糊を拭う。
これだけ憔悴しきった姿は、名前と知り合ったその日を会わせると二度目。どうしてこうなったのか、アイオリアは思考を凝らすも皆目検討もつかない。
胸がちりちりと痛むのを誤魔化すように、名前の背中をとん、とん、とゆっくり叩く。

幼い頃、嫌な夢を見て泣き出した苦い思いを脳内再生していた。その時、アイオリアは兄アイオロスにこうしてもらっていた。
その度に安堵し、気がつけばよく兄に頼ったものだ。

アイオリアの行動が吉と出たのか、浅い呼吸は僅かに緩やかに変化する。
そうした時間が悪戯に過ぎる。アイオリアは徐々に鎮まる名前を、少しきつく抱き締めると、小さな手が遠慮がちに腰のあたりに触れる。
名前が身に纏っているのは下着のみだった。抱き合う体勢になってはいるが、出会った翌日のような不埒な気持ちには到底なれなかった。
時間が経つにつれて、再び胸を焦がすようなむず痒さを思い出す。
こんな感覚は、アイオリアにとって生まれて初めてだった。

空気を割くような吐息が聞こえる。
アイオリアは頭の中が何かに弾かれたようになりながら、名前に視線を向けると視線がぶつかる。

「たっ・・・・・・」

名前は柔らかな唇をゆっくりと開く。

「たす、けて・・・・・・」

言葉と呼ぶには不十分なほどに空気を含んだそれを、アイオリアは名前が意図した通りの、思いそのままに受けとる。
しかしどう対応したら良いものか、全く頭に浮かばない。
アイオリアの眉間に、深い皺が寄る。
まだ胸がちりちりする---アイオリアはそれが何故なのか、さっぱりわからなかった。
只ひたすら名前を抱き締める。腕に当たる柔肌は、不安に身を委ねるばかりだったアイオリアにとって安堵をもたらす。

「苦しくないか?」

状況に戸惑ったアイオリアは、苦し紛れに言葉を発した後で、しまった―――と緊張を現す。しかし空気を含んだ短い返事が帰ってき、より一層胸がちりりと痛む。
気が紛れるようにと抱き締める力を強める。それがどちらのためか、アイオリア自身には全く判断がつかないくらい、思いに身を焦がしている。
腕の中でもぞもぞと名前が身動ぎする。どうやら顔の位置が悪かったようで、名前は苦しげに吐息を漏らす。
動作ひとつで胸が高鳴った。心配と焦燥が入り交じり、アイオリアは目を細める。じれったい。
何に追い立てられているのかと自問自答するが、理由はわからない。だが胸に抱いた名前を意識しているとだけは、鈍感なアイオリアはうっすらと理解する。しかし何かが引っ掛かり、凝り固まった理性がそれを否定する。
幾ばくかの時間が過ぎる。
アイオリアは座り込んだままでは名前が休まらないと頭で勝手に理由付け、名前を横抱きにする。
場所をアイオリアの拠点となるソファーへと移し、二人は自然と寄り添うように座る。
名前がアイオリアの手をぎゅ、と握る。男よりも華奢な手や肩はまだ震えを含んではいるが、最初よりは格段に良くなってきている。
アイオリアは安堵が故、強ばっていた口許を僅かに緩ませる。
名前はアイオリアの肩に頭を寄せる。

「怖かった」

名前がぽつりと漏らす。
アイオリアはどう返答すべきかと視線を泳がせる。しかし何も思い浮かばない。

「何故かわからないけど凄く不安になって、一人で、辛くて、苦しかった」

辿々しく言葉を紡ぐ名前は、今にも泣きそうなのだと声色でわかる。
気の利いた返事など一編たりとも思い浮かばず、アイオリアの胸がじくじくと膿んだように痛む。気がつけば本能で動いていた。
次の言葉を聞くのが怖かった。
アイオリアは名前をベッドの角に押し付け、身体もろとも密着する。
いきなり頭に優しい衝撃が降ってくる。どこまでも優しい、アイオリアの手がぽん、ぽん、と名前の頭を撫でていた。
それだけで全てが満たされる奇妙な感覚に、名前は戸惑い半分、安堵する。

「ゆっくり。ゆっくりでいい。あせる必要はないんだ」

その言葉を皮切りに、名前は目蓋を伏せる。
一定のリズムで齎される暖かな衝撃は、名前に安らぎを与えてくれるもものだった。
次第に規則正しい寝息が聞こえ、アイオリアはほっと安堵の溜息を漏らす。

これほどまでに取り乱した名前を見るのは、今日が始めてというわけではない。
数日に一度、不定期に名前は不安を口にしながら暴れるのだ。
それをどうにかしたくとも、ムウから渡された書類を思い出し複雑な心境になった。

腕の中に居る名前はか細く、筋肉も日毎衰えている。
じっと見つめれば長細い睫毛、柔らかな唇、瑞々しい肌、女性らしいラインを描いた曲線がそこにある。
薄明かりはそれらを非現実的なほどに妖しく見えた。
それだけに、どうしても信じられないような、腑に落ちたような、なんともいえない気持ちになった。

唇を噛み締めると口の中に鉄錆の味が充満する。
彼女は、聖域の被害者だ。