「今日は珍しくオリハルコンが沢山手に入りましたね」
機嫌上々のムウは、何者かが息を荒げて駆け抜ける音を察知し、普段と変わらぬ表情で辺りを見渡す。
それは聖闘士ではない女性のものだとすぐにわかった。
徐々に遠のいていくその先はコロッセオがある。こんな深夜に女官か誰かは定かではないが、あのような場所へ向かうとなると何かしら訳があるのではないか。オリハルコンの入った袋を抱え、足音の主を見つけるべく高速で追う。
後姿を見つけると、それは名前だとわかった。
後一歩、手を伸ばせば届く距離―――という所で、彼女は視界から消えた。
というか、盛大にすっころんだ。
「まだ先日の怪我も治っていないというのに、貴方という方は懲りませんね……」
ムウが名前の腕をくい、と掴むと彼女は怯えを含んだ眼差しをムウへと向ける。
悟られぬようアイオリアに小宇宙で通信を図る。
―――アイオリア。聞こえていますか?
―――ああ、聞こえているぞ。
―――実は名前が怪我をしているようですので、少しの間預かりますよ。
―――……わかった。
通信を終えたものの、最後の間が気がかりだったがあまり踏み込んではいけないのか考えたが、それは得策ではないだろう。
名前がなぜこんな所にいるのか。
聖域の治安が完全に良くなったわけではない。目の行き届かぬところで得た力を悪行にを注いでいる輩は不定期に表れる。
知っている限り、恩師シオンも彼女に心を痛めている。こっそりと具合を聞いてくるのもあり、名前には何か大きなものが絡んでいるのではないかと考えていた。
一般人が簡単に聖域に留まることを許されることそのものが異例だった。
「何かあったのですか?」
問うても返事は返ってこず、名前は暗い面持ちで俯くばかり。
拒絶を全身から発する様子に、ムウはオリハルコンの袋をその場に置き、屈みこむ。まだ包帯の取れていない名前は、開いた手で足首を押さえている。
しかし表情だけは先ほどから変わっていない。
出来る限り優しく、ムウは注意不足を嗜めながら事情を伺う。
言葉は途切れ途切れだが、名前はゆっくりと言葉を紡ぐ。
アイオリアと食事の際に一悶着があったようだった。だが肝心の確信は頑なに話そうとせず、そこを訊こうとしてもだんまりを決め込んでいる。仕方なく名前を抱きかかえる。
以前よりも警戒心は解かれているのか、今日の名前は至って大人しい。
自宮の自室へと運ぶまで、一切の抵抗も示さない。
いつもならどうにかして治療を拒否するのだが、ただ呆然と眺めるばかりで他に反応を示さない。
なにかがおかしいと、疑念を募らせるには十分だった。
これまでもムウから話しかけたことはあれど、名前は返答しかせず、自ら進んで発言するなど滅多にない。
強いて言えば、アイオリアとの前でだけは多少なりとも会話はするらしい事はわかった。
ここまで名前が心を閉ざしている理由は―――いつだったか名前がここ聖域に身を置く経緯をアイオリアに聞いても、詳しくは知らないのだそうだ―――噂ばかりが先行し、ある者はアイオリアを誑かすスパイだとか囁かれているが、その真相は未だ謎だらけだ。
ムウは思慮に耽りながらも丁重に手当てを済ませ、名前に一つ疑問を投げかける。
「あなたはなぜここ聖域に来たのですか?」
それは好奇心からではなく、推測に基づいた質問だ。
名前はうーん、と唸り、真っ直ぐにムウを見据える。
色濃い困惑を映し出している。
「覚えて、いないんです」
「それでは覚えていることはありますか?」
「……食事を作ることと、ある程度の会話ぐらいで、他には全然。ただ、よくわからないけれど外が怖いです」
ムウの中である憶測が確信に近づく。
「辛い質問をしてしまいましたね」
名前は申し訳なさそうに床に視線を落とす。
それが叱りつけている最中の貴鬼を連想させられ、ムウは柔らかく微笑む。
「あなたは何も悪くないのですよ。ですから、そんな顔をしない事です。手当ては終わりましたが、このままアイオリアの元に帰……」
ムウは言いかけて、止める。
苦汁を舐めたかのような名前の表情に、思うところがあったからだった。
『戻りたくない』とそのまま顔に書いてあるかのようで、思わず苦笑いする。
さてどうしたものかと思ったその時、ムウ達の居る部屋の扉が勢い良く開け放たれる。
酒気を孕んだ吐息は見ずともわかる。
「またあなた達ですか……」
「ムウ!二日酔いにとびっきり効き目がある薬をよこしやがれ!」
「デスマスク、出会い頭にそれは不躾じゃないかな。こちらは問題児を抱えているのだから」
守護者の意思を我関せずとばかりにミロとアフロディーテ、デスマスクが仲良く並んでいる。
ミロに至っては完全に酔いつぶれており、ほんのり上気したアフロディーテはしっかりと理性を保っているのか、デスマスクを嗜める。
が、思わぬ来客に驚いた名前は、びくりと肩を震わせて例の三人に視線を向ける。
驚いたのはアフロディーテとデスマスクも同様で、先ほどの威勢はどこへやら、急に静まり返る。
「ここには怪我人が居るのでお静かに願います。時にデスマスク、あなたという人はまたミロを酔い潰したのですか?」
「潰したんじゃねえ、こいつがバーの姉ちゃんに相手にされなくて勝手に酒を浴びるほど飲んだんだよ」
「それより名前、綺麗な肌をこんなにして……可愛そうに」
「そういやそうだ、何で名前が怪我してんだ?」
「女性に秘め事の一つや二つはあるだろう」
至極冷静なアフロディーテはさておき、名前は急な展開についていけず目を瞬かせている。
ムウは一先ずミロを介抱し、とっておきの苦い薬を無理やり流しこむ。
そうこうしている間にデスマスクが名前に詰め寄り、酒の席に誘っている。
ムウは軽い頭痛を覚えつつ、デスマスクをどう追い出すか算段を立てていた矢先。
「アフロディーテが、いるなら」
あっさりと引き受けてしまったのである。
「あなたは怪我をしたばかりで全快とはいえません。酒は長寿の元とも言われますが今の状況では炎症も長引く一方です。それとミロに薬は飲ませましたから、デスマスクはミロにたっぷりの水を流し込んで天蠍宮に早々に放り込んで下さい。いいですね」
有無を言わさぬ物言いに、デスマスクは渋々ミロを担いで出て行く。
が、アフロディーテは名前の隣に座りこみ、穏やかな表情で背中を撫でてやっていた。
あまり他の宮に出向くことが無いため情報は疎いが、どうやら名前とアフロディーテはそれなりにうまが合うようだ。不躾なことは言わず、名前の身を案じながらもぽつぽつ言葉を交わしている。
名前の表情が幾ばくか和らいでいく。
この様子だと、恐らくアフロディーテは名前の異変に気が付いているだろう。察しのいい彼の事だ。
「アフロディーテ、貴方にお願いがあります」
「どうかしたのかい?」
「名前をアイオリアの自室へと連れて行ってほしいのです。私は先に双魚宮へアイオリアと向かいます。少々立て込んだ話になりますが、お願いできますか?」
「私は構わないよ。さあ名前、そろそろお休みの時間だ」
きょとんとしている名前を他所に、アフロディーテは名前を横抱きにし、足怪我しているを刺激してしまわぬように、ゆっくりと歩いていく。
ムウは視線から自分が外れていることを確認してアフロディーテの横を高速で走り、、獅子宮にたどり着く。
アイオリアは食事の後片付けをしていた所だったが、あまりにも動きが鈍いので近くに構えていた女官に一切を託す。
自体を掴めずに居るアイオリアは妙に落ち着きがない。共通しているのは、どちらも表情が暗いことだ。
「彼女の―――名前の事で話があります。じきアフロディーテが彼女をここに連れてきますから、アイオリアは私と共に双魚宮に来て下さい。じきアフロディーテも追ってきます」
アイオリアは『名前』のワードにわかりやすい程の反応を見せる。
ムウは苦笑いを押し殺し、アイオリアと共に双魚宮へと移動する。
主不在の双魚宮は薔薇の芳しい香気が満ちている。
沈黙が続く中、ムウはアイオリアをどう問い詰めてみようか、と算段を立てていたのだが、思うより早くアフロディーテの姿が見え、腹黒羊の計画は一先ず保留になる。
「アイオリア。デスマスクの言葉を真に受けたね?」
沈黙を破ったのはアフロディーテだった。
「そ、それは……」
「咎めはしないよ。君の行為は決して間違ったものではないと思うんだ」
「どういう事だ?」
「事情は察しかねますが、その様子ではアフロディーテは彼女の異常な事態に気付いているようですね」
「当然だよ。名前は実直でわかりやすい子だからね。アイオリアは全く気づいて無い様子だけれど」
「見直しましたよアフロディーテ」
「そこの馬鹿猫とは大違いだろう?」
話の道筋が見えないでいるアイオリアは、ひたすらその場に固まって両者の言葉に耳を傾けるほか無い。
「心して聞いてください、アイオリア」
ムウは前置きして、アイオリアの目を真っ直ぐに捉える。
「彼女は―――名前は記憶喪失に陥っている可能性が非常に高い、いいえ、そのものだと言っても良いでしょう」
「何だと……?!」
「あれだけ近くに居る君が気付いていないとはね」
アフロディーテはあやれやれといった様子で、テーブルに飾り付けていた薔薇を一本引き抜き、目を細めて神妙に目を伏せる。やはり気付いていたのだと思うと、聊かこみ上げるものがあるものの、彼女にとってもデリケートな問題なのだから仕方がない。
茫然自失といった様子のアイオリアは、みるみるうちに険しい表情へと変貌していく。
「彼女には食欲がない。恐らく三大欲求である食欲を忘れている、という事になるのかな。納得が行ったかい?デスマスクの言葉はあながち間違いではないと」
そこでムウは初めて名前とアイオリアの間に生まれた妙な亀裂に合点が行った。
確かに食欲を忘れているなら無理矢理にでも喉に流し込むほか無い。それをすることで、精神状態が不安定な人間にどう影響するかなどは明白だが、これもまた難しい問題だったのだから今更の話だ。
「アイオリア。彼女は自身の事を限りなく覚えていないようなのです。居住を共にしているアイオリアなら思い当たる節はあるでしょう。他にも何か、記憶の欠落を示唆する何かが」
アイオリアは苦い顔で出会い頭からの全てを思い出しながら、それを言葉にした。
最初こそ己が身が一糸纏わぬ姿になろうと大した反応も示さず、表情は乏しく、名前という名前以外に得た情報は少ないそうだ。
珈琲に黒糖を入れると喜ぶこと。
進んで話すことはあまりないが、語り掛ければそれなりに反応を示してくれること。
あまり名前は自分自信に関心を持っていないこと。
アフロディーテとどことなく仲がいいこと。
口調が敬語になったり、そうでなかったりとその時次第で変わること。
それを、ただしとやかな娘なのだとばかり思っていたと。
今日に限っては名前が進んで食事をしようと、バイキング方式をとったこと。
「名前が一番に心を許しているのはアイオリアなのですよ。快方に向かっているとはいえ、先ほど足を挫いて暫くは安静が必要ですから、今後の事を考えなくてはなりません」
「……俺には自信が無い」
「いいえ、アイオリアにしか出来ないことがあるはずです。でなければ、あなたのために数少ない記憶を頼りに食事を用意したりなどしないでしょう。自分で食べもしないのに、ですよ?」
「羨ましい限りだよ。敵に塩を送るつもりはないがこの聖域で彼女の姿を見たことがあるのは、ごく僅かに限られている。私の知る限りでは教皇ですらまだお目通りになっていないと。デスマスクはさておき、他の黄金聖闘士達はどうなのだろうね?この意味はわかっているかい?」
アイオリアは改めて教皇にのみ打ち明けた本心を思い返す。
彼女の身を案じる教皇を前に『このアイオリアが責務を全うしますが故、お任せ下さい』と、己自身にも誓ったのだ。
明確な道筋も何も、明暗では無い。
だが一度胸に誓った以上、これまで以上に名前に対して真摯に向き合わねばならないと、二人のお陰で思い知った。
強い意志を瞳に灯したアイオリアを目の当たりにしたムウとアフロディーテは、ほっと胸を撫で下ろす。
そこからは懇々と名前についての打開策を三人で語り合った。