Licht06


ムウの甲斐甲斐しい治療のお陰で、徐々に足の調子が良くなってきたのか、少しばかり体が軽くなったように感じていた。

今日はささやかなお礼に、サプライズをしてみようと思い立つ。
何か出来ることをと考えた末に、自分では食べもしない料理を振舞ってみようと、こっそり家主の居ない獅子宮のキッチンに立つ。
冷蔵庫や調理器具をあれこれと探すが、名前は一人首を傾げる。
食事はいつも女官が運んでくる。
アイオリアがキッチンに立つとしたら、珈琲を入れるか小腹が空いた時に果物の皮を剥くくらいでしか見た事がない。
これぞ男の一人暮らしと言わんばかりに、酒と肉しか無い冷蔵庫はとても寂しいものがあった。
アイオリアが料理など到底するようには見えない。
名前は数少ない記憶を頼りに、獅子宮をひっそり抜け出す。

獅子宮の上は処女宮だと、以前アフロディーテが言っていたような気がする。
燃費の悪い体では記憶がおぼろげでどうしようもない―――そう自分に言い訳をしながら、誰か人は居ないかと、聖域のやたら長い階段を上る。
外は神秘的な石造りで、雑草一つ生えていない。

期待と未知への不安を胸に、処女宮に足を踏み入れる。
どこが出口かすらわからない。
暫くすると、驚くほどに奇麗な男の人が出てくる。瞼を閉じているその風貌は端麗で、袈裟を着ている。
あまりに矜持たる姿に、思わず冷汗が噴き出す。

「何だね?」
「初めまして、名前と申します。今お時間ありますか?」
「ほう、君がアイオリアの。話には聞いている。して、このシャカに何用だね?」
「いつもアイオリアにお世話になっているので、お礼に食事でもと思ったのですが、獅子宮では食材が乏しくて」
「それならば私に任せるがいい。暫し中で待たれよ」

名前はシャカに案内され、リビングへと足を踏み入れる。
中には怪しげな仏像や仏具が並んでいる。
場違いにも思える異空間ぶりに、名前は絶句していた。

「落ち着かぬようだが?」
「獅子宮の外に出るのは二回目なんです。ちょっと緊張してしまって」
「そう畏まるでない。そこで寛ぐがよい」

シャカは床に敷かれた座布団を指さし、何処かに行ってしまった。
凛然としている姿は一見すると怖いのだが、どうやら優しそうな人で良かった。名前はほっと胸を撫で下ろしながら、指定された場所に座す。
程無くして籠一杯の食材を抱えたシャカが戻ってくる。

「これだけあればアイオリアには足りるだろう。名前とやら、君はあまり食欲が芳しくないと耳にしたが、食事は口にしているのかね?」
「いえ……見るだけでお腹いっぱいになってしまうんです。今日はアイオリアと一緒に食べてみようと思うんですが」
「ふむ。この中に食欲を増幅させるスパイスを足しておいた。食事は心身を回復させる重要なものだ。このシャカが用意してやったのだから、無碍にするのは許さん」

大変なプレッシャーを頂いてしまった―――そう思いながら、手渡された籠を持つとよろめいてしまう。もの凄く重い。
それもそのはず、ジャガイモや人参などの質量のある野菜がどっさり入っている。
気合いを入れて持ち直そうとすると、シャカが籠を取り上げる。

「細腕には身に余るか。仕方ない……私が獅子宮まで運んでやろう」

情けない自分に目頭が熱い思いだ。

獅子宮まで籠を運んでくれたシャカは道中、説法をしきりに唱えていた。
頼る相手を間違えたかもしれない。
好意で良くしてくれているのにと罪悪感が沸き起こるが、とにかくくどい。
煩悩が増えてしまいそうだなどと思いつつ、名前は料理が出来たらシャカにもお礼にお裾分けすると約束をして、早速料理に取り掛かる。
主が不在の獅子宮には、時間の経過と共にいい香りが立ち込めていく。




一方、アイオリアは任から解放され、教皇宮に居た。
教皇として復帰した教皇・シオンは今日は何故か面を付けていない。
炯然たる意思を伴う眼光に、思わず強張る。

「そう固くなるでない。して、アイオリアよ。先日の娘の様子は如何か」

てっきり任務の話が始まるかと思っていた手前、拍子抜けして「へっ?」と恐れ多い言葉が漏れる。

「お主が謁見を申し出た以後、アテナ率いるグラード財団の協力をもってしても身元がわからぬのだ。それにかの者の小宇宙からしても体調は良い状態ではないな」
「。以前食もままならず、快方と呼べる状態ではありません」
「なれば早急に手を打たねばならぬか……」
「しかしながら、精神状態は微弱ではありますが良くなっております。このアイオリアが責務を全うしますが故、お任せ下さい」
「うむ。かの者の身内が存命ならば、さぞ心配しているやもしれぬ。頼むぞ、アイオリア」

その後は任務の報告を終え、帰路をいつになくゆっくりと下っていた。
教皇からの勅命だ。
今日こそは名前に何かを食べさせねばなるまい。
日に日にやつれていく様子を見かねて、任務を終えたのち、道すがら見つけた露店で菓子を土産に包んでもらった。

「しかし、どうやって食べさせたらいいものか……」

ふと、デスマスクの声が脳内で反響する。

『簡単だろ。口移ししちまえばいいんだよ』

アイオリアはその場で固まり、雑念を振り払うが如く顔を横に振る。
―――そんな事を女性にできるものか。
ただでさえ名前は繊細な所がある。
常に憂いを帯びた瞳に、華奢な身体。
そこまで考えて、名前のあられもない肢体を思い出し、天を仰ぐ。
傍から見ればただの変人だろう。
不運なことに、アイオリアの様子をこっそりと見据える人物が石柱の奥から向かっている事に、本人は気付く余裕すらなかった。

「口移しなど出来るはずが……」

ぶつぶつと独り言を口にするアイオリアに、その人物は小首を傾げる。

「口移しとはなんだね?」
「うわっ?!何だ……シャカだったか、驚いた」
「まさか君ほどの者が私の気配すら気付かないとは。負傷している様子ではないようだが」
「いや、忘れてくれ……」
「もしやとは思うが、名前の事か」

アイオリアはシャカに名前の事を話した覚えがなかった。
シャカはいつものように涼しい顔をしている。

「彼女なら、今宵は君と食事を共にするのだと息を巻いていたが」
「本当か?!じゃあ口移ししなくてもいいんだな?!!」

言った後ではっと我に返り、顔を手で覆う。
顔が熱を帯びている。
シャカは薄ら笑いを浮かべ、アイオリアに言い放つ。

「……ほう、そういう事かね。ならば私は少々邪魔をしてしまったようだ」
「どういう意味だ?」
「己と対峙すれば自ずとわかる事。それより獅子宮で待ちわびている者がいよう。早急に去りたまえ」

頭の上に疑問符を沢山浮かべるが、シャカに促されるまま再び獅子宮へと急ぐ。
あの名前が食事を作って待っているというのは些か信じがたいが、シャカの言葉には真実味があった。自然と体が軽く感じる。
暫くすると、獅子宮の方角から食欲をそそる香りが鼻孔を掠める。
いてもたってもいられず、プライベートルームへと繋がる扉を荒々しく突破する。
そこにはシンプルなエプロンをした名前が、テーブルの上を片付けている所だった。
あまりに新鮮な姿に、言いようのない高揚感を覚える。
やはりあの話は本当だったのか。

「ただいま帰還した。遅くなって済まない。所で旨そうな匂いがするのだが……」
「ご飯作ってたの。その……いつもアイオリアに手当してもらったり、迷惑掛けてるからお詫びに」
「迷惑などではないが、丁度腹が減っていたのだ!」
「もう少しで煮込みが終わるから、椅子に座って待ってて」

言い淀むアイオリアの姿に、名前は小首を傾げる。

「名前は食べられるのか?」

他の黄金聖闘士にも名前の話が伝わるくらいだ。恐らく広めたのはデスマスクだろうが。
相当心配させてしまっているのだろうと、胸が痛んだ。
小さく頷く名前に、思い切りよく抱きしめる。
名前の顔はアイオリアの予測不能な行動によって、驚愕の色に染まる。
アイオリアはそれに気が付き、目を瞬かせてぱっと離れる。

「す、すまん!嬉しくてつい……」

距離を置くも、名前は何事もなかったかのようにキッチンスペースへと消えていった。
本当に掴み所がない。
アイオリアは癖っ毛の髪をわしわしとかき乱し、言われるままに椅子に座る。
程無くすると料理がたっぷりと盛られた皿が、矢次に運ばれてくる。
普段口にするよりも多いその料理は、バイキング方式なのだと名前は座りながら言った。
手際よく小皿に料理を盛り付け、アイオリアの前に置かれる。
それはギリシアで目にするには珍しい食物、日本で食べる機会の多いものばかりだ。
アイオリアは遠慮なく食事に手をかける。
そのどれもが絶妙にスパイスが効いていて食が進むのだが、名前は神妙な面持ちで食物をフォークでつつくばかりだ。

「やはりまだ、食べられないか?」

心配げなアイオリアに、言葉が詰まる。

「お腹は空いているんですが……なんだか手が進まないというか、その……ごめんなさい!」

ガタン、と音を立てて立ち上がる名前を、アイオリアの腕が制した。
突拍子もない行動に、名前はたじろぐ。
アイオリアは何かを決起したかのような真剣な面持ちで、名前の肩を両手で押さえ込み、再び椅子に座らされる。
あまりの豹変振りに、名前は気圧される。
かと思えばアイオリアは途端に顔を赤らめ、わなわなと震えている。

「しないと心に誓ったのだが、すまない」

何をするのかと思えば、アイオリアは食事をほんの少し口に含み、名前の唇を奪う。
名前の口の中にはアイオリアから齎されたものが流れ込み、驚きのあまりそれを飲み込む。
目を見開いてアイオリアを見やると、顔が驚くほどに真っ赤に染まっている。
きっと身を案じてのことなのだろうが。突然の事に対処しきれないで居た。
唇が離れたと思いきや、再び食事が口伝いに流し込まれる。
これは彼なりの好意なのだ。病人にする事と同じように、しているだけなのだろう。
それでもやけに気恥ずかしくなり、アイオリアの胸を軽く押しのける。一見強靭そうな身体はいとも簡単に離れていく。
気まずい沈黙が空間を支配する。

「私、シャカに食事のお裾分けを約束しているので、届けに行ってきます」

至極冷静に言い放つ名前に、アイオリアは気が気でなかった。
―――嫌われてしまったろうか。
そんな思いは虚しく、一人獅子宮に残されたアイオリアは、思い切り机に突っ伏した。


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