名前は足の痛みと悪戦苦闘していた。
突然悪化した訳ではない。
部屋を抜け出して散策しようと外に出たは良いものの、思い切り階段を踏み外してしまったのだ。
つんのめりながらも転げ落ちることだけは回避できたことにホッと一息つくのも束の間。
「そこの御方、大丈夫ですか?」
誰かに見られてしまったのである。
名前は初めて耳にする声色に焦りを覚えつつ、声の主を視認する。
驚くほどに澄んだテノール、透き通るような藤色の髪は女性と見紛うほどに長く、美しい。
容姿端麗なのだが目を引く麻呂眉に、黄金の鎧はどこの時代かと錯覚するものがある。
「足を痛めていますね。もしかして……貴女が名前さんですか?」
名前はびくりと肩を震わせ、訝しげに藤色のその人を見つめる。
「私は牡羊座のムウと言います。すみませんが足を診させて頂けませんか?」
「いえ、これぐらい大丈夫です」
「放って置いたら良くなるものも治りませんから」
名前の表情に影が落ちる。
別に治らなくてもいい。
そんな名前の心中を知ってか知らずか、ムウは手際よく痛む足をぐい、と引っ張る。
足元からせりあがるような痛みに顔を顰めていると、ムウは至って真剣に名前を見上げる。
「無理は体によくありません。事実こんなに痛がっているではないですか」
「でも」
「気丈な娘ですね。貴女のことはアイオリアから聞いていますから、そう警戒しないで下さい―――といっても、無理はありませんね。ここでは手持ち無沙汰ですから、白羊宮まで我慢してもらえますか?」
とは言うものの、有無を言わさぬ絶対的な声色に、名前は生唾を飲み込み、頷くしか出来なかった。
あれよあれよと抱きかかえられたのも束の間、瞬きしている間に景色はガラリと移ろう。
ここはどこなのだろうか、という疑問はそこそこに、目の前の重厚な石の扉が勝手に開いていく。
ムウは未だ名前を抱えたまま。
一体どんな仕組みで動いているのだろう、という疑問は口にする間もなく、ムウはそのまま扉の奥に歩を進めていく。
立ち込める薬品の香りに、眉を潜める。
ムウは一人がけのソファーに華奢な名前を下ろす。
「薬を調合してきますから、そのまま待っていてください」
どの道動けない名前は、大人しくソファーに凭れ掛かる。
諦めて周囲に視線を移すと、殺風景なそこは獅子宮のそれとは全く違い、整然としている。
ムウは薬品棚にある瓶を幾つか手に取り、擂り鉢に中身を移していく。
手馴れた医者のような振る舞いに、感心しながら様子を伺う。
会話をするでもなく、しんと静まった空間に、名前の緊張は次第に解けていく。
暫くすると、濃厚な渋みのある香りが迫る。
それがムウの手にする擂り鉢の中身であることは、確認せずとも明白だった。
ムウは擂り鉢を名前の足元に置き、再び棚に向かい合う。引き出しを数箇所漁り、紙のようなものとスパチュラを手にする。
再び名前の元に戻り、丁寧に擂り鉢の中身の粘液を紙に塗りたくる。
「足をそのまま伸ばしてください。少し痛むかもしれませんが、我慢してくださいね?」
言われるがままに足を伸ばすと、踝の辺りにひやりとした感触が肌を震わせる。
ムウは次に包帯を足に巻きつけ、穏やかな笑みを名前に向ける。
「医科のお方なのですか?」
「正確には違いますが、得意分野の一つと言っておきましょう。もうすぐアイオリアが戻る時間ですから、獅子宮まで送ります」
「い、いえ、自分で歩けます」
「貴女のその足では十二宮を上るのは困難でしょうから、遠慮は要りません」
「十二宮?」
「そうです。ここは十二宮の一角で、この地域のことは聖域と呼ばれています」
「聖域……」
ムウは苦笑いして、名前を再び抱き上げる。
急な動作に驚いた名前は咄嗟にムウの首元に抱きつく。
羞恥が駆け巡るが、足の痛みが勝り、名前はぎゅっと目を瞑る。
景色はやはりその間に一変しており、目を開けた頃には見慣れた獅子宮の元に居た。
一体どんな術を使ったのだろうかという疑問はそこそこに、足音によって思考は遮られる。
「名前!どうしてムウと一緒に?」
それはアイオリアだった。
「教皇に届け物の最中、足を挫いた名前さんを見つけて応急処置をしていたのですよ」
アイオリアは名前の足に巻かれた包帯をまじまじと見て、安堵の溜息をつく。
「その様子だと、探していたのでしょう?」
「あ、ああ……名前の姿が見えないものだから、心配していたんだ」
「あまり窮屈な生活をさせるのは関心しませんよ、アイオリアそれと……内密な話がありますから、後で白羊宮まで来て頂けますか?」
アイオリアはムウから発せられた言葉に、次第に眉間に皺を寄せる。
一方の名前はそのやりとりを呆然と眺めている。
一見してごく普通の会話なのだが、入り込む余地のない雰囲気の二人に、名前は小首をかしげる。
ムウが腕の中にしていた名前を開放すると、アイオリアが咄嗟に腕を伸ばす。
名前はうっすらと額に汗を浮かべ、忘れていた足の痛みに表情を歪ませる。
名前を抱き上げ、一礼だけして獅子宮の寝室に消えていく。
「不器用な男ですね……」
ムウは最奥へと消えて行く二つの影を眺めながら、ぼそりと呟く。