すっかりと晴れた爽快な朝。
アイオリアは朝一のトレーニングの後、珈琲を淹れていた。
獅子宮の寝室には今日も名前が眠っている。
あれから何日かたったが、幾つか不安要素があった。
名前は聖域に来てからというもの、飲み物しか口にしていない。その飲み物ですら、脱水症状寸前になるまで控えていた。
足は酷く捻挫しており、うまく歩けていなかった原因も判った。
本来ならば怪我などヒーリングで簡単に治せるのだが、名前は聖闘士の事を知らない一般人。下手を打てば怖がられてしまうかもしれない。
聖域の近くに倒れていた理由は未だ知らず、どことなく影を落とす様子に、日毎に心配が積もっていく。
徐々に打ち解ければ知れる―――そう思っていたのだが、名前は多くを語らなかった。
見事に何の進展もなく、悪戯に時間ばかりが過ぎていく。
アイオリアは誰かに相談するべきかと思い悩んでいた。
女性に聞くのが手っ取り早い気もするが、畏まられてしまうのが関の山だ。やはり身近な黄金聖闘士に相談するのが一番だろう。
「ミロに聞いてみるか……」
ドリップを終えた珈琲に視線を落とし、己の行動に苦笑いする。
珈琲を寝室に持っていくと、名前は寝ぐせと格闘している所だった。アイオリアの存在に気がつくと、僅かに表情が強張る。
まるで捨てられた猫のようだな、とアイオリアは苦笑いしながら、テーブルの上に珈琲の入ったカップをを置く。
据え付けの椅子に座り、アイオリアは珈琲を口に含み、テーブルの上を指先でこつんと叩く。すると名前は ベットから這い出て、向い側の椅子にちょこんと座る。
名前は温度を確かめるようにカップを両手で包むように持ち、そっと唇を寄せる。
「今日の珈琲は少し、懐かしい味がします」
美味しそうに珈琲を飲む名前に、アイオリアは思わず顔が綻ぶ。
「砂糖の代わりに、先日仕入れた黒糖というものをいれて使ってみたんだ。口に合って良かった」
名前は納得するように頷き、カップをじっと見つめる。
「今まで珈琲はあまり好きじゃなかったけど、アイオリアが淹れてくれる珈琲は好き」
「これしきならいつでも淹れてやるぞ!」
普段より穏やかな表情に、アイオリアは鼓動が早鐘を打つのを感じる。
いてもいられなくなって頭をわしわしと掻き毟ると、名前が不思議そうにその様子を見ていた。かといって問い掛けるでもなく、再びカップに唇を寄せていた。
名前が最後の一口を飲み込むのを見守り、食べないであろう菓子をテーブルに添えて部屋を後にする。
その際、どこかで見覚えのある小さな包みが視界に入る。
疑問に思いながらも、カミュの元へと足早に獅子宮を去っていく。
今日はどの宮も静けさが漂っている。
天蠍宮を訪ねた所、ミロは留守だった。女官に聞いたらアテネ市街地に向かったばかりのようだ。
間違ってもデスマスクには相談するまい―――そう思いながら巨蟹宮を通り過ぎたら主が不在でほっと安堵した。
嫌な予感がする。
磨羯宮に差し掛かるまで、どの黄金聖闘士にも鉢合うことがなかった。
出掛けていたり任に赴いているなど、理由は様々だった。
宝瓶宮にさしかかり、リビングに入ると、そこにはアフロディーテとデスマスクが居た。
「アイオリア!お前女を囲ってるらしいな?」
にやりといやらしい笑みを浮かべるデスマスクに、アイオリアは驚きで口が半開きになる。
予感は的中した。
「デスマスク……そういうのは野暮ではないか」
「いいじゃねーか。丁度その話をしてたんだし。御前、どんな女だ?」
アイオリアは口ごもる。
デスマスクは無類の女好きで残忍だ。下手なことは言えない。
「ミロは居ないのか?」
不自然にも部屋の主が居ない。
「教皇に謁見だ。暫し戻るまい。所で……」
アイオリアの意図をアフロディーテが木っ端微塵にする。
「先日お目見えしたが、とても美しい婦人だった。一度お茶を共にしてみたい」
「名前に会ったのか?!」
「あまり元気がないようだったから、ささやかな菓子を贈ったが……」
アイオリアは用事を思いだし、アフロディーテに相談を決意する。
事の顛末をにやにや眺めるデスマスクが気掛かりだったが、邪険するわけにはいかない。
アフロディーテは聞き終えると、些か残念そうに首を捻る。
「その様子だと、私が贈ったローズヒップの蜂蜜漬けはまだ食べていないようだな」
アイオリアは名前の所にあった包みを思い出し、一人納得する。
それと共に言い様のない靄がかった感情に、ジレンマを覚える。
「わからんが……。どうしたら名前に物を食べてもらえば良いものだろうか」
「簡単だろ。口移ししちまえばいいんだよ」
「なな、なんだと……?」
「だーかーらー!口移しだって!囲ってるって事はその女を気に入ってんだろ?」
「そんな馬鹿な事ができるか!」
アイオリアが声を荒げると、デスマスクは含みのある笑みを見せる。
「お前がやらないなら、俺が直々にヤッてもいいぜ?」
「駄目だ、絶対に許さん!」
様子を見ていたアフロディーテは、呆れがおだ。
「アイオリア。そこの鏡で自分の顔をご覧?」
素直に鏡を覗きこむアイオリアの顔は、真っ赤に染まっている。
気恥ずかしさに頭をかきむしる。
デスマスクは相変わらずにやけ面でとてつもなく嫌な予感がする。
「じゃ、これから獅子宮に行くからな!」
今日は勘が冴えているのかもしれない、とアイオリアは心中で名前の無事を祈る。
足取り重く獅子宮のリビングに到着した。
アイオリアはデスマスクを見遣り、扉を開くのを躊躇する。
「名前、お前に合わせたい者が居る。いいか?」
扉越しに問いかけると、返事の代わりに扉が開いた。
アイオリアが足を踏み入れようとするより先に、デスマスクが我が物顔で入っていった。
名前はその場で固まる。
「マジでいい女じゃねーか」
それを合図に、硬直が溶けた名前はデスマスクが歩く度に後退る。
デスマスクを遮るようにアフロディーテが優雅な動作で先に出る。
「久しぶりだな。その様子ではあれから何も食べていないね?」
「とてもいい香りがして勿体ないので、食べかねていました」
「嘘はいけないよ?アイオリアからも聞いたが、食欲がないそうじゃないか。最初はつらいかもしれないがしっかり食べねば美しさが台無しだ」
「アフロディーテ様には到底敵いません」
名前はほんのりと頬を赤らめる。
「女性には色々あると思うが、あまり無理をしてはいけないよ?いざとなったら相談に乗ってやろう」
「そんな……えっと、ありがとうございます!」
アフロディーテの優しげな言葉と、はにかんでいる名前の反応に衝撃を受ける。形容しがたい感情が渦巻き、拳をぐっと握り締める。
「おいおい、俺は除け者かぁ?」
デスマスクの一言に、名前は困ったように眉を下げ、逃げるようにアイオリアの後ろに隠れる。
「そう逃げるなって。傷ついちゃうだろ?!」
「うっ……」
これでもかとばかりにタンクトップの裾を握りしめる名前に、胸が締め付けられる。
あまり物事に関心がないのかと思っていたが、そうでもないらしい。
「よせデスマスク。名前はまだ体調が優れないのだ」
「人見知りなんです」
「その癖アイオリアにはしっかり懐いてるじゃねーか?!」
「こっこれは違います!」
名前は更に顔を真っ赤に染め、タンクトップを思い切り引っ張る。
「ふーん?口ではそう言っててもしーっかりアイオリアに甘えてるよな。お前らデキてんの?」
「「そんな訳あるか!!!」」
ものの見事に言葉が被る。名前とアイオリアは、お互いを見合わせてぱっと目を逸らす。
にやにやと二人を舐めるように眺めるデスマスクに、言葉が詰まる。
「そろそろ私達はお暇しようか、デスマスク」
「だな。名前ー!また来るからな!ソイツに飽きたら俺が相手してやるよ!」
「何のですか?」
「さあな。じゃあなー!」
「ごきげんよう、名前」
去り際、アフロディーテは小さく呟く。
「アイオリア、君が少しばかり羨ましいよ」
「……ん?」
「可愛らしい婦人じゃないか」
「何の話だ?」
「うかうかしていると誰かに取られてしまうよ」
アイオリアは眼を点にして、二人の後ろ姿をじっと見つめているしかなかった。