殺風景な岩に包まれる谷間を、覚束ない足音が寂しく響く。
曇天の空は、足音の主の双貌によく似ている。
場に似つかわしくない軽装にローファーを身に付け、既にあちこち擦りきれている。
稀に通りすがる人々には異質に映るのか、一様にぎょっとした表情で通りすぎる。
疲労困憊した女――名前は、宛もなく道無き道を歩く。
俗に言う観光客や迷子でもなく、ひたすら何かを求めるように歩を進める。しかし体は着実に悲鳴をあげていた。
意識は朦朧とし、力なく膝から崩れ落ちる。
時間と共に空からぽたり、ぽたりと滴が舞い降りる。岩に丸い染みを作り、それはあっという間に広がっていく。
名前は土と雨の匂いを目一杯吸い込み、一人儚げに笑う。
着実に体温が奪われていくのを感じる中で穏やかに瞳を閉じる。
幾時か流れたろうか。
すっかりずぶ濡れになり、最早動く気力さえ失った名前は、遠くから風を切るような音を敏感に感じた。
それは名前の前でぴたりと止まる。
「君、大丈夫か?意識はあるか?」
名前が辛うじて開いた瞳に強い闇を写し出している。
朧気に見えたのは武骨な腕、場に不釣り合いなほど爽やかな群青のタンクトップを身に纏う、青い瞳をした茶髪の男だ。
泥のように沈みかけた意識の中で、寒くないのだろうかと疑問を浮かべる。
「意識はあるのか……良かった」
名前は震えながら、必死に唇を動かす。
「わ、わたしに…構わないでください……」
か細い声は、雨音にかききえそうなものだ。
「案ずるな。今助けてやるからな?偶々聖域の近くを通って良かった」
心配そうに名前を見据える男は、名前を優しく抱き抱える。
「ですから私は…」
「話は後でいい。見たところ憔悴しきっている。辛いと思うが、少し我慢してくれ」
刹那、その場から忽然と姿を消した。
男は光速というに相応しい速さで走り出したからだ。
名前は咄嗟に唇を噛み、刺さるように身を叩く雨から守るような腕の中で意識を手放す。
見慣れぬ天井が視界に広がる。石造りのように見えるそこは広大で、華美な真紅のタオルケットが身を包んでいる。
暖かいタオルケットからは、瑞々しい香水の香りが仄かにする。どこかで覚えのあるそれに、名前は胸が締め付けられる。
重たい意識が次第に覚醒し、ゆっくりと起き上がる。
すると、ぱさりと落ちた真紅のタオルケットから柔肌が露になり、溢れんばかりの胸がゆらりと揺れる。
「どうして私はこんな姿を……?」
名前は髪をくしゃりとなぜると、湿り気を帯びている事に気が付く。
必死に記憶を手繰り寄せるが、雨に打たれた所で意識がかききえる。
次の瞬間、静まり返ったそこにけたたましい音が鳴り響く。
驚きに辺りを見渡す名前。音の主は茶髪の男だった。
緑の眼をかっと見開き、瞬く間に顔を赤らめる。姿が視界に入る。
名前は訝しげに――といっても表情に変化はないが、その様子を眺める。男は金魚か鯉のように口を開閉し、勢いよく体を扉の方へ向きなおす。
茶色の髪の合間から真っ赤に染まる耳が見える。
「すまない、その、見るつもりはなかったんだ」
名前は首をかしげ、自分が服を着ていないことを思い出す。
「意識が戻って良かった。すまないが全て女官に任せて……その、何だ。そのような姿格好だとは思わなかった」
男の声は上擦り、頭をかきむしる。明らかに気まずさMAXといった態度に、名前は内心納得する。
「先程の方ですね?何故私を?」
男は勢いよく振り返り、肌が露になったままの名前を見て、顔をより赤く染め、俯きながら顔を右手で覆う。
ひゅう、と小さく呼吸をする音が、静かな室内によく響く。
どうにも気まずそうにしている男は、小さく「すまない」と謝罪を述べて再びけたたましい音と共に部屋から出ていってしまう。
隣の部屋からばたばたと騒がしい音が響いたかと思うと、本の少しだけ扉が開く。
うつむき加減の男は床に白い布のようなものを置く。
「着替えだ。俺の服だから、些かでかいと思うが……目のやり場がない。一先ずこれを着てくれないか」
「このままでも私はべつに…」
「そうは言ってられないだろ?君は女性なんだから、その……頼む」
名前はベットサイドに腰を掛ける。恐る恐る真紅のタオルケットを払うと、やはり一糸まとわぬ姿だった。 緩慢な動作で立ち上がり、扉の前を目指す。
途中、目眩がしてぐらりと倒れてしまいそうだったが、何とか持ちこたえる。
床にそっと置かれた布を広げると、真っ白なワイシャツだった。
そっと袖に腕を通すと、仄かにタオルケットと同じような香りがした。
名前はその匂いに、わずかに目を細める。
それにしても、流石は男物だ。辿々しくボタンを留めていくと、まるでワンピースのようにすっぽりと全身が包まれる。
袖はやや余り気味で、辛うじて指先が除く程度だ。
「着替え……終わりました」
「それじゃ入っていいか?」
名前は返事の代わりに扉をぎぃ、と開ける。男の姿が見えると、やはりまだ顔が赤い。それどころか更に朱が増していく。
男は生唾を飲み込み、視線を泳がせる。
「じっ……自己紹介がまだだった。俺はアイオリアだ。君は何というのだ?」
「私は名前です」
「名前か……そ、えっと、あれだ、いい名だな」
名前は首をかしげながら背丈の高い男の――アイオリアの顔を見上げる。
「アイ、オリア、さん」
途切れ途切れに終わりました名を口にすると、アイオリアははにかみながら頭をかきむしる。
名前の体がぐらりと揺れる。それをアイオリアが抱き止めると、再び生唾を飲む音が聞こえる。
「まだ体力が戻っていないのだろう?無茶をするな。あ、いや、着替えをここに置いた俺のせいか。すまない」
歯切れの悪いアイオリアは会釈したかと思うと、名前を軽々しく抱えあげる。
「ひゃうっ……」
「暫し我慢してくれ」
アイオリアは腕の中の名前をそっとベッドに寝かせる。すると名前のシャツがはだけ、乳房が露になる。
「……す、すまない」
「いえ、あの」
アイオリアはやや落ち着いてきた肌を再び真っ赤に染める。
「ま、ままま先ずは飯だな。体力をつけぬといかん。取ってくる、待っていろ」
アイオリアはあわただしく部屋から出ていってしまう。
名前は手を宙に浮かせ、アイオリアの背中を追うも虚しく、真紅のタオルケットにぱたりと腕を下ろす。
明らかに女慣れしていない様子に、名前は僅かに目を細める。
程なくすると、大きなバスケットに山盛りのフルーツが室内に運び込まれる。
持ってきたのはアイオリアではなく、凛として礼儀作法の美しい女性だった。彼女は宮付きの女官であると簡潔に説明を受けた。
宮とは何か、ここはどこかなどと、疑問だらけだった。
名前は受け取ったバスケットに手を掛けると、メモが挟んであった。
視線を落とすと、何とも汚い文字が並んでいた。
ゆっくり読み解いていくと、何かあった時のために女官を付けておく事、アイオリアは今から用事が不在になる事、寝床と食事についてなどがぎっしりと書き込まれていた。
あえてフルーツなのはアイオリアなりの配慮なのだろう事が伺える。
名前は苦笑いを浮かべながら、バスケットから林檎を取りだし、掌で転がす。
自重しないあとがき
勢いのままやっちゃった感のあるアイオリア夢。彼は若干ヘタレな変態というイメージw