S.I.S 09 ブッキング



 入浴を済ませた後。髪の毛はまだしっとりと湿り気を帯びている。
 先程までクウィディッチの練習をしていたためか、全身がふわりと綿に包まれた後のような浮遊感が残っている。
 シーカーに抜擢された重みを噛みしめ、自嘲する。
 じき長期休暇にさしかかる。それまでにトムをクウィディッチに勧誘できるかと、思いを馳せていた。トムはこれと決めた事に対して厳しく、可能性は限りなく零に等しい。
 これから名前とホールで待ち合わせだ。時間には早いが、一足先に身を休めようと歩調を速める。
「クウィディッチの選手に?」
 会話が聞こえて歩を止める。
「僕には向いていないと思うんです」
「トムが来てくれたら一位になれる、絶対だ」
 声の主はトムだ。
「到底代わりになりえない」
 声色には僅かな憤りが含まれている。出方を窺っているようだった。
「代わりだって? 君なら俺以上に大活躍間違いなしなんだ」
「50点減点」
 こっそり物陰から顔を出すと、先輩のしょんぼりした後姿が見える。トムは張り付けた笑顔の奥にどす黒い怒りを表していた。手には分厚い書籍が握られている。あれは確か、トムが残していると言っていた課題の題材だ。
「先輩が喧騒を起こした代償は大きい。その尻拭いを僕に?」
「トムが聞いた話は間違いがある。俺は喧騒を起こしていないし、張本人たちは懲罰を受けている真っ最中だ」
「目撃者は多勢いるんです。先輩がどんなお気持か僕には解りかねますが」
 トムが視線をずらして此方を見遣る。あまりにも冷たい眼差しに、レストレンジは冷や汗が流れるのを感じていた。
「トムは余計な心配をしなくていい」
 先輩は素早く杖を取り出す。しかし一向に呪文が囁かれず、トムは面倒くさそうに白身がかった杖を出す。先輩の杖が弧を描いて弾かれ、壁に跳ね返される。
 もごもごと口元を掻き毟る先輩は、千鳥足でその場を立ち去る。すれ違いざまにレストレンジにぶつかるが、どうやらパニックに陥っていて、見物人が居ることなど全く気がついていない。
 トムは紅一色に染まった瞳を伏せ、小さく首を振りながらため息を漏らす。
「覗きとは趣味が悪いじゃないか。なあレストレンジ?」
「そりゃどうも。手癖が悪いトムにゃあ敵わない。これから大事な話が控えていてね。待ち合わせ場所に来てみれば、面白い物が見られたって訳だ」
「傑作だったろう? 君の待ち人が来る前に―――」
 遠くからとたとたと覚束ない足取りで駆け寄る音が聞こえる。
 トムは目を見開く。紅色の瞳が漆黒に変わっていく。
「お待たせレストレン―――」
 レストレンジが待っていた人物は名前だった。足元が滑って転びそうになっていた。
 手にしていた小さな書籍が彼女の手元を離れ、態勢を崩しかけているのをトムがすかさず受け止める。
「転んで怪我でもしたらどうするんだい?」
「ありがとう! ん、今日はリドルも一緒なの?」
 名前の一言の後、トムはにっこりと微笑む。
 予定が狂った―――レストレンジはがっくりと肩を落とす。どう言い訳をするか、そればかりで頭が一杯になった。
「今日は、その、まだ課題が残っているからやりながらでも・・・・・・いいかな?」
「僕もなんだ。良かったら一緒にいいかい? レストレンジ」
 レストレンジに決定権がないと理解できたのは、それから数秒後だった。

 チェスの駒が動く音に混じり、紙がはらりと捲れる音が響く。
 トムと名前は文字を読み解きながら、順調にチェスを進めている。難題に頭を抱えるレストレンジは、二人の様子を垣間見て苦虫を噛み潰す。
 途中で名前の一手が詰まり、ただでさえ静かなホールは無音になる。「この問題、わからない」ぽそりと呟かれた声は頼りない。
「どの問題? 読んでみてくれないかな」
 相槌を打つ名前は問題文を読むと、トムは暫くの間を置いて答えを導き出すヒントを口にする。短い受け答えを経て名前は納得し、漸くチェスを進める。
 この空気に耐えられない―――レストレンジはお腹がきりきり痛むのを感じ、一人やつれ気味になる。
「お前らよく二つ同時進行できるな・・・・・・」
「生憎容量が良くてね」
 レストレンジは頬杖をつき、勉強の二文字を頭から追い出す。
 涼しげな表情を浮かべるトムに比べ、名前は手元が留守がちになっている。苦しい局面に差し掛かっているようだ。
 勝負の行く末を見守っていると、二人の共通点に気がつく。
「それだけ強いなら、賭けをしたらどうだ?」
 二人はほぼ同時にレストレンジに目を向ける。
「敗者が勝者の願いを一つだけ叶える。引き分けならレストレンジが僕たちの願いを・・・・・・というのは?」
 名前の眼の色が変わる。
 珍しくトムが同意を求めている。二人は既にやる気の色を宿している。
「やりたい」
「じゃあ―――勝負がつくまで望みは秘密にしない? その方が色々と楽しめるだろう?」
「本当にいいの?」
「勿論」
「ちょっと待て、それじゃ俺が損じゃないか?」
「提案したなりのリスクは負ってもらうよ」
 トムは早速負けん気でいる。まるで最初から結果が判っているとばかりの様子に、一抹の不安と期待が入り混じる。
 二人は勉強道具を片づけ、尋常なる勝負へと立ち向かう。

 ぴりりとした緊張感漂うホール。時間をかけて盤上のゲームをじっくり進める二人を尻目に、レストレンジは懐中時計を片手に巻き付け、手数をカウントしながら頬肘をついていた。
 開始から二十分ほど経過しているが、接戦が続いている。
 レストレンジはどちらかがニアミスでもしない限り、決着はつかないだろうと踏んでいたが、ここまで長引くと流石に暇だ―――などと呆けていたらトムに「君は勉強していたらどうだい?」と叱咤を浴びせられ、渋々問題集に取りかかる。

 更に二十分ほど経過した頃。
 五十手ほど進んだものの、互いに牽制し合うのみで結果は引き分けに至った。トムと名前は楽しげにとチェス盤を片づけ始めている。
 レストレンジは背に石を背負ったかのように項垂れ、げんなりとテーブルに崩れ落ちる。
「それじゃあレストレンジ。君が願いを叶えたいのはどちらかな?」
 勿論選ぶなら名前だ。しかし先程の先輩の後姿を思い出し、レストレンジの意思が揺らぐ。しかしここで敢えて別の方向を選ぶか、それとも誤魔化すか―――。
 トムの表情はにこやかだったが、野性味に満ちた雰囲気を醸し出しており、選択肢が無い事を悟る。


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