S.I.S 08 青緑の手帳
ぎしりと響くような腕の痛みに、名前は眉をしかめる。
この所調子がおかしい。左腕にある紋様の辺りの変調は、日増しに高くなっていた。加えて忌まわしい記憶を彷彿とさせる感覚は、あまりに強烈過ぎて意識を手放したいと思うほどだった。
変身術の授業中、ダンブルドア教授の話しが全く耳に入らない。呆けていると、いつの間にか注目を浴びていた。
「名前、君の番じゃよ」
目を丸くして周囲を見渡す。どうやら物質を変身させる実技の最中だったようだ。注意深く状況を整理すると、どうやら教科書をペットの姿かたちに変身させているようだった。名前は頭に蛇を思い浮かべて教科書に向かって杖を振ると、スリザリンのワッペンに変わった。
変身術はあまり好きではない。ペットを利用する事が多いのだが、入学間もないころからラピダが異様に嫌がり、これまで何度も≪ペットを連れてくるのを忘れた≫事で度々減点になっている。
そう言えば、ここ一ヶ月ラピダの姿を見ない。好きに出歩かせているとはいっても、流石に心配する。
それに何より、変身術は得意じゃなかった。そもそも魔法薬学以外は総じて苦手だ。
「それは見た所ワッペンのようじゃが―――」
「ダンブルドア先生、ペットが逃亡してしまって・・・・・・よく思い出せないんです」
しれっと言うと、生徒たちが一斉に笑いだす。
「難しい問題じゃのう」
穏やかに頷くダンブルドア教授は、名前をひたすら見つめる。ふわりと心地いい、全てを見透かされそうな気分になる。
タイミング良く授業を終える時間が来たため、話は中断された。
散り散りになる生徒に紛れて、リジッタは名前を避けるように消える。彼女はこの所、愛するかの人に夢中の様子だ。
「滑稽な落ちこぼれの名前」
全身が毛羽立つほど冷たく言い放たれた言葉は、名前に向けられていた。しかし辺りを見渡しても、人が多すぎて声の主は見つからない。
蛇はスリザリンのシンボル―――名前のペットは、スリザリンを嫌う者にとって、良く思われなかった。一年次以降はペットを人前で見せないように配慮していたが、時間を戻すことは叶わない。
釈然としないものを感じつつ、ゆっくり寮に向かって歩き出す。
自室に戻ると、静寂に包まれていた。
名前はベッドに寝そべるも気が立っていて落ち着かない。ふと思い出したようにポケットに入れていた手帳を取り出し、机に向かう。
青緑色の手帳は四隅にシルバーの簡素な装飾があり、分厚い皮製の表紙・裏表紙は共に無地。古い物なのだろうか、擦れた跡が視認できるが、これまで手入れされていたのか乾いた感触はなく、程良く光沢を含んでいる。
鍵が外れてからというもの、何のアクションも起こせないでいた。
しかし、それよりもはけ口の見つからない思いが強く、何でもいいから気持ちを吐き出したかった。
引き出しからインクと羽ペンを取り出し、二頁目に文字を書き綴る。他愛のない日記を書き終えると、漸く強まっていた不安がすっと消えるのを感じる。
しかし、数秒後に書いた文字列がばらけてしまい、歯抜けたようになってしまった。今もその跡がしっかりと残っており、あまり綺麗とは言えない。驚きつつも点在する文字を見つめて思案する。
再び羽ペンにインクを付けて、適当な単語を書き込んでいく。幾つかの文字が消え、一部分だけが組み替わり、内容が少しだけ読み取れる状態になっていた。
何らかの法則性がないかと、ひたすら文字を書いていくが、当たりと外れがあるようだ。
「途方もないなあ・・・・・・」
呟いていると、指先に鋭い痛みが走り、左手を見遣ると血が出ていた。手帳の角の金属が劣化して、ささくれていたようだ。体の中に流れていた鮮やかな雫が、紙に落ちる。
「うわ、汚しちゃった」
何か拭くものは無いか、考えるも適当な物がなかった。そうこうしている間に、開いていたページに滴った血液が紙の上で広がり、文字に変化した。≪遡りの屋敷≫と書かれ、ページの端に矢印が現れると、突如小刻みに震え出す。
驚いて椅子から転げ落ちそうになるが、態勢を立て直してもう一度日記に向き直る。
「ページを捲るって事?」
母から貰った手帳には、特殊な魔法がかけてあるのかもしれない。
恐る恐るページの端を摘まむと紙の震えが止まり、胸をなでおろして次のページを開くと、地図が記されていた。禁じられた森や大イカや水魔が住む湖は、今よりも幾分か領域が少ない。見たこともない区域の事まで書かれていて、好奇心が沸々と湧きあがる。
ひたすら見つめていると、禁じられた森の奥に二重丸が記されている事に気が付く。
図書館なら手がかりが得られるかもしれない。
名前は本を閉じ、寮を後にする。
談話室を出て図書館まであと少し、という所でプラチナブロンドの男にぶつかり、踊る足元を正して会釈しながら微笑む。男は高貴さを携えた風貌を持ち、髪の毛はオールバックになっている。襟元には緑のストライプが見える。
「君はどこかで見た顔だな。名は何と言う?」
男の声色は冷たさを含んでいて「答えろ」とも取れる口調だ。名前は男の鼻のあたりに視線を留め、口元に薄らと笑みを張りつかせる。
「名前・苗字です。お初目にかかります」
再び会釈すると、プラチナブロンドの男は片眉を釣り上げ、納得したかの様に頷く。それを目撃したらしい、通りがかったレイヴンクロー生が途端に青ざめて走り去る。
「名前・苗字? ああ君か。私はアブラクサス・マルフォイだ。久方ぶりだな」
ファーストネームのアクセントを強め、アブラクサスは艶やかな華のような表情を見せる、名前の肩を抱く。
マルフォイ家といえば魔法界に知れ渡る名家。まるで個人的な関わりがあるような口ぶりに、名前は唇に指を当てて思考を巡らせるが、思い当たる節が見つからず、首を横に振る。
名前は突如の動作について行けず、五回瞬きして視線を彷徨わせる。廊下の角にはハッフルパフ生の男子生徒が様子を伺っている。隣には唇を固く結んでいるリジッタが見え、互いに手を取る姿は二人の仲が深いものであることを告げている。
「元気そうで何よりだ」
アブラクサスは名前の様子に、過去を懐かしむような表情を浮かべ、柔らかく幼い肌に触れる。
「マルフォイ家のご子息ですか?」
「・・・・・・何れゆっくりと話す場を授けよう」
それだけ言って、アブラクサスは名残惜しむように頬を撫で、踵を返して颯爽と歩き出す。
「あの、もう話すって―――」
引きとめようとする声を無視して、背中はどんどん遠ざかっていく。やはりファーストネームの二文字をやけに強調していたのが気がかりだった。
廊下の角にいた二人が慌てて名前に駆け寄る。リジッタは青ざめていて、名前の両肩を捕縛する。
「マルフォイ先輩に何か言われたの? 酷い事しなかった? ねえ、二人って知り合い? 何が起こったの?」
血色が悪い唇から矢次に疑問が流れてきて、何を答えようかと思案するが、やはり何も思い浮かばない。
「ううん、私がぶつかっちゃったの。あの人は先輩だったんだ」
「あの先輩はとても有名だよ、一学年上で、彼は何たってスリザリンの貴公子だ」ハッフルパフ生の男は心配そうな視線をこちらに向ける。
アブラクサスがどれだけ有名であるか、漸く実感する。それを知らないと言ってしまった名前は、頬を赤く染め両手で包み込む。
―――学校のどこかで会った事があるのかもしれない。それを覚えていないとは、自分が恥ずかしい。
ハッフルパフ生の男が「大丈夫?」と心配そうに顔を覗き込み、顔の熱が増していく。
「だめよ、カーマイケル。こうなると止まらないからそっとしておいてあげて。あ、名前、この人はカーマイケルっていうの」
「困らせちゃってごめんね。よろしく」
カーマイケルが手を差し出し、名前はおずおずと握手を交わす。
傍らでリジッタが嬉しそうに微笑んでいて、二人の間に暖かい雰囲気が漂っている。
「気になっていたのだけれど、恋人なのね」
リジッタは目を見開いて、茹でたように真っ赤になる。図星だったようで、名前もつられてより顔が熱くなる。
カーマイケルは首を傾げて「二人ともどうしたの?」と疑問を投げかけるが、リジッタは口ごもりながら名前の腕を抱き締める。
「何でもない! ねえ名前、図書館で面白そうな本を見つけたの。テーブル抑えてるんだけど、一緒に行かない?」
「丁度行こうと思っていた所なの」
テーブルには同じレイヴンクロー生の友人が、頬っぺたを桃色に染めておしゃべりに夢中になっていた。
名前は目を細めて視線に集中した先に、友人達の隣にリドルが見える。
リジッタは険しい表情をしたが、カーマイケルが顔を覗き込み、心地悪そうに笑う。恋人の前では大人しくなるようだ。
名前は二人のやりとりに、また顔が熱くなる。
「リジッタに名前にカーマイケルじゃない。席を取っておいたわ。トムも手伝ってくれたの」
リドルが名前一向に優しく微笑むと目が合うが、名前はすぐに逸らす。
隣で交わされる熱い空気に気恥かしくなり、この場にいる事を後悔する。
「ありがとう。トム・マールヴォロ・リドル」
リジッタは高ぶる気持ちを抑え、簡単な礼を述べる。
「このまま相席させてもらってもいいかな?」
リドルの声は以前言葉を交わした時よりも低くなり、落ち着いた印象を齎す。
「ねえトム、さっき言っていた、東の塔に行かない?」
「そうそう、あのお話とても興味深かったわ」
「課題が切迫しているから―――早めにレポートを纏めてたいんだ。暇ができたら是非とも」
リドルは申し訳なさそうに苦笑いする。
「いちゃつくなら余所でお願い!」
場に気を悪くしたリジッタは、友人たちの背中を軽く叩く。
「リジッタほどいちゃついている子はいないでしょ。熱々だもんね」
「淑女たるもの粗野な所を見せちゃ駄目よ?」
「今度詳しく彼の話を聞かせてね!」
三人の友人はリジッタをからかいつつ、やや名残惜しそうに席を立つと、リドルは名前に視線を送る。名前は怪訝に思いつつもリドルの隣に座り、向かいにリジッタ、その隣にカーマイケルが席を埋める。
「顔が赤いね。何かあった?」
「ううん、あの二人」名前の視線の先に、慎ましいリジッタとカーマイケルの慎ましい姿がある。
状況を理解したリドルは頷き、口元に笑みを浮かべる。
「カップルか。ミス・名前も大変だね」
「ミスター・リドルこそ。いつも誰かに囲まれてるじゃない?」名前は先程のレイヴンクロー生達を思い浮かべ、柔らかな笑みを洩らす。
名前はローブのポケットから、青緑色の手帳を取り出す。
「これは?」
「母から送られてきたの。気になる事があったから、手当たり次第に調べようと思って」
日記をはらりと捲り、地図の所で止め、リドルに見せる。
リドルは興味深々に。
「古い地図みたいだね。探すの手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。きっとすぐに見つかるもの」
名前は逃げるように席を立ち、足早に本棚へと向かう。
途中で転びそうになるが、恋人同士特有の空気は耐えられなかった。思い出してまた顔が熱くなる。
視線をきょろきょろと彷徨わせ、歴史の棚から地理のカテゴリを探す。
それらしい棚をピックアップして、周囲に先生がいない事を確認する。杖を本棚に向け、呪文を唱えて杖を振る。すると何冊かの書物が燦爛し、近くにいた生徒が、きれい、と感銘を上げる。
光った物を片端から腕に収めるが、量が半端じゃない。
名前が放った呪文は、効力を発揮するのはほんの数分間に限定されている。物を動かす魔法が使えるなら苦労はないのだが、操作系は苦手で過去に色んな物を壊してしまった。
いつものように腕の中は山積みの本で埋め尽くされ、名前は息を荒げる。
ずるりと落ちるような感触が本から伝わり、冷や汗が流れる。
「落ちるよ」
腕の中の重みがぐんと軽くなり、吃驚して横を見る。
重たい書物はリドルの腕の中にあった。
「トム、ありがとう」
「まだ探す物があるんだろう? これは僕が運ぶから、選んでいて」
「ありがとう。 ・・・・・・あ、スト―――レストレンジ」
「名前・・・・・・お前、わざと間違えただろう!」
「いいじゃないか、ストレンジャー」
「それはやめろよ、トム坊」
名前とリドルは仲良く笑いを堪えていて、レストレンジは呆れて本棚に視線を戻す。
「へえ、君にも勉学を嗜む趣があったとはね」
「課題が多過ぎて流石に手が回らないんだよ。お前らだってそうだろ」
「全くだね。まだ魔法薬学と歴史の課題が残っている」
「私はあと三教科も残ってる。ミスター・リドルは凄いね」
「まどろっこしい! 特に名前、お前はいつになったらトムの名前を呼ぶんだよ! トムもトムだ、そんなに仲が良いのに不自然すぎるだろ」
名前は驚いて目を点にしている。一方リドルは忌々しげにレストレンジを見つめ、あたかも「余計な事を言うな」と言っているような素振りだった。
「ファミリーネームで呼ぶのがすっかり癖になっちゃったの」
「じゃあ、いっそリドルでいいだろ」
「ミスター・リドルさえ良ければ」
「勿論だよ。僕も名前って呼んでいいかな?」
名前は曇りかけていた表情を明るくさせ、はちきれんばかりに満面の笑みを浮かべる。
「よし! これで俺の勉強が捗る訳がないんだけどな!」
リドルはレストレンジの頭上めがけて杖を振ると、重厚な書籍が落下し、鈍い衝突音が鳴る。
「いっでえ! トム、流石にやりすぎだろこれ! 脳細胞が死滅したぞ!」
「さあ? 僕には何の事かさっぱり」
「たまには詫びろよ! 俺の課題に協力するとか、その程度で許すから!」
「何で僕が君の課題を手伝わなきゃいけないんだい? 名前、レストレンジは一夜漬けするそうだから、そっとしておこうか」
レストレンジが名前の腕を固く握りしめる。
「お前は俺を置いて行かないよな」
鬼気迫るレストレンジに、名前は首を傾げていると、またしても彼の頭に書籍が降りかかる。
慌てて駆け寄ろうとするが、リドルは「大丈夫。恒例のジョークだからね」とにっこりほほ笑む。