S.I.S 05
青緑の手帳を取り出すと、鍵が無くなっていた。
寮でのんびりと過ごす予定だった名前は、手帳を睨みながら首を傾げる。
誰かの悪戯だろうかと疑問を抱いたが、留め金が綺麗さっぱり消え失せている。無理にこじ開けようとすれば穴が開いたり、何かしらの痕跡が残るはず。
恐る恐る手帳を開くと、一番最初がスケジュール蘭になっていた。手書きの文字で≪三年次≫と書き綴られている。
誰かの所有物を思わせる状態ではあったが、他には書き足された形跡は無い。名前は疑問符を頭に浮かべながら、更にページを捲ろうとすると、糊が張り付いているのか全く微動だにしない。
スケジュールと言えば、週末にはスリザリン寮生のリドル、レストレンジとでホグズミートに行く約束をしていた。
レストレンジと手を組んだ事で、唐突に共に行動するようになれば怪しまれる可能性がある。その為には接点を作り、逢瀬を自然だと思わせるためのファースト・ステップなのだろう。
用途不明の手帳をデスクに置いて頬杖をついていると、クラフトの封書を咥えた一羽の梟が窓を小突く。梟の足首にはリングが填められている。窓が割れるのではと言うほど、何度も硝子を突く梟を見かねて部屋に招き入れる。
梟は乱暴に封書を放り投げて、嵐のように飛び去った。
名前は床に落ちたそれを拾い上げ、裏面を見るとレストレンジからの物だと判った。シーリングワックスに押されたスタンプには家柄を示すマークが刻まれている。
恐る恐る中身を確認すると、計画に関する会談を示唆する事が書かれていた。≪待ち合わせの時刻は今夜八時にホールで行いたい。読んだら返答を梟の足に括り付けてくれ≫とあり、肩を竦める。
「もう行っちゃったし・・・・・・」
時間はたっぷり残っている。
机の上に置いていた青緑の手帳に手紙を挟み、制服のポケットに入れて窓を見やる。外は晴天で、鳥が飛び交っていた。
左腕に内側から針で突き刺すような痛みが走り、眉を顰めながら咄嗟に腕を庇う。
「ラブレターでも貰ったの?」
後方から聞こえる声に振り向くと、すぐ近くにリジッタが立っていた。
名前は腕に添えた手を離して出来るだけ柔らかい表情を取り繕う。
「まさか、私にそんな物が来るわけないよ」
「なーんだ。私もラブレターって貰った事が無いのよね。人生に一度は貰ってみたいわ」
「いつ何時どんな事が起こるかなんてわからないよ。明日には山の様な愛の手紙が来るかもしれない」
「読むのが大変そうだからやっぱり要らないわ。そうだ、名前に面白い事を聞かせてあげる! 何でもホグワーツには色んな仕掛けがあって、近道だったり外に通じていたりするらしいの。噂ではある部屋に入った後に人が変わったようになったり、望んだものが見える魔法具があるんだって。探しているんだけれど、中々見つからないの」
「良い情報が入ったら、リジッタには一番に報告するね」
「楽しみにしちゃお!」
リジッタは私服に着替え、やたら上機嫌にウインクする。どこか浮ついた印象があり、名前はにっこりとほほ笑む。
「これからデート?」
「やだ、どうしてわかったの・・・・・・!」
「嬉しそうな顔してるもん」
「名前には隠せないわね。今日は」
「いってらっしゃい」
リジッタは今にもスキップをしそうなくらいに、軽い足取りで部屋を出て行った。
一人残された名前は笑みを溢す。
足首に違和感を覚えて視線を床に移すと、そこには白い蛇―――ラピダが上体を起こしてじっと名前を見ていた。
ラピダは部屋の出入り口の方に素早く移動し、一度だけ振り返ったものの、すぐにどこかに消えていった。名前は首を傾げて後を追うように部屋を出る。
沢山の人で埋め尽くされた談話室を通り抜ける。蛇を苦手とする人が多い中、ラピダは器用に人目を避けて談話室のドアが寮生の手によって空いた瞬間を狙って奥へ奥へと進んでいく。外へ出たかったのだろう。
ラピダは時折、気ままにホグワーツを徘徊する癖がある。魔法界には梟が多いため心配にはなるのだが、折に閉じ込めるのはストレスになるからと好きにさせている。
名前は他の生徒にぶつからぬよう神経を使いながら、ラピダを見送り校内を散歩する。リジッタの話が気になっていたのもあり、城を一望できる広場に向かう。
いつもならリジッタと行動を共にしているが、一人で出歩くのは決まって遅い時間のため、今日は景色が違って見える。
「あ、あのう、もしかして、レイヴンクローの名前さん?」
呼び止められて足を止める。振り返ると見ず知らずの生徒が立っていた。図書館などで偶々相席した時や授業の前後に軽い会話を交わすことがあったが、初対面で名前を呼ばれたのは教授を除けばミスター・リドルを合わせて二人目だ。
「うん。そうだよ」
初めてに等しい出来事に困惑していると、相手は己の体を抱きしめるように腕を組み、顔を赤らめて走り去って行った。
名前は眼を丸くして、再び歩を進める。その後も何人か知らない人に声をかけられるが、名前は一体何が起こったのかと疑問を募らせる。
ひたすら廊下を歩いていると、もの凄いスピードで何かが横切った。それは進行方向へと突き進み、フラフラと蛇行しながら壁に衝突し、漸く箒に跨った人だったのだとわかった。箒は複雑に折れ曲がり、乗り手は床に叩きつけられて動きを止めた。風に靡くローブはグリフィンドールのシンボルカラーを含んでいる。
名前は唐突な出来ごとに暫く呆然とその光景を眺めていた。じわりと体が痺れるような悪寒に身を強張らせる。
どこからか「あいつ―――またやったんだな」呆れ声が聞こえた。
名前は落下地点へ駆け寄り声をかける。「大丈夫?」問うと、グリフィンドール生はへらりと一粲する。
「勿論さ! 僕は頑丈にできているし、それにこんなの日常茶飯事さ!」
これだけ激しい飛行事故が起こったにも拘らず、誰も心配する様子がない理由を理解する。
彼は口を途中で区切り、名前をまじまじと見つめる。
「もしかしてあなたは魔法薬学が得意っていう、噂のミス名前・苗字?」
「確かに私は名前・苗字だけれど・・・・・・」
「ずっと貴方にお会いしたかったんです!」
視線をさまよわせるグリフィンドール生は俯いて「まさかこんな所を見られてしまうなんて」と、とても小さく呟きながらはにかんで見せた。
「噂って?」
名前は怪訝に思い、尋ねてみるとグリフィンドール生は眼を見開く。
「ご存じないのですか? 貴方はホグワーツの一部では稀代の魔法薬師の卵が出た、と有名なんです」
名前は唇に指をあてて思案する。
「大げさな評価だよ、そんなに凄くないし、技術もまだまだだし―――」
グリフィンドール生はうっとりと目を三日月にして両手を掲げる。
「そんなに謙遜しなくてもいいんですよ。あのスラグホーン先生も絶賛していたんですから。ああ、今はお急ぎでしたか?」
「ううん、散策していただけだから大丈夫だよ。所であなたの名前は?」
「失礼。僕は―――」
目を泳がせる姿に、怪訝に思い視線を辿る。
周囲にいた生徒のうち、何人かが咄嗟に顔を逸らすような素振りを見せた。「参ったな」グリフィンドール生は右手を頬に宛てる。何があったのか―――名前は首をかしげていると、スリザリンのネクタイをした学生が二人に近づく。
一人はレストレンジなのだが、隣に位置する人物は見覚えがない。同い年くらいの金髪の少年で、スリザリン生特有のピリピリした雰囲気を纏っている。
レストレンジは名前の向かい側に位置する生徒を一目し、ニヒルな笑みを浮かべる。
「名前じゃないか。そちらは―――これはまた珍しい組み合わせじゃないか」
グリフィンドール生の男は冷淡な表情になり、今に戦争が始まりそうな雰囲気を醸し出している。
「そりゃあどうも」
レストレンジの隣にいる少年は珍獣でも見たかのような好奇心を表情に宿し、様子を窺っていた。
グリフィンドール生の男は名前に耳元に顔を寄せる。
「君さえよければイースター休暇の前後に、ゆっくり話がしたいな」
名前は両手に閉塞感がある事に気が付き、手元を見れば彼が手を強く握っていた。
「じゃあまたね」
グリフィンドール生は一粲し、折れた箒を魔法で修復すると、そのまま箒で飛び去って行った。あっという間に姿が見えなくなり、ほっと溜息をつく。
「名前、あいつに何かされなかったか?」
「ううん、何もないよ。今さっき知り合ったばかりだったけれど、それにしても―――」
レストレンジは箒が辿った軌跡を見つめる名前の手を握り締める。
名前の手は小刻みに震えていて、しっとりと汗ばんでいる。強張りが抜けてようやく自由になる。
「震えているのはなぜ?」
「―――大した事じゃない。けど、梟に返事を出しそびれたから、会えて良かった」
「まさかとは思うけど、例の話は―――断ったりしないよな?」
「勿論だよ。今夜、手紙の時間に行くから」
レストレンジは唇を薄らと開いて安堵の表情を浮かべ、名前の肩に手を置く。
「誤解してて焦ったよ、ごめん。次はまともな梟便を使うから」
返事の代わりに、名前は花のように微笑む。
近くに居た少年は顎に手を宛て、レストレンジと名前を交互に見やり、数回頷く。
「ああそうだ、俺等は今から飯に行くんだけど、名前は行かないのか?」
「えっ・・・・・・もうそんな時間だったの?」
「もうって、七時だぜ。今行かなきゃ食いっぱぐれるぞ。一緒に行こうか?」
「うん、私も行く」
名前はレストレンジの隣にいる少年に会釈する。
「初めましてレディ。僕はエイブリー。よろしく、苗字先輩」
漸く声を発した少年は、にやり、と特徴的な含み笑いをする。名前は手を差し出して握手を交わす。少年の手は小さくて暖かい。
それを見たレストレンジは「いくぞ」と短く言って歩きだし、エイブリーと名前は慌てて後に続き、大広間へと赴く。
広間では既に食事は始まっていた。一部の生徒からは好奇を含む視線を感じ取る。職員用テーブルにつくダンブルドア教授は穏やかな表情で、三人を見つめていた。
「君は珍しい人だね。スリザリン寮生徒の僕たちと一緒に行動するのは物好きくらいのものだから」
「考えたこともなかった」
名前の眉尻が自然と下がっていくのを見たレストレンジが、エイブリーの脇を小突く。
「お前・・・・・・悪いな、名前。エイブリーはちょっとばかり、変な奴なんだ」
「違うよレストレンジ先輩、僕は嬉しいんです」
スリザリンとレイヴンクローのテーブルに差し掛かり、声が埋もれそうになる。
「つう訳で飯の後に―――待っているからな」
「うん、また後でね」
「レストレンジ先輩、僕も行っていい? 絶対に話の邪魔はしないから」
「お前は来なくていい。シビアな話だって解ってんだろ、お前が来たらややこしくなる」
遠巻きに聞こえる会話から、エイブリーはクウィディッチの件を知っている様子だった。
名前はいつも座っている席に着き、時間を潰すためゆっくりと食を進める。
ホグワーツ入学以前から進んで交流を図る事はしなかったため、友人付き合いはそう多くない。ビリヤードグリーンの瞳が揺らぎ、味気ない食べ物をひたすら見つめていた。
刺青の辺りが疼き、どうしようもないほどに胸が痛む。適当に食事を済ませて広間を出て時計を確認すると、あまり長い時間を過ごしていなかったと気がつく。一足先にホールへと出向くと、そこには人一人居らず、名前は傾れ込むように一番奥にある椅子に身を預ける。
制服のポケットから青緑の手帳を取り出し、光沢のある長テーブルの上に乗せる。ページを捲るとレストレンジからの手紙がはらりと落ちるが、空白のスケジュール帳に見覚えのない文字が刻まれていることに気が付き、釘づけになる。≪三年次≫の文字の下に≪凶兆の星の意思に従え≫と書かれていた。
驚いて瞬きをすると、文字は消えていた。
「ごめん、遅くなった」
レストレンジは悪戯な笑みを浮かべる。組んでいた腕を解き展示されていたチェス盤を手にし、テーブルに乗せる。
「チェスは得意か?」
「そこそこは。ルールはどうする?」
「通常ルールで妖精チェス・・・・・・てのは?」
「オーケー、早速始めよう」
互いに駒をランダムに並べ、ゲームに取りかかる。
「良い薬は作れないかな。例えば、何を言われても頷く薬とか」
名前は頭の中で、飽きるほど頷き続けるリドルを想像して、首を傾げる。
「どうやって飲んでもらうかが問題だと思う」
チェス盤の上は話のスピードよりも早く進んでいく。
「食事に混ぜるとか?」
「味が保証できないの。無味無臭ならともかく、きっとすぐに気が付く」
「だとしたら、味すらわからなくなるような魔法薬を先に飲ませればいいんじゃあないかな」
「確実に怪しむよ。ご飯に混ぜるとしたら、おかしいと感じて警戒する」
「思い切って点数を下げてみたら火が付くかも」
「そんな事をしてみろ、ただでさえメレスが十点引かれただけでご立腹だったんだ。どうなるかは目に見えている。はあ、このチェスくらいスムーズかつスピーディに事が運ぶ、なんてラッキーが起こればいいんだが」
レストレンジはほくそ笑み、駒を一手進める。
「・・・・・・名前はさ、トムをどう思っているんだ?」
「ユニークな人」
レストレンジはキングを移動する。
「どうしてまた?」
「ハッキリとは解らないけれど、雰囲気、表情、言動、どれを一つとってもユニークだと思う」
「ははっ! 凄い物言いだな!」
名前がルークを動かすと、レストレンジの表情が一変した。彼は眉を顰めて暫く考え込む。暫しの沈黙の後、神妙な面持ちでゆっくりと言葉を紡ぐ。
「服従の呪いをかけるってのはどうだ?」
チェス盤には自陣のポーン二つに阻まれて退路を失ったキングがあった。スティールメイトだ。
名前は返答を考えあぐねていると、レストレンジは駒を片づける。
「冗談だって。所で今週末のホグズミートだが、予定は大丈夫?」
「お昼過ぎなら」
「待ち合わせは玄関ホールに一時―――行きたい場所があったら、今のうちに考えておけよ」
レストレンジはチェス盤を元の位置に戻し、軽く手を振って居なくなってしまった。
取り残された名前もまた部屋を後にし、隠された部屋を探すべくホグワーツを徘徊するが、何の手がかりも得られぬまま消灯時間が迫っていった。