S.I.S 04


 名前は膝の上に乗せている本を、虚心坦懐と読み進めていた。
 木々が風に凪ぎ、遠くでざわざわと葉の擦れる音が一層高まる。強い空気の流れにリジッタはスカートを抑え、両腕を組む。
 名前はページを捲る手を止めて顔を上げると、リジッタは猫の様な瞳を一点に集中させていた。
 彼女の視線を辿った先は校舎の廊下で、人だかりが出来ていた。そこには浮薄な雰囲気が漂い、女性が壁のように固まっていて、中心にはリドルがにこやかに応接していた。彼の隣にはいつものようにクレアの姿もある。
 眉間に皺を寄せるリジッタは意気阻喪とばかりに、背中を石造りの壁に預けて様子を伺う。
「あの子たちも好きよね。いいようにあしらわれているのに。私には全然理解できない」
「幸せそうな顔しているじゃない。あれだけ一途になれるのって羨ましいな」
「リジッタは男の人を好きになった事はある?」
 途端に彼女は顔を真っ赤に染め上げ、気まずそうに目を細める。
「私には名前が居ればいいの!」
「誤魔化さないで正直に言っちゃいなよ、バレバレだよ? リジッタ凄く可愛い」
 リジッタは名前の肩を優しく抱き寄せ、額に唇を寄せる。どちらともなく自然と笑みがこぼれる。
 彼女とは入学以来、多くの時間を共に過ごしてきた。遠くで暮らす家族と同じくらい大切だ。

「可愛らしいお嬢さん方、お楽しみの最中水を差すようだが、いいかな?」
「うん、ミスター・ス―――えっと」
「レストレンジ! いいか、もう間違えるんじゃねえ。煩わしいから名前は呼び捨てて良いよ。所でそちらの麗しいお嬢さんは名前の友達かな?」
「私はリジッタ。彼女のルームメイトよ」
「ああ、よろしく」
 レストレンジは握手を求めるが、リジッタはそれを無視する。
「宜しくされる義理は無いわ。用が無いんなら行って下さる?」
「冷冷然としたお嬢さんだ。この調子じゃあ婚期を逃してしまうな」
「まだ考える歳じゃないわ、結構よ」
「淑やかになりゃ可愛いんだし―――ああそうだ、トムを見なかったか?」
「あなた眼鏡をかけた方がいいわ。さっきから廊下に居るじゃない」
「本当だ」
 レストレンジは二人の近くにある樹に寄り掛かる。
「足止め食らっているようだし、後でいいか。所で名前に頼みがある」
「どんな事?」
 暫く会話から一線を引いていた名前は、読んでいる最中の本を閉じる。
「トムにクウィディッチの選手の誘いがあるんだけど、どうにかしてでも頷かせたいんだ。レイヴンクローの知恵なら―――良い案ない?」
 名前は長い睫毛を何度も揺らし、期待に満ち溢れた面持ちでこちらを見つめるレストレンジの言葉を、頭の中で輪唱する。
「突拍子に何を言うかと思えば。みすみすレイヴンクローに不利を齎すような真似が出来る訳ないじゃない。名前、行きましょう」
 リジッタは呆れ気味に溜息を吐き、石壁から離れてレストレンジに背を向ける。
「待った。次のクウィディッチ杯は、スリザリンとハッフルパフだろう?」
 肩を竦めて名前の腕を取り、歩き出そうとするのを彼が制止する。
「面白そうだけど、彼と出会って日が浅いの。レストレンジの方がよっぽど仲がいいでしょう?」
「百貨ビーンズでどうだ?」
「本当に何も思いつかないの」
「スクリペンシャフト製の高級羽根ペン、それも好きな物を選んでいいっていうのはどうだ?」
 名前の瞳が燦然と輝き、レストレンジを真直ぐ射抜く。
「でも、それは私じゃない方がいいと思う。違う寮だし、無理じゃないかな」
 口ごもる名前を尻目に、レストレンジはにやりと口角を釣り上げる。
「そうよ、どうして名前なの?」
「君が魔法薬に長けているのはスリザリンでも有名だ。可能性があるなら俺は何でもやる。失敗したって、何もしないよりマシだろ?」
 レストレンジは徴る姿勢を変えぬまま、にっこりと笑顔を浮かべる。女子二人は困惑に互いを見つめ、揃って首を傾げる。
 昼休みを堪能している周囲の生徒達は、皆一様に三人の動向を訝しげに伺っている。視線に気が付いた名前は途端に頬を紅潮させ、気まずそうに俯く。
「わかった、一緒に考えよう? ごめんリジッタ」
 リジッタは納得がいかないとばかりに、不機嫌さを含む溜息を吐く。
 レストレンジに事の顛末を尋ねると、堰を切ったように語り始める。

 一昨日、クウィディッチの練習の最中に、スリザリンのベストメンバーであるシーカーが、些細な事柄でハッフルパフのチェイサーと口論になった。スリザリンはとても孤立した寮で、どんなに小さなことでも大きな諍いになる事は有名だ。
 憤ったハッフルパフのチェイサーはとうとう杖を取り出し、口論の相手に呪いをかけたが、あっけなく防がれた。腹の虫が収まらないチェイサーは魔法で相手の杖を吹き飛ばし、杖は敵であるハッフルパフのビーターの手に収まった。
 ビーターは手に入れた杖を使い、スリザリンのシーカーに悪意ある呪いをかけた。だが相性の悪い杖は正常な威力を発揮せず、予期せぬ重傷を負わせる結果となった。
 更に事態は深刻化したようだが、その場に居合わせたレストレンジは、救護の手配でそれ以上を聞く事は叶わなかった。
 一時は試合を検討されたが、続行の運びとなった。

「そんな事があったなんて知らなかった」
「初耳だけど、自業自得じゃない。手を出したらどっちも悪いわ」
 呆れ気味のリジッタは退屈そうに腕を組む。
「いきなりふっかけられたんだぜ」
「だとしたら、他にも何人か懲罰を?」
「メンバー候補を含めると三人。ハッフルパフはもっと居るらしいんだけど、あっちには強力な助人が居るって話で、このままだと危ないんだ」
 レストレンジは気難しそうに眉を顰める。
 残り少ない時間で育成するとなれば、より才ある者を欲しがるのは必然だった。
 レストレンジの様子を聞く限り、兼ねてからリドルをメンバーにと提言があったようで、随分と熱心に口説いているのだが、一向に首を縦に振らないため今に至ると言う。
「ルームメイトに頼んであいつの好きそうな物を送ったな。大して興味が無いって素振りで、財布に隙間風が吹いただけに終わったよ。他にも勉強で勝負して、負けた方が言う事を聞くっていうのもやったが、あれは笑えるほどに完敗だった。話にすらなりゃしない」
 名前は唇を固く縛り、思考を巡らせる。
 話に聞くと、これまで感じた以上にリドルは気が難しい事が判る。物に大きな興味を抱かなかったが、競争には応じるとすれば、絶対的な自信を持ち合わせているのだろう。
「魔法薬でトムを頷かせる方法は無いかな」
 レストレンジは声を低くし、名前の耳元でとても小さく呟く。
「服従の呪文に近い系統のものとか」
 冷たく感情を感じさせない声色に、名前は全身から血の気が引いて行くのを感じる。
「あくまで例としてね。本当にそれを望んでいる訳じゃあない」
彼の表情に特別に変わった様子は無く、気のせいだったか―――と胸を撫で下ろす。
 傍ではリジッタは顔を引き攣らせ、彼に憎しみのこもった視線を投げかける。
「でも、どうやって飲んで貰うの?」
「この間、君と魔法薬学の教室で哄笑していただろう? 少なくとも、あそこでトムを囲んでいる女共よりかは可能性がある」
「無茶だよ。そんなに接点が無いし、第一ミスター・リドルは警戒心が強いもの」
 レストレンジは酷く驚いたように目を見開き、納得した様に二、三度頷きながら僅かに口角を釣り上げる。
「プランは俺に任せろって。まずは君にはもう少しトムを知って貰わないとな―――トム、おいトム!」
 突如叫び出したレストレンジに、名前は困惑を隠しきれずに立ち上がる。レストレンジは「交友って大事だろ?」と言い竦め、廊下を歩く人だまりに手を振ると、リドルはすぐにこちらに気が付いたようで、視線がかちりと噛み合う。
「待って、レストレンジ。私まだ何も考えてない」

 遠くでリドルは人のいい笑顔を浮かべ、何やら女性達に語りかけている。暫くすると片手を上げながら人だまりから抜け出すと、クレアが後を追う。
「またメレスか―――あいつ苦手なんだよね。トムと一緒に居るとやたら煩いの何のって」
 リドルは彼女を抑制し、最終的には一人でこちらに向かう。
「クレア・ミレスは同胞でしょう? 純血なのだから嫌う要素は無いのではなくて?」
「メレスって?」
「彼女のニックネームよ。あれに名前を巻き込まないで下さるかしら?」
「どういう事?」
 名前は二人を見上げて剣呑がり、眉尻がどんどん下がっていく。リジッタは下らない噂だと告げ、俯瞰する横顔は穏やかではない。
 太陽の光が煌々と照りつける中、気まずい空気が流れる。
「今の口外すんなよ。そうそう、リジッタにこれをやるよ。新しい味が出たらしくて少しばかり買いこみ過ぎた」
 レストレンジは百貨ビーンズを一箱取り出し、リジッタの腕に押し込み、ついでに耳打ちする。
 リジッタは大きな溜息を吐きながら頷く。
「私は寮に戻っているわ。名前、くれぐれも気をつけてね」
 苛立ちを抑えつつも心配そうに顔を覗き込む彼女に、名前は頭に疑問符を浮かべながらも笑顔を向ける。
 人ごみに埋もれていく後ろ姿を見送っていると、リドルとすれ違い様に挨拶を交わし、何事もなく通り過ぎていくのだが、歩き方が大雑把になっていく。隣に居るレストレンジは面白い物を見たと言わんばかりに声を殺して笑う。
 ざわざわと人の囁き声が聞こえる。
 リドルと出会ってから知った事だが、彼は成績の優秀さに加えて優しい性格から、寮の諍いを超えて人気を集めていた。名前の隣に位置するレストレンジも名家の者で、年齢に不釣り合いな色気がいいとかで、やはり注目の人だ。
 名前は「おかしい事になったな」と思いつつ、ずっと手にしていた本の表紙を眺める。
「羽根ペンは今週末でいいか?」
 目じりに涙を溜めたレストレンジが、笑いを堪えながら呟く。
「忘れないうちならいつでもいいよ」
「ああ、忘れていたけど、これからの話し合いには主に梟便を使う。重要な部分に関しては手紙で落ち合う場所を伝えるから」
「わかった」
 軽い足取りで歩を進めるリドルに視線を移す。彼は相変わらず清潔感が溢れていて、校内では気が付かなかったがとても脚が長い。日の光を浴びた青白い肌が一層白みを増し、酷く危ういものに見える。
「やあ、レストレンジにミス・名前。珍しい組み合わせだね、何時の間に仲よくなったんだい?」
「お前が女に現をぬかしている間にね。すっかりこの通り」
「こんにちは、ミスター・トム」
「また君に会えて嬉しいよ」
 名前がにっこりと顔を緩ませると、彼は玲瓏たる笑みで会釈する。
「なあトム。今週末に名前とホグズミートに行く約束でさ、トムも一緒に行かないか?」
 名前は驚いてレストレンジを見ると、彼は平然とリドルに向き合っている。
 確かに彼は好きな物を選んでいいと言った。釈然としないが、上手く言い包められたようなものだ。
「ホグズミートに?」
「備品を買いに行くんだ。どうせトムは暇だろ?」
「クレアにも誘われて断ったばかりで―――」
「それなら決まりだな。トム、名前。後は二人で話し合っていてくれないか? 俺はもうじき選手同志のミーティングがあるから。じゃあな」
 名前は不自然に踵を返すレストレンジを制止しようとするが、何の効力もなく、あっという間に遠ざかっていく。
 リドルは苦笑いして両手を背中で組む。
 いざ二人きりになると途端に会話が詰まる。これまでは勉強でのみ接点があったため、何を話そうかと思案する。それに加えて周囲の視線が尋常でないほどに、二人に向かっていて、緊張のあまり冷や汗が流れる。
 名前はひっそりと深呼吸して、頭の中を一洗すると、新たな疑問がわき上がる。
「レストレンジって選手だったんだ」
「あれだけ物々しいユニフォームを見に纏っていたら、殆ど判別が付かないからね。ミス・名前はクウィディッチを観ないのかい?」
「好んで観戦はしないかなあ。箒であんなに高い所にいるなんて、怖くて正視できないよ」
「もしかして飛行術が苦手―――とか?」
 名前は顔に熱が集中するのを感じ、慌てて俯く。
「飛行術っていうより、高い所が駄目なの。一年の練習の時にも失神しそうになって。少しだけは飛べたけど全然ダメで」
「それなら今度コツを教えようか?」
「ううん、悪いけれど遠慮する」
「即答だね、空を飛べたら気持ちがいいよ」
 困惑の表情を浮かべる名前に、リドルは優しい声色で続ける。
「魔法族に生まれた以上、必要に迫られる時が来るかもしれないだろう? それに僕は教えるのが上手いって評判でね。気が向いたら声をかけてくれないかな。僕はいつでもいいから」
「うん―――そうだね、ありがとう」
 リドルは空を見上げて、暫く押し黙る。
 いきなりこれでは先が思いやられる。レストレンジの作戦が成功するだろうかと不安が募り、心臓が早鐘を打つ。
「冷えて来たね、中に入ろうか?」
 流架は彼の赴くままにに歩きだす。


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