S.I.S 02

 窓から差し込む陽光が朝を告げる。
 カーテンで区切られた更に奥、窓際のベッドにうずくまる名前は、薄らと薄灰色の瞳を窓に向け、厚みのある布団を頭まですっぽりと被る。隣には陽を浴びてざらめ雪のような光沢を持つ蛇―――ペットのラピダがとぐろを巻き、小さく尖った鼻先で名前のおでこを何度も突く。
 名前は泥のような意識の底で「そろそろ時間なのかな」と思いながら、ラピダを胸元に抱きよせる。
「名前、起きて。ねえ、名前ったら!」
 ヒステリックな叫び声はルームメイトのリジッタのもので、おせっかい焼きで毎朝欠かさず決まった時間に名前の元を訪れる。
 ラピダは驚いてベッドに伏せた後、名前のパジャマに潜り込み胸元で息を顰める。
 ひんやりとした爬虫類独特の質感が心地いい。
「もう少し後で起きたい」
 ウィンター・ダフネの花弁の香りが漂う空間に、夢見心地な意識がゆっくりと落ちる。
 構わず寝がえりを打とうとした名前に、リジッタは何度もしつこく声をあげる。ラピダはどうもリジッタが苦手な様子で、ルームメイトが決まってから数カ月は毎日のように威嚇していたが、漸く慣れてきたように見える。
 名前は耐えかねて起き上がり、夢見心地のままベッドの下に置いていた水苔入りのトレーを手にとり、洗面所へと向かい水道水で洗い手短にある棚に安置する。ついでに顔を洗うとようやく眠気が覚め、よく乾いたタオルで湿り気を取る。備え付けの鏡に向かい、鳥の巣になっていた髪を豚毛のブラシで何度も梳かす。
「着替えるからカーテン閉めるね」
「女の子同士なんだから恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
「いいからお願い」
 名前は追従を許さぬ声色でリジッタを追い出し、仕切りを閉めると大人しく丸まっていたラピダが漸く活動を始め、お腹、太股と器用に身体をうねらせて下に降り、ベッドの下に潜り込む。
 パジャマが床に積み重なり肢体が露わになると、左上腕三頭筋に蛇と酷似した紋様が姿を現し、双眸を陰らせ右手を添える。

 蛇の紋様は名前の家系よりひっそりと引継がれるもので、生命の芽吹きと共に呪いを施される。名前の父親や祖母にも同党の紋様が刻まれていたが、紋様の場所は其々に差異が生じる。
 名前はずっと昔に蛇に纏わる呪いだと聞かされた事があり、父方の遺伝なのだが、祖父母は既に他界している。父は名前に紋様の事を告げる事なく1926年の終わりにこの世を去り、どのような意味を持つのかを未だ知らぬままでいた。
 唯一明白なのは、代々受け継がれる白蛇をペットにする慣わしだけだ。
「また痛くなってきた。もしかしてラッピー?」
 視線を落すとラピダがベッドの脚に絡みつき、大きく欠伸をしている―――どうやら違ったようで、肌には傷一つない。
 紋様の辺りの皮膚は時折痛みを生じ、その度に嫌な過去を引きずりだす。名前は過去に一度だけ夏の終わりごろに、母と共に父の友人を訪ねてマグルに出向いた事があった。
 その際マグルに紋様を見られてしまい、年を同じくした子供や大人から迫害を受けた。運悪くして蛇を恐れる風習があったのだろう、魔女を追放せよと声を掲げる人々に、今でも畏怖を抱く。
 今ではマグルに出向く機会が減ったが、幼心に抱いた感情は簡単には消えず、今なお心に影を落とす要因となっていた。

 ネックレス状のタリスマンを首に下る。ラベンダーパープルと鮮やかな琥珀色をしたアメトリンを、優しく包み込む。「これでもう痛くない」
 制服でしっとりし始めた肌を隠す。全身鏡に移る名前は喪中のように動きの無い表情で、探るように己の身体を見つめる。
 仕切りのカーテンを開き、リジッタにいつも通りの笑顔を向ける。彼女は「待ちくたびれた」と言いながら、名前の背中をぐっと押して部屋を出る。足が縺れて何度も転びそうになりながらも、漸く落ち着いた場所は大広間だ。
 他寮生と思しき声が飛び交い、日々の営みを深める一方で、刺のある空気がレイヴンクローに向けられる。
 名前は周囲を見渡すと、やけにスリザリン寮生と視線が絡み合い、自身の髪に触れる「寝癖ついてないかな」と独り言を溢す。
 リジッタはテーブルに突っ伏してスリザリンのテーブルを冷ややかに見つめている。
「今日も感じ悪いわね。スリザリンにいい人は沢山いるけど、良い気はしないわ」
 名前は自分の髪の毛がほんの少しはねている事に気がつくが、大衆の面前で大っぴらに櫛を出すのは気が引け、髪を弄るのを止める。
「今日の魔法薬学の授業はスリザリンと合同だね」
「えーやだ。スリザリンって一々ケチ付けてくるじゃない。でもレイヴンクローには名前がいるものね」
「あまり露骨に・・・・・・しないでね」
 突如ざわめきが一層濃くなり、煩さのあまりに会話を中断する。リジッタは忙しなく周囲を見渡すなり盛大に溜息をつき、一点を凝視する。

「スリザリンの優等生君だわ。彼って顔はいいけど好きじゃないのよね」
「優等生君?」
「有名じゃない。容姿端麗、とーっても優しくて聡明なスリザリンの帝王様よ。これならわかるでしょ」
「そんな人いたかな」
「だからトムよ、トム! 本当に知らないのね、トム・マールヴォロ―――」
「おはようミス・名前」
 背後から己を呼ぶ低い声がするのと同時に、肩に誰かの手が触れる。
「次ハアノ女ガ―――」
 頭に直接響くように透き通る女の声に、脈動感を感じて肩を震わせる。振り返ると声は途端に止み、先日に図書館で相席したリドルが居て、目が合うなり嫣然として微笑む姿に安堵する。
 陰でお喋りに夢中になる生徒達の声が増し、辺りはざわざわと騒がしくなる。
 隣のリジッタはバツが悪そうに眉を顰め、そのままリドルに顔を向ける。
「優等生様が何か用事でも? 名前が嫌がっているわ」
 嫌味を露わにした一言に、リドルはリジッタに向けて口角を釣り上げ、焦がれるように赤みがかる目を向ける。
「知り合いを見かけたもので。迷惑だったかな、ミス・名前」
「ごめんねミスター・リドル。おはよう」
「覚えてくれていたんだ。この間はありがとう。君の考察は僕には勿体ないほどの素晴らしさで、とても参考になったよ」
 名前は以前見たものと異なる色絵緒宿すリドルの瞳に釘づけになる。深紅に染まる彩光は惹きこまれそうになるほど美しい。
「ちょっと、名前に何をしたの?」
 嫌悪感を露わにするリジッタは、茫然としている名前の右腕を揺すっていた。名前は数回瞬きをして視線を逸らす。
「リジッタ違う、されたんじゃなくて」
「したの?!」
 リドルは気にも留めていないといった風に、変わらず笑顔を張りつかせている。熱を宿したような赤が消え失せ、黒々とした丸い瞳がリジッタに向けられる。
「ミスター・リドル。ごめんなさい」スリザリンのテーブルを視界に入れて苦笑いする。
「そうだね。ではまた。ミス・名前」
 リドルは名前の真後ろに位置する椅子に座し、周囲に位置する生徒達は目を丸くしていた。探るようにリドルと名前を交互に見つめ、疑問に首を傾げている。他寮生の男子生徒がリドルを取り囲むように何人か集まり始め、奇怪な視線がそちらに向かう。
「あ、あの背中。そっか、確かにミスター・リドルだ」
 リジッタは顔面蒼白になり、名前の顔を覗き込む。
「ねえ、一体何があったの?」
「図書館で一緒に勉強しただけだよ」
「一緒にって? それはいけないわ。確かに彼は顔も頭もいいけど―――構わない方がいいわ、絶対」
「そうかな。ミスター・リドルって、ちょっと変わってる。雰囲気が特殊なのかな」
「それはずっと前からよ。本当に知らなかったの?」
「ううん、顔は覚えてた」
 食事の合図が木霊し、必要最低限の物だけが装飾されたテーブルに、食事が運ばれる。
「やっときたね。早く食べよう?」
「そうねえ・・・・・・」
 リジッタは忌々しげにリドルの後ろ姿を睨みながらパンを齧る。それは固いフランスパンだったようで、口元を覆って悶絶している。顔が面白い位に伸びて、涙ぐむ姿に思い切り吹きだす。
 咳き込むリジッタが落ち着くまで背中を擦り、パンを避けて食事を採る。

 食事を終えた頃に突如ざわめきが広がり、名前は周囲を見渡すと、生徒達は皆一様に見上げていた。つられるように視線を上に向けると、夥しい数の梟が飛び交っている。ふくろう便だ。
 名前の上を通過した梟が足を放ち、大岩でも降ったような音を立てて使用していた陶器の皿を押しつぶす。見慣れた文字で書かれた送り主は母だった。
 名前は小包を開くと、中にはバイブルサイズの鍵付き手帳が入っていた。青緑の表紙には何も書かれていない。
 母は時折専門書や、家督に縁のある品を送りつけてくる。必ず魔法でないと開かない仕掛けになっているのだが、今回は毛色が違うように感じる。
「ヒントは表紙の色かな。青緑って、何だろう」
 常に持ち歩いている懐中時計に視線を遣ると、針がもうじき授業の始まりを告げようとしていた。
 名前は小首を傾げながら、手帳をポケットに入れてリジッタと共に席を立つ。


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