S.I.S 01
ホグワーツ魔法魔術学校内、図書館。四つの対抗する寮生徒達が挙って集まる静かな館内は、大方のテーブルが満席になっている。
ある一か所だけ異様なほど大勢の人々が集まっており、四人がけの席からもはみ出るほど大盛況している席があった。その中心で軽快にペンを走らせている人物はトム・マールヴォロ・リドル。
彼の向かいには数枚の羊皮紙を手にした女生徒が、歓喜に震えていた。筆跡は今、休みなく羽ペンを動かしているリドルのもので、中に書かれていたのは古代文字に関する文献の引用。それも全てリドル自身が翻訳したもの。
余裕の表情で羊皮紙一枚分を書き切り、向かいに位置する金髪の女、クレアに手渡した。
「トムはどの教授よりも秀逸ね」
「それは言いすぎだよ」
困ったように笑うリドルに、クレアは頬が上気し目を潤ませる。お世辞にも美しいと賞賛できるものではないが、華のような品格がある。リドルを取り巻く人物は皆一様に、近寄りがたい空気を発していた。
スリザリン寮生特有の刺のある威圧感。凛とした姿勢を保ち、ただ一人の人物に目を向けている。一見すると異様な光景ではあるが、それを目にする他寮生は誰一人として口をはさむ者はいない。
リドルは再び羽ペンを走らせていると、周囲から密やかな笑い声が聞こえ、僅かに顔を上げる。薬学専門書の棚にレイヴンクローのシンボルカラーを纏った女が、本を真剣に見つくろっていた。
―――彼女は確か、同学年の名前・苗字だ。
名前は魔法薬学や薬草学の実技で、ちょっとした有名人だ。成績は特に飛び抜けたものはないが、彼女が調合する物は外れが滅多にないと囁かれている。あまり近い所で目にする機会がないため、小耳にはさんだ程度の知識。同学年ではあるが、合同教科でも名前を交わした事さえなければ、会話らしい会話はこれまで皆無だった。
名前は数冊の分厚い本を手にしたまま、颯爽とリドルを横切り更に奥へと向かっていく。本を手に取っては棚を変え、身長を超えるほどに積み重なっていく。
「野蛮ですこと」口を開いたのはクレアだ。忌々しいものを見るような視線を、腕いっぱいに本を抱える少女に向けている。
張り詰めた空気が漂う傍ら、リドルは苦笑いして窘めようとする。
次の瞬間、歴史の棚に居た名前が、持てる本を全て床にばら撒いてしまっていた。すぐさま近くに居たレイヴンクロー寮生が駆け寄り、本を拾い集める姿が伺える。
スリザリン生達が一斉に嘲笑を洩らし、リドルは僅かに目を細める。
「そろそろ時間だね。君達は先に寮に戻ってくれないかな。届けて欲しい物があるんだ」
リドルが言うと、大勢の人だまりは蜘蛛の子を散らすかのように去っていく。しかしただ一人、クレアが動きを止めたまま、もじもじと気恥かしそうに下を向いたまま立ち止まる。
「私、まだ―――」
名残を惜しむかのようなクレアに、リドルは眉を下げて手元の専門書に視線を落とす。
「談話室で、また会えるよ。ミス・クレア」
クレアは不満げに小さく頷き、この場を去っていく。
リドルは短い溜息を洩らし、眉を顰めながら専門書を手に取りページを捲る。文字を目にした途端に真剣な表情に変わり、羊皮紙に導き出した答えを書き連ねる。
とたとたと覚束ない足音が近づいてくる。
「ここは空いているかな」顔を上げると、先ほど本をばら撒いていた名前だった。更に増えた本の山が頼りない腕の中で不規則に揺れ、リドルは目を丸くする。
インクが乾いていない羊皮紙の上に書物の山が落ちれば、後でとばっちりを食らいかねない。
たまらず立ち上がり、今にも崩れ落ちそうな本を手早くテーブルに移す。書物は数千にも及ぶであろう厚みのある物ばかりで、ここまでよく持ちこたえたものだと関心する。
名前は背伸びをして腕や背中をほぐすと、ビリヤードグリーンの猫のような丸身を帯びる瞳をリドルに向ける。鎖骨まで伸びた髪は光りに翳したように透明感のあるアッシュグレーで、濡れたような艶を持ち、凛とした雰囲気を纏っている。
リドルは僅かに唇を開け、息を短く吸ってにこりと笑う。
「席は空いているから、好きな所に座ると良いよ」
「ありがとう。お言葉に甘えて」
「礼には及ばないよ」
名前はリドルの向かいに腰を下ろし、ローブの内側から筆記用具と羊皮紙を取り出す。余程重労働だったのか、荒げる呼吸を整えるべく大きく息を吐く。落ち着いてくると、視線を僅かに上げて柔らかい笑みを見せる。
「貴方の顔はよく目にするのだけれど。ええとミスター・ト、ト―――」
名前は言葉を詰まらせる。
「僕はトム・マールヴォロ・リドルだ。君とは同学年だね」
「そう、ミスター・リドル! 私は名前・苗字。よろしく」
透き通るような音色は女にしては低く、聞いていたくなるほどに心地いい。
リドルもまた当たり障りない笑顔を向け、互いの営みを其々行う。
名前はテーブルに広がる書物の山から、古代文字の本と薬学の本を一冊ずつ引きだし、嬉々爛々と表紙を開く。
リドルは再び書物に目を這わせ、空いた手で羽ペンをくるくると回す。
リドルが位置するテーブル以外に、これだけの量の本を置ける場所は無かった。
―――彼女にしてみれば、偶然ここが空いていただけなのだろう。ここの所ずっと、己に近寄る者は何かしら下心を懐柔する者ばかりだが、彼女はさして興味がある風でもない様子に安堵する反面、知名度がある方だと思っていただけに、煮え切らない思いが沸騰する。
傍目で向かい側に目を遣ると、本にどっぷり食い入る様な視線を送っていた。内容の断片を言葉にしながら羊皮紙に『魔法薬・真実薬と解毒薬の調合と有用性』と記している所だった。リドルからは書きかけの羊皮紙の隣に、黒いインクの上に赤いインクで何やら書き足した様子が伺える。
真実薬と言えば強力な自白剤として有名な魔法薬で、解毒薬となれば同等に高度な知識を要求する。魔法性に使用を固く管理されている品で、高学年になっても習う事はないだろう。
リドルは読みかけのページに指を添え、俯きがちに口角を歪める。
「ミス・名前。ちょっといいかな」
リドルは声色に好奇心を滲ませ、笑顔で名前の目をじっとり見つめる。
「確か魔法薬学が得意だったね。スラグホーン先生からよく君の名前を耳にしていたんだ」
名前がビリヤードグリーンの綺麗な目を丸くして出方を待つ様子に、リドルは羽ペンを持つ手に力を込める。
「所でその本は?」
「これは素材の抽出方法を記したものだよ」
名前は穏やかな口調で本を撫でながら、薄らと口元に笑みを作る。
「見せてもらってもいいかな。これは、いつもこういったものを?」
「今日はちょっと嗜好を変えてみただけ」
「凄いな。もしかして―――」
名前が照れくさそうに、リドルの言葉に耳を傾ける。
「この本の、フェリックス・フェリシスの作り方が、部分的に破れてしまっているんだ。ひょっとして君なら―――」
「どうしてまたこれを?」
怪訝そうに、それでいて面白い物を見るような眼差しをリドルに向ける。フェリックス・フェリシスは入手が難しい、特殊な魔法薬に分類されているが、その効果から欲しがる魔法使いが多い。
「最高の一日っていうのを体験してみたくてね」
リドルの背後に位置する生徒がクスクス笑う。
「ごめんなさい、レシピの詳細はまだ理解しきれていないの。でもこれと同じ本を読んだ事があるから、書き写しなら出来るよ。見せてもらってもいいかな」
名前が屈託のない笑みを浮かべ首を縦に振る。リドルは手元の書物を開いたまま名前に渡すと、記された文字を連ねる。
図書館と言う場のためか名前は控え目に発音し、リドルはたまらず両手を上げて静止する。
「ああ待って。周りが騒がしくてよく聞こえないんだ。隣に行ってもいいかな」
「どうぞ、ミスター」
リドルは勉強用具を纏めて名前の隣に座る。
名前が小首を傾げて笑うと、ウィンター・ダフネの花弁の香りがリドルの鼻を掠める。クレアよりも色が薄い肌はやや青白く、健康的ではない印象を受ける。
名前は食い入る様な眼差しを文字の羅列に寄せ、それぞれの意味や読み方を事細かく羊皮紙に書き連ねる。書物には決して書かれないような、採集場所だとかマニアックな分野まで丁寧に書かれている。
リドルは唇を少しだけ開いて息を短く吸い込む。
「驚いた。凄く解りやすいよ」
「そうかな」
名前は視線を羊皮紙に向けたまま、嬉しそうに唇に弧を描いている。純粋に魔法薬学そのものを楽しんでいる様子が見てとれる。
空白のページを補足するように埋められていく文字を見て、一体この知識をどこで手に入れたのかと疑問が頭を過ぎる。もしかしたら純血で、魔法薬学に長けている一族の末裔なのかもしれない。
「君もしかして、魔法薬学専門?」
名前はぱっと顔を上げて、間を置いてから恥ずかしそうに頷き「うん。両親の跡を継ぎたいの」と短く言う。
両親と言う事は、彼女は純血だ。
「はは、気に障ってしまったかな。所でそれは?」
「これ? 魔法薬には目が無くて・・・・・・時折考案しているの」
「信じられない」
「幼少から触れていたから、これ位は」
声のトーンが一段と低くなると、名前は僅かに自嘲めいた笑みを洩らす。
「君は―――」
名前は感情が揺れるかのように切なげな眼光を羊皮紙に向けている事に気が付き、言葉を飲みこむ。
「君の勉強を邪魔してしまったね。面白くてつい、夢中に」
周囲の人々が疎らになり、辺りが薄暗くなっている事に気が付く。もうすぐ図書館は閉館の時刻を迎える頃だろう。
「私こそ。こういうのに熱くなっちゃうから。ああ、そろそろ出なくちゃ」
「そうだね、手伝うよ」
名前はテーブルに山積みにしたまま殆ど開かれずにいた本を手に取り、本を大切そうに撫でながら席を立つ。
リドルは目を細めて共に全ての本を本棚に戻す。本の内容はそれこそ様々で、古代文字の辞書や薬草学、中には闇の防衛術に関するものまであって驚いた。
名前に聞いてみると、魔法と魔法薬は物理的なものと非物理的なものとで違いはあるが、原理は似ているから参考にしているのだそうだ。
名前は簡単なお礼を述べ、用事があるからと足早に図書館を後にした。
一人残されたリドルは、羊皮紙に纏められた文字に視線を落とす。
ウィンター・ダフネがほんのりと香り、心地いい気分に包まれる。満足げに笑うと、リドルもまた図書館を後にする。