03 全てには終わりがなく、拍車が掛かるばかり
時計が歯切れのいい音を奏でる。トム・リドルは未だに真剣な眼差しを本に向けている。
ほんの数秒前に彼が発した言葉が頭の中で反芻する。
『僕が食べさせてあげようか?』
単にからかっているのか、全く意図が読めない。些細な言葉にも敏感に反応するほど、現状は過酷だった。
ずっと憧れていた彼が目の前にいるだけでも奇跡に等しい。それだけ在学中に彼との接点がなかった。
彼は時折こちらの様子を伺っているのか、視線を感じる。
名前は顔を上げるのもはばかられ、小さくなりながらもケーキを口に運び、出来るだけゆっくり咀嚼する。折角の豪華なデザートプレートは、普段なら貪欲に頬張っている所だが、緊張のあまりか味が半減した様に感じられる。
早くこの時間が過ぎて欲しいと思う反面、名残惜しいようにも感じる。
時間が経過するごとに彼への思いが強くなる。
彼の事をもっと知りたい。普段何を食べて、どんな物が好きなのか、どんな時に笑うのか、どんな時に怒るのか―――考えれば考えるほど、沢山の「欲」が思考を支配していた。
彼は昔から何を考えているのか解らなかった。大して会話した事もない、ただ見ているだけで満足していた筈だったが、憧れの的だった彼は手を伸ばせば届く距離に在る。「触れてみたい」それは思うだけで、辛うじて正常な意識は必死に抑制していた。
名前は最後の一口をフォークに取り、しっかりと噛みしめてから飲み込む。途端に手持無沙汰になり、彼の姿を盗み見る。真剣な眼差しや、相変わらず長細く骨ばった指は痩せたものの、嘗てホグワーツで見かけたものと殆ど変わっていない。
「僕の顔がどうかしたかな?」
「いや、あのう―――変わったなって思って」
リドルは何度か瞬きした後に名前を見つめる。
「トムが卒業してから一年も経っているけれど、あんまりにも、その―――随分背が高くなったし、見違えるほど素敵になってて吃驚した」
言うつもりが全くなかった言葉が喉から滑り落ち、ハッとする。体中から汗が噴き出すのを感じて、どうにも気まずくなる半面、奥底から沸き起こるような高揚はまた別の感情に支配されたものだった。
「そういう名前は綺麗になったね。髪も伸びたし、何より女性らしくなった」
彼は手にしていた本を閉じて、全ての本を左腕に抱え、優しく微笑みながら端整な唇を開く。
「昔から君は本を見ているのが好きだったね」
名前は頭の中が真っ白になり、言葉を失った。
確かに本は仕事でも触れたいと思うほどに大好きだった。在学中は暇さえあれば図書館に入り浸り、意味合いを理解できない様なものだろうと構わず目を通した。お陰で今ではお勧めの本を聞かれても直ぐに答える事が出来ただけに役に立っているが、他に活用する道が無いのが残念ではあった。
彼がティーカップの紅茶を口に含むのを見届けてから「うん」と答える。彼は口角を上げながら、綺麗な動作で立ち上がる。
「これから書庫に行くのだけれど、着いてくるかい? 手持無沙汰では落ちつかないだろう」
名前は首を傾げて唇に指を当てて暫く考えた後、立ち上がって彼の後ろに続く。
ほんの一瞬、酷く生温い空気に混じり、噎せ返るような鉄錆に似た香りが鼻を掠める。振り返って周囲を見渡すが、別段と変わった所は無かった。
彼は来た時と同じように手も使わずにドアを開き、共に部屋を出る。
しんと静まり返った屋敷に二人分の足音が響き渡る。彼は身長が高いだけあって、歩幅もまるで名前とは違う。普段の調子でのんびりと歩けば、安易に逸れてしまいそうだ。
ランプは二人が通過した場所にのみ点灯し、過ぎ去って暫くすると灯りが消える。予め人が通る時に作動する呪文がかけられているようだった。
終わりの見えない廊下をひたすら歩いていると、彼は大きなドアの前で立ち止まる。そこにはがっちりと大きく、物々しくも彫刻が美しいシルバーの鍵がかけられている。
彼は人差し指と中指の間に杖を挿むように持ち、先端を鍵に向ける。短く呪文を唱えると、隔てるものが床に落ちてドアが勝手に開く。
ここに来て初めて彼の杖を目にする。白みがかった杖は骸骨を彷彿とさせ、骨ばった持ち主の細長い指によく馴染んでいて、えも言えぬ怪しさを増長させていた。
「僕は本を置いてくるから、戻るまでの間は好きな物を見ていると良い」
彼は近くにあったランプに魔法で火を灯して名前に渡すと、本だけを手にしたまま暗闇に消えていった。
灯りが無くても大丈夫なのだろうか―――闇に溶け込む後ろ姿を見つめていたら、無性にもの寂しさを感じて身震いする。
書庫はホグワーツの図書館と同じくらいに広く、膨大な情報がそこにはあった。書店で働いている性だろうか、どんな物があるのか沸々と興味が湧きあがる。
リドルから受け取ったランプを片手に、一番近い所の棚に歩み寄る。
本のタイトルを見ると、フローリシュ・アンド・ブロッツで取り扱っている本ばかりだった。常連と言うだけあって揃え方が尋常じゃない。より奥の棚へと移動していくと、段々禁書に近いようなものが多くなっていく。ホグワーツで目にした様な珍しい書物も多い。
喉の奥がカラカラに乾くのを感じる。
どんどん奥へと突き進んでいくと、どこか遠くからドアが閉まる音が響いて、一瞬びくりと肩を震わせる。
「トム?」
彼からの返答はなく、もしかしたら別の部屋に移っただけなのかもしれない。
気を取り直して壁側の本棚に視線を移す。安置されていた書物は明らかに禁書で、タイトルからも闇の魔法に関するものと一目で判る装丁だ。
唾を飲み込んで、一冊手に取りページを捲ると、禁断の薬品に関する記述が鮮明に書き綴っられていた。書物を棚に戻し、別の物に目を通す。何冊も同じように見ては戻し、を繰り返す。
どこでも買えるような本は重要な部分を伏せているが、闇に属する本は下法とされる事柄までも事細かく、丁寧に記されている。しかし突き詰めるにも資料が足りないものが少なくない。筆者自身の立ち位置がとても危うくなっているのでは―――と思うほどで、中には文字が途切れてしまっている様なものもある。
頭の片隅に一つの疑問が浮かぶ。
これほどの情報を所有しているならば、ダイアゴン横丁の書店で得られる知識に満足するなどありえない。彼はどんな理由でフローリシュ・アンド・ブロッツに立ち寄るのか、皆目見当がつかない。
名前は本を閉じ、茫然と背表紙を見つめる。
優秀な魔法使いの一部はより高みへと目指していくうちに闇の魔法に手を染める事が屡ある。彼はそうでなくともノクターン横丁の人間が所有しているのは極々自然だった。
言い知れぬ不安が体中を駆け巡る。
「トムは闇の魔法使いになったのかな・・・・・・」
そう行きつくには時間はかからなかった。実力も知識も、彼には充分以上に素質があると理解できた。
魔法省に≪闇払い局≫があるほどに、闇に魅入られた魔法使いとの対立は絶えない。かのグリンデルバルドもそうだった。日陰者としてひっそりと息づき、しかし確実に勢力を伸ばしていると噂で耳にしたのは学生時代の話だが、今はどこで何をしているのか、生きているのかといった細かな情報は広まらない。それほどの力を蓄えていたのだろう。
思えば彼―――トム・リドルは卒業してから暫くの間、一部の教員が彼に会おうとしても連絡が取れない時期があったそうだ。
彼も同じように、追われる身になるのだろうか。会えなくなる日が来るのだろうか。そうなってしまうのは嫌だ―――不安は尽きることなく矢次に込み上げてくる。
「闇の魔法使いはお嫌いかな?」
誰も居なかったはずの名前の背後からトムの声が聞こえた。意表をつかれた名前はランプを床に落してしまう。硝子が割れて辺りに飛散すると同時に、ランプの灯りが消えて暗闇に包まれる。
「驚かせてしまったね。怪我はない?」
彼は猫を抱くかのように名前の両脇に手を差し込んで立ちあがらせる。
「心臓が止まるかと思った」
「それはすまないね。ああ、言い忘れてたけれど、書庫ではルーモスを使ってはいけないから気を付けて。厄介な本があって、呪文の灯りに反応して人に襲いかかる本があるんだ」
「それを早く言ってほしかったな・・・・・・!」
急激にこみ上げる恐怖感で足元が竦み、態勢を崩しかけたが、手に暖かく骨ばった手が触れて全身が熱くなる。
「僕の手を離さなければ大丈夫。ほら、しっかり握って」
彼は歩き出そうとするが、名前の足は魔法にかかったかのように動かず、引き止める形になる。
「どうしたの?」
「ごめんなさい、足が震えて動けないの・・・・・・」
笑いを押し殺すような声が聞こえ、名前は小さくなる。
せめて蝋燭の灯火のある廊下まで辿りつければ、足はきっと動くだろう。
(お願いだから動いて! でないと心臓が止まりそう)
名前は心の中で大声で叫んでいると、背中に何かが触れた後に、体に得体の知れぬものがピタリと密着する。それはとても暖かく、辛うじて動く手で弄ると布越しに人間の感触があり、驚いて布を掴んだまま固まる。
最初に触れた部分は緩やかな弧を描き、武骨な筋肉が付いていた。
「僕が付いているから、落ち着いて、ゆっくり深呼吸して」
優しい声は頭のすぐ上から降ってきた。
「えっあ、あのう・・・・・・ここ、これは・・・・・・」
名前の背中に触れる温もりは、諭すように背中を二回叩く。
彼の声がした方向を見遣ると、月明かりで薄らと、やたら近くに端正な唇が見えた。更に見上げると筋が通った高い鼻に、アーモンド形の瞳が自身を捉えていた。漸く彼に抱き締められているのだと気がつき、回りきらない思考はますます混乱する。
短く息を吸い込むと、埃の臭いに軽く咽る。
暗闇も、この場所に住まうという魔法生物も恐ろしい。しかし現状はそれら全てを上回った。