04 その選択が、果たしてどう転ぶか

 触れた部分が熱を持ち始め、身震いした。
 抱いていた恐怖心もさながら、すぐ近くで聞こえる息使いに、緊張と高揚感が知覚を支配する。
 支えを失えばその場に崩れ落ちるのは明白だが、床に這いつくばって消え去りたい―――それ位トムの体温は暖かく、刺激的だった。
 書庫のどこかに隙間があるのだろうか、奥からは紙が擦れる音が静かな一室に響き渡る。
「些か無防備過ぎるな」
 静かに声を発したトムに、名前の肩が飛び跳ねる。
「だ、誰が?」
「君以外にだれが居るって言うんだい?」
 トムは喉を鳴らす。笑いを堪える音は甘さを含んでいて、耳に心地いい余韻を残す。
 首元にひんやりとした手が触れ、頭が白み始める。指先で咽頭をなぞり上げ、ゆっくりと顎へと移動する。
 痺れるような官能的な感覚に息をのむ。
「外に出ようよ。ここは暗すぎるし、それに」
 喋っている合間にもトムは互いの頬をすり合わせ、名前の髪の毛を右手で掬い取り、左耳にかける。
「嫌なら逃げるかい?」
 名前はなめかましい視線に、ぞくり、と体を震わせる。足は意思を失ったまま。縋るように彼の服をぎゅっと握る。
 甘美な低い響きの後に、名前の唇が塞がれる。
 彼の唇はひんやりとしていて、火照った肌に心地よく馴染む。リップノイズを立てて離れると、トムは舌なめずりして名前の双眸を見つめる。
「今さら君を離すつもりは更々無いんだけどね」
 ぞっとするほどに美しい笑みを携え、彼は瞼に唇を落としてから名前を軽々と抱き上げ、どこかへと歩き出す。
 彼の首にしがみ付き、床を見下ろす。月明かりを以てしても朧気で、気の赴くままに歩を進めれば安易に打つかりそうなものだ。
 重厚な音と共に書庫の出入り口が開き、風圧のためか髪が揺らぐ。来た時と同じ場所なのだが、灯りが無いだけに雰囲気が全く違う。
 重みを含んだヒールの音が静かに廊下をこだまする。
 おずおずと顔を上げると、触れられる距離にある彼の肌は陶器ように白く、黒い瞳がよく映えている。時間を忘れてしまいそうなほどに美しく魅力的な風貌は、歳を重ねて格段に飛躍していた。
 強張っていた体の力が抜けていき、彼の胸元によりかかる。
 彼は名前の視線に気が付き、柔らかな笑みを見せる。
 木が軋む音を立てて扉が開く。ふわりと羊皮紙独特の香りが鼻を掠め、名前は顔を上げる。
 そこには高価そうなベッドだけが設置され、一つだけある木枠の窓からは月明かりが煌々と輝いていて、シンプルな部屋なのだが不思議と幻想的な空間だ。
「ここは僕のお気に入りの部屋なんだ」
「月が良く見えるんだ。すごく綺麗・・・・・・」
 彼は、恍惚と窓の奥に視線を馳せる名前をベッドの上に下ろし、お互いの額をぴたりと密着させる。
「信じてもらえないかもしれないけれど、ずっと君を見ていた。書店に通っていたのも君が居たから―――」
 耳元で名前を呼ばれる。甘い響きが脳を揺さぶり、じわりと胸が苦しくなる。
 潤んだ瞳を閉じる。ひんやりと冷たい唇が首筋に触れ、体が僅かに跳ねる。
 必死に彼の手を求める名前の中に、全てが満たされる感覚がじんわりと広がる。



 薄暗かった街道には日が差し始め、群青色だった空は爽やかなスカイブルーへと移ろいでいた。
 名前はリドルに抱きしめられたまま、心地いい音を聞いていた。
 今いる空間には時計こそ無いが、いつもなら起きて朝食の準備をしている時間。
 規則正しく息をするリドルは目を瞑っていて、心地よさそうに眠っているようだ。
 起こさないうちにそっと出て行こう―――名前は意を決し、彼を押しのける。いとも簡単に腕から解放され、ベッドから足を投げ出すと、がっしりとした腕が体の自由を奪う。
「名前? どうかした?」
 後ろ側に引き寄せられ、一瞬にして思考が回らなくなる。
「ああ―――そうか、君はそろそろ時間なんだね。屋敷の中では移動の魔法が使えない。あと、窓は開かない様に制限しているんだ・・・・・・煙突ネットワークもね。外まで案内するよ」
 彼は眠気が残る眼を窓に向け、あっさりと腕を解放して起き上る。漸く開いた距離に安堵すると共に、罪悪感が芽生える。
「い、いいよ、一人でも・・・・・・帰れるから」
「道に迷いたい?」
 名前は「うっ」と口ごもる。
 ほんの数秒の会話をしているうちに、すっかり彼からは眠さの欠片も見られない姿になった。いつもの完璧なトム・リドルだ。
 手を差し出されるが、どうしても握り返す勇気がなかった。
 名前は下を向いてやや乱れた服を正すと、彼は強引に名前の手を取り、ゆっくりと部屋の外に誘う。
 来る時とは違った表情を見せる屋敷が二人を出迎える。
 ベッドルームを出て暫くすると、来た時と同じように廊下には蝋燭が道を照らす。
 会話のないまま淡々と道を歩いて行くと、彼はぴたりと歩を止める。
 気を逸らしている間に玄関ホールに着いていたようだ。
「私は―――」「僕は―――」
 全く同じタイミングで言葉を発し、見事に被る。
 彼は穏やかに微笑んで名前を抱きしめる。
「わっ・・・・・・私も、トムが来るのを毎日待ってた。学校にいた時はただ憧れていただけだったけど、けれど―――」
「そう、僕は君が考えている通りだ。一緒には居られない」
「付いて行きたい」
 彼は視線を落として口ごもる。何かを言いたげだったが、短く息を吸って、名前を抱き寄せて額に唇を落とす。
 戸惑いながらもされるがままになっていると、彼はすぐに離れて口元に笑みを携える。
「君はこちらに来るべき人間じゃない。でもね、僕はこれからも君を思い出すだろうね」
 彼は切なげに眼を細め、互いに見つめあう。まるでもう会えなくなるかのような、短くて長いひと時に感じる。
「そう、僕にも時間が―――いや、もう日がないんだ」
 昨晩の書庫で見たものが頭を過り、一抹の不安が頭をちらつく。
「・・・・・・恐らく君が思っている通りだと思う」
「私はいつでもあのお店に居るから。クビにならない限りだけど・・・・・・待ってる」
「どんな姿になっても?」
 名前は頷く。
「どんな事をしても?」
 押し殺した声に、胸が深く抉られるようだ。
「当たり前だよ」
 精いっぱいの笑顔を彼に向けて頬にキスをし、街道に一歩踏み出す。

 振り返ったら彼はどんな顔をしているのか、想像すらできない。
 ぼやけ始めた視界を振り払うように、懐から杖を取り出して姿現しで自宅に戻る。
 慣れた臭いが鼻を刺激する。「ああ、戻ってきた!」妙な緊張からの解放感が全身を支配し、その場にへたりこむ。
 彼の言葉を素直に飲み込めない自分が居た。
 憧れだった彼がすぐ近くにいるだけでも夢見心地だった。似たような気持ちを抱いているのだろうか、それとも全く別の思いからなのだろうか。「彼がそこに居るだけでも満足だった?」自分に問いかけるが、納得はいかなかった。
 何と返せばよかったか、どんな選択をしてさえいれば良かったか、頭の中で重く絡みついていた。

 その日は全く仕事に集中できなかった。
 配達の時でさえ煩かったオーナーは、案の定事あるごとに「あれから進展した?」等、質問を口にしたが、曖昧に返事をするのみに止めた。やがて興味が逸れたのか、仕事が終わるころにはすっかり大人しくなっていた。
 翌日、翌々日、また更に次の日も、フローリシュ・アンド・ブロッツに彼が訪れる事は無かった。


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