02 その反応は予想外


 トム・リドルは、頻繁にフローリシュ・アンド・ブロッツを訪れた。大口の注文は週に二度くらいだが、小口の来店も増えていった。
 彼が来る時間は決まって開店してすぐか、もしくは閉店一時間前だった。どうやら彼は勤務時間が朝と夜だそうで、帰りに立ち寄っているらしい。
 今は日曜日の夜。フローリシュ・アンド・ブロッツには僅かな客だけが残されていた。名前は手元のリストに店内在庫数を書き込む。暫くするとお客さんが店を後にし、閉店間際の静まり返った店内で、片付け作業をしていた名前は店閉め作業にあたり、普段以上の速さで作業を進める。
 店主は途端に上機嫌になり、名前の肩を肘で小突く。
「あんたあ、一体何をしたんだい? お陰で店が大繁盛だよ!」
 名前は目を丸くして、店長の顔をまじまじと見る。
「今のお客さん見たかい? あんたが来てから、大量購入層が随分と増えたんだよ。あんたは用意が早いだろう? あんたの接客は評判が良くてねえ」
「いつも店長が行っている事を真似ているだけですから、店長の行いの賜物です」
「言ってくれるねえ、そりゃあ、私もここを継いで長いもんさ。昔ながらのお客さんはバタバタおっ死んじまうから、若い衆を引きこむのは一苦労でねえ。あんたのようないい従業員に恵まれりゃあ、宝くじを当てたようなもんさ」
「そんな! まだまだ学ぶべきことだらけです」
「だとしたら、そりゃあ勿体ないねえ」
 店主は大げさに肩をすくめる。
「あんたもうすぐ十八歳だろう? 貰い手はいるのかい?」
 突拍子の無い問いかけに、名前は驚いてリストを落してしまう。
「私にはまだ早すぎます」
「魔女なら十七歳で成人だろうさ。結婚するなら早い方が、子供を沢山作れるってもんさ!」
「まだ相手すら・・・・・・いませんよ」
「あんたは好きな人が居るだろう? お得意さんの、背がひょろっと長くて、髪が黒くて頬がこけた優男がいるだろう? 彼を見ている時のあんたと言ったら、とびきり嬉しそうな顔をしているもの」
「彼は確かに好きですが、恋愛だとか、そういったものではないんです。憧れというか、あんな人になりたいなって思うくらいで・・・・・・」
「若いねえ、あんた、そりゃあ違うよ」
 名前は頬を真っ赤に染める。
「おやまあ、噂の彼があんたに会いに来たねえ。あたしゃおいとまするかね」
 店主の言葉にはっとして、窓を見やるとトム・リドルの横顔が見えた。真直ぐに入口へと向かっているのが判り、名前は両頬を押さえる。
「店長、待って下さ―――」
 店の主はそそくさと店の奥にあるドアの奥に隠れ、完全に視界から消えてしまう。
 一人慌てふためく名前は、漸く落したリストを広いカウンターに仕舞い、制服がよれていないかを簡単にチェックして、深呼吸する。
 入口のドアが開くと心臓が大きく脈打ち、動作がスローモーションのように感じられる。名前は手をぎゅう、と握り締めて彼の人が現れるのを待つ。
 綺麗な黒髪の誠実そうな彼が顔を出し、名前を見るなりにこりと微笑む。
「今日は何をお探しで?」
 挨拶代わりに名前も笑みを返し、出てきた言葉は事務的な言葉だった。
 彼は酷く優しげに口角を釣り上げ、いつものように手書きのメモを名前に手渡す。
「専門書を幾つかね。今日はこれをお願いできるかな」
 名前は受け取ったメモを見ると、そこには数冊の薬学専門書のタイトルが記載されている。
「一冊だけ在庫を切らしているの。今晩届く手筈なのだけど―――よければ配送しましょうか? 他の本はすべて揃っているからすぐに用意できるわ」
「配達してくれると助かるよ。全部纏めてお願いしてもいいかな?」
「ええ、わかったわ」
 名前は彼をカウンターまで案内し、代金を貰う。カウンター裏にある引出しから紐でくくられた台帳を取り出し、空白のページを開いて万年筆タイプの羽根ペンと共に彼の前に置く。
「住所はこちらにお願いできるかしら」
「ああ」
 彼はさらりと流れるような文字を綴る。一通り書き終えるのを確認して、名前は台帳を受け取る。
「配達は梟便と直接配達があるのだけど、どちらがいいですか?」
「直接配達を頼む」
 名前は台帳に配達方法と本のタイトルを記入する。
「できれば君に来てもらいたいんだが―――」
「わかりました。準備が整い次第お伺いします。もしかしたら朝方になるかもしれません」
「君の都合がいい時ならいつでも歓迎だよ。真夜中だろうが朝だろうが―――明日は丁度暇だからね」
 彼は名前の瞳を見つめ、悪戯な笑みを浮かべる。その表情はどこか楽しんでいるように見える。暫くすると彼は踵を返し、店を去っていく。時計を確認するとやや閉店の時間を過ぎていた。
「まあまあまあまあ! ありゃあ、デートのお誘いだねえ」
 店の奥に居た店主がひょっこりと顔を出す。「面白いものを聞いた」と言わんばかりに、口に手を当て、目元は三日月の様に弧を描いている。名前は慌てて首を振り、否定する。
「そんな色のある話ではありませんよ。あくまで業務ですから・・・・・・」
「あんたあ、自分の顔を鏡で見てごらんよ。頬っぺたが林檎になって、まあ初々しいこと!」
 名前ははっとして頬を手で包み込む。
「もう、からかわないで下さい!」
 店主は売上を纏めて計上しはじめる。
「彼もあんたを気に入ってるんだから、あんた、遠慮しないでぶつかってみなさいな。あんないい男はそう居やしないよ」
 名前は口ごもりながらも店の入口の鍵を閉め、店頭の本を整理する。
「そういえば何て言うタイトルなんだい?」
 店主の問いに、先程受け取ったままのメモを手渡す。
「あんた、この本さっき荷受けしたよ。検品してすぐに届けておやりなさいな」
「本当ですか? でも、まだ仕事が―――」
「配達も立派な仕事だろうさ。届けた後はそのまま帰っていいから、うまくやるんだよ、いいね! 万が一戻ってきたらただじゃおかないよ!」
 店主は名前の背中を思い切り叩く。背中がじんと痛み、目に涙を溜める。
 うまくやるも何も、取り立てて仲がいいだとか、そう言った事は無い。彼は在学中から人をおだてる術に長けていたから、あれは社交辞令の一環だろう。そこまで考えて、心が締め付けられるような絵も言えぬ感覚に、手を強く握りしめる。
「はい・・・・・・お疲れ様でした」
 名前は数冊の本を手に、店の奥にある従業員専用通路に入り、倉庫へと足を運ぶ。そこには確かに来たばかりと見受けられる荷物があった。彼が求めている本を探し、一冊手に取って検品する。乱調が無い事を確認し、それらを一纏めにしてフローリシュ・アンド・ブロッツのロゴが印字されたバッグに詰める。
 連絡用通路を経由して店の外に出る。
 外は生温い空気が吹きすさんでいた。箒で行こうかとも思ったが、いち早く配達を終えてさっさと眠ろう―――名前は決心し姿現しする。狭苦しいゴム管を通るような感覚が全身を支配する。指定された場所は住宅街から離れた薄暗い通路の先だ。
 名前は常に携帯している杖を取り呪文を唱える。
「ルーモス」杖先が光り、暗い道を照らす。
 慎重に歩を進めていると、漸く一件の屋敷が目に入り、窓から洩れる灯りに安堵する。
「緊張するなあ」
 名前は不安げに眉を顰める。配達自体は就職してから何度か配達は経験していた。しかし今回は兼ねてから憧れていたトム・リドルの所へ行くとなると、どうも胸が苦しくなる。
 屋敷の目の前にくると、一度深呼吸してドアをノックする。この屋敷の周囲には全くと言っていいほど家が無い。声を張り上げても大丈夫だろう。
「夜分遅くにすみません。フローリシュ・アンド・ブロッツの名前・常世田と申します。配達にまいりました」
 返答が無い。もう寝てしまったのだろうか。確かに彼はいつでもいいと言ったが、流石に非常識だったか。
 暫く立ちつくしていると、突然玄関のドアが自ずと開く。「失礼します」恐る恐る足を踏み入れると、中は装飾が一切見られず、殺風景な印象を受けた。家の奥に続く廊下から忍ぶような足音が聞こえ、名前は身を固くする。
 突然、仄暗い廊下が明るくなり、そこには微笑むトム・リドルの姿があった。闇から溶けだしたような、得も言われぬ怪しさがあり、唾を飲み込む。
「名前ならすぐに来ると思っていたよ。さあ、こちらへ」
 彼は踵を返し、廊下の奥へと消えていく。名前は見失わぬように歩を早め、彼の後ろに着く。
「少し疲れたろう?」
 彼は声色は気遣うような優しいものだった。
「いえ―――」
「ゆっくり休んでいくと良い。本の確認にややかかるからね。それに先日の礼がまだだったね」
 彼はそう言って、一際大きく頑丈そうな鉄のドアの前に立つ。それは重厚な音を立てて自ずと開く。
 部屋はやたらと広く、革張りのソファーとローテーブルだけが設置されていた。装飾はここにも見られず、生活感を一切感じない。
「さあ、座って」
 名前は促されるままにソファーに座ると、彼もまた同じように腰を据える。
 彼は杖を用いてティーセットと菓子を用意していた。名前の前に芳しい紅茶が据えられる。
「また二人きりで会えて嬉しいよ。こうでもしないと、中々会えないからね」
 名前は頬が熱くなるのを感じ、握りしめたままの手がしっとりしていく。これが昼間だったら、顔が赤いのが丸わかりだっただろう。蝋燭の灯りがとても心強く感じる。
「ゆっくり話をしたい所だが、先に本を見せて貰えるかな?」
 名前は手にしたバッグから、一纏めにした本を手に取り、彼に差し出す。
「はい、こちらが注文の品です。お納め下さい」
 彼はにこりと微笑んで、ずしりと重い本を受け取り、纏めていたものを取り去ってローテーブルに広げる。
「全部揃っているね。流石だ」
 満足げに微笑む彼の瞳は好奇心に満ちていた。彼は手にした本を流し読みし、入念に品物を確認する。名前は視線が外れている間に、ティーカップへ角砂糖を入れ、芳しい紅茶を口に含む。緊張した心がほぐれていくのを感じ、ほっと一息つく。
 それにしても、大きな屋敷だと言うのに彼以外の人気を感じない。ホグワーツ在学中に聞いた噂で、彼はマグルの孤児院出身だと囁かれていた。だとしたら親と共に暮らしていると言う訳では無さそうだ。彼は一人でここに暮しているのだろうか。それとも誰かと共に暮らしているが、深夜だから寝ているだけなのだろうか。だとしたらそれは―――女性なのだろうか。
 思いを馳せながら視線を南側の窓に向け、浮ついた心を鎮めるように紅茶を口に運ぶ。
「名前は甘いものが得意かな?」
 彼は上目遣いで名前を見やる。
「ええ、割と好き。毎週末に自分へのご褒美にって、お菓子だとか、そういったものを買い込んじゃう位に」
「それは良かった」彼はローテーブルに置いていた杖を取り、宙に向かって振ると美味しそうなケーキが二つ載ったプレートが、名前の前に現れる。
 艶のある苺が飾られているショートケーキと、沢山のフルーツがぎっしりと詰まったタルト。フルーツとチョコレートのソースが添えられていて、パーティの席でしか見た事が無いような華美なケーキは、とても手の込んだ逸品だと判る。
 甘い香りが鼻を擽り、名前の視線は釘づけになる。
「名前の為に用意したんだ。口に合うと良いのだが」
「わあ・・・・・・ありがとう」
 名前は目を輝かせてケーキを見つめていると、彼が笑い声を洩らす。
 急に恥ずかしくなって、彼を見遣ると暖かい眼差しをこちらに向けていた。
「トムは食べないの?」
「僕は甘いものは苦手でね」
 自分一人で食べるには勿体ないように感じられた。名前はプレートの隣に添えられたフォークに手をつけず、彼を見つめる。
「食べないのかい? そういうのは苦手だったかな」
「ううん、私が食べるのが勿体ないくらい綺麗だから―――」
「それなら」
 彼は本を抱いたまま、考え込むように左斜め上に視線を泳がせ、名前を見つめてにやりと笑う。
「僕が食べさせてあげようか?」
「自分で・・・・・・食べる」
「残念だな」
 彼は目を細めてケーキと名前を交互に見遣り、本に視線を戻す。
 名前の心臓は張り裂けそうな程に脈打っていた。


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