01 本来なら会う筈のない二人
フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に、ある日、一人の青年が店に品物を求めに来た。先月から書店で働いている従業員の名前は、青年を一目見て目を丸くした。
青年は名前が通っていたホグワーツの先輩で、首席で卒業したトム・リドルだった。
在学中から端整だった顔立ちは、年を増すごとにより洗練されてより凛々しくなり、元から背の高かった身長も更に伸びていた。
誰よりも優しい彼は沢山の生徒や、教授の信頼を集めていた。社交的で誰にも負けないくらい勉学にも励む彼は、名前にとっても憧れの人だった。
カウンターにある台帳に視線を落とす。どうやら彼は随分とフローリシュ・アンド・ブロッツを贔屓にしているようだった。
名前が卒業したのはほんの数週間前。この仕事に従事してそう日が浅くないのだが、ホグワーツの外で彼を見かけるのは今日が初めてだ。
「今―――よろしいですか」
声はトム・リドルのものだった。彼は軽く会釈して、一枚のメモを名前に差し出して優しげな笑顔を浮かべた。
間近にいる彼は以前にも増して大人の色香を漂わせていて、名前は息を飲む。
「リストにあるものを揃えて頂きたいのですが―――」
名前はメモを受け取り内容を確認する。
数量は二十数冊、名前は頭の中で行動をシュミレートする。これならばすぐに用意できる範疇だ。
「畏まりました。すぐにご用意いたしますので、五分ほどお待ちください」
「これだけの量を五分で?」
彼は僅かに好奇心を含んだ視線をこちらに向ける。
「特別な管理法を取っておりますので」気を取り直して彼の疑問に答える。
「それなら、待たせて貰うよ」
彼は感心した様に頷き、店内を見て回る。
名前は受け取ったメモを頼りに、品物を一つに纏める。
彼の注文はケース単位のものが多く、裏手の倉庫番に指示を出す。名前は店頭にある細々とした商品をカゴに入れ、バラけないよう、丁寧に梱包する。
店には常に大量の発注があった場合の為に、探知不可能拡大呪文をかけたバッグがある。それを一つ取り、慎重に中身を満たしていく。全ての商品が揃ったのはメモを受け取ってから丁度五分後だった。
彼は程なくしてカウンターに近付き、会計を済ませる。
「本当に五分で終わるとはね。よくここに来るが、君のように手際がいい人は初めてだ。今度からは君に頼もうかな」
「痛み入ります」
名前は頬を丸くして微笑み、品物の入ったバッグを手にし、店の入り口まで案内する。通常は行わない事だが、お得意さんとなれば話は別だ。
彼にフローリシュ・アンド・ブロッツの文字が刻まれたバッグを渡し、後ろ姿を見送る。
随分と大人になった、憧れのあの人をしっかりと頭に焼き付ける。最後まで背筋がピンと伸びていて、以前よりも魅力的になっていた。
彼が次に来たときにはまともな会話を用意しよう―――名前は心に誓う。
ぼんやりと眺めていたら、次なるお客さんがカウンターに品物を載せ、苛立つように指を叩いていた。
「すぐにお伺いします!」
慌ただしくカウンターへと戻り、品物を袋に詰めて代金と交換する。
それからは思考に一枚のフィルターを介した様に感じられ、あまり仕事に集中できなかった。運よく早々に仕事を切り上げる事が出来たので、まだ明るいうちに帰宅する。
真っ先にバスタブに湯の準備をしてから、夕食の仕込みを行うのが日常だ。残っている食材と相談して、夕食はヨークシャー・プディングとローストビーフに決めた。
一通り食事の下ごしらえを終え、幾つかの材料をオーブンに突っ込む。全ての作業が一段落する頃にはバスタブが満杯になっていた。
名前はリビングにある安物の椅子に座り、テーブルに頬肘をつきながら、茫然とトム・リドルの事を思い出していた。
ホグワーツ魔法学校に在学中、噂好きの女達がかつての首席であるトム・リドルの就職先に関して討論していた。彼は教授職になるでもなく、魔法省に従事するでもなく、ノクターン横丁のボージン・アンド・バークスに務めた事は学校中を震撼させた。「実に遺賢だ」教授達は口々に驚きを表し、中でも特に彼を気に入っていたらしいスラグホーン教授は一際ショックを受けていた。卒業試験に熱を上げる七年生は名前も含めて大混乱となった。
先月までホグワーツに居たと言うのに、今ではすっかり過去の記憶だ。気が付いたら口元が緩んでいて、友人達が恋しくなった。
大切に仕舞い込んだアルバムや、何度も読み返した新聞や、教科書を引っ張り出し、読み返していたら興奮してきて、ふと外を見遣るとすっかり外が明るみ始めていた。
今日は朝一番の入荷が終わったら、梟便の配送業務をしなければならなかった。眠る事を諦めてスコーンを焼き、バスケットにクリームティーの準備をして、お店で朝食を取る事にした。
早めに出勤した名前は、いつもより早く清掃を済ませていつでも店を開けられるように準備していた。周囲はまだまだ薄暗い。この時刻は全くと言っていいほど人が居ない。居るとすれば、ノクターン横丁くらいだ。
適当に準備を終えて、コーヒーのカップを手にしたまま店の裏口に出る。行儀は悪いが、外で飲むコーヒーは格別に美味しい。誰も見ていないだろうから、さして問題ではないだろう。
名前は茫然と壁を眺める。左の方角から人の気配を感じるが、きっとここには来ないだろうと思ったが、気配はどんどん近付いてくる。
名前は首だけを左側に向けた先に、ローブを深く被った人がこちらに向かって歩く姿が見える。
ローブの隙間に赤葡萄のような瞳が垣間見えた一刹那、心臓が大きく跳ねるのを感じ、短く息を吸い込む。
ローブを目深に被った人物もこちらに気が付いたようで、にこりと笑いながらフードを払う。ローブの人物はトム・リドルだった。
「おはよう。昨日はありがとう。すぐに必要だったから助かったよ。隣いいかな?」
彼は人懐っこい笑みを浮かべる。
「こんな所では着衣が汚れて―――よかったら中に入りますか? 店主が来るにはまだ早いので」
「それならばお言葉に甘えて」
彼は名前の前で屈み、手を差し伸べる。
「外は寒いですね」
「ああ―――ようやく春らしくなってきたね」
気恥かしく思いながらも彼の手を取る。
店の裏口に入ってすぐの所に休憩室がある。二人が寛ぐには充分な広さだ。
「どうぞかけて下さい。飲み物ですが、ミルクティーとレモンティーのどちらがお好みでしょうか?」
「レモンティーをお願いしようかな」
名前は笑顔で会釈し、給湯室に向かう。杖を振ってポットを温め、茶葉とお湯をティーポットに入れる。レモンを手で絞り、あっと言う間にレモンティーが出来あがる。合間に自分用のコーヒーを入れるのも忘れない。本来は相手に合わせるべきなのだが、紅茶を飲んでしまったらきっと眠気で仕事にならないだろう。
ティーセットを休憩室に運び、彼に暖かい紅茶が入ったカップを差し出す。
彼はカップに角砂糖を二個入れて、ティースプーンで撹拌する。
「まさかダイアゴン横丁で同じ学校の卒業生に会えるとは思わなかったよ」
「どうしてそれを・・・・・・?」
「大事な後輩だからね。名前も覚えているよ、名前・常世田―――学年は僕の一つ下だね。君みたいな可愛らしい子を忘れるなんて僕にはできないな」
彼は在学中にも、歯が浮くような台詞を口にしていた。彼がなぜ人気だったのかを思い出し、名前は口元に笑みを浮かべる。
「先輩が覚えて下さっていたなんて、光栄です。友達もみんな先輩に夢中だったから、先輩の事は今でもはっきりと覚えています」
「へえ、知らなかった。僕より魅力的な人は沢山いたと思うのだが」
「それだけ先輩は好かれていたんです。私も実の所、先輩に憧れていましたから」
「君みたいな可愛らしい女性にそう言って貰えるとは嬉しいな」
「先輩、その、からかわないで下さい」
「やはり君は可愛いらしい。お互いOBなのだから、気兼ねなくファーストネームで呼んでくれないかな。先輩と言われると、僅かばかり気恥かしくてね」
「でも」彼はあくまでお得意さんだ。気軽に呼べるはずが無い。
「だめかな?」
彼は切なげに眉を下げる。憂いを帯びた表情は反則だ。
「あ―――ええと、はい。なら私もファーストネームで―――その」
「よかった。名前の気を損ねてしまったかと冷や汗をかいたよ」
「そんな―――」
名前の声は、フロアクロックが立てる大きな音に遮られる。一定のリズムで七回の鐘が鳴る。
漸く静かになると、彼は「もうこんな時間か」と呟く。
「いけない、もうすぐ店主が来てしまう」
「僕はそろそろ失礼するよ」
彼が立ちあがると、名前も追うように椅子を離れ、裏口まで案内する。
「ごめんなさい。もうちょっとゆっくり出来たらよかったのだけれど」
名前は外につながるドアを開ける。
「君が謝る必要はないよ、僕が押し掛けたようなものだからね」
彼は名前の優しく見つめる。僅かに首を傾けて得意の微笑みを見せた。
「名前さえよければ、また二人きりでゆっくり話がしたいな」
彼から誘いを申し出るとは―――名前の心臓が一際大きく揺れる。
「いつでも歓迎します、是非」
彼は満足そうに頷き、一呼吸置いてから姿現しをした。
外は生温い陽気が漂っている。緩やかに流れる風は、蟠りを残す心が洗われるようだった。
程なくして店主が顔を覗かせ、名前の思考は仕事で埋め尽くされていった。