静かに流れる川が見える森の中で、左右の瞳が異なる青年が佇んでいた。
 その姿は哀愁を携え、消え入りそうな程に儚い雰囲気を纏っている。
 木々が根を張り、太くうねった幹は全てを見守るかのようで、一枚は小さな葉が陽光を一身に浴びていた。
 遮られた光は優しく地に届き、青年は目を細めて空を見上げる。
 ひたり、ひたりと歩み寄る足音に振りかえると挙動不審な少女が頼りない足取りで青年に近付いていた。
 青年は一歩、また一歩と後ずさる。
 陰に身を顰めて少女の動向をじっと見守る。

 少女は錆びたテラスにあるベンチに座り、読書を始めた。少年は息を殺しながらじりじりと距離を詰める。物音を立てぬように慎重な足取りで。
 少女は急に辺りを見回し、立ちあがる。


 全身が汗に濡れるのを感じて、薄く瞼を上げる。
 慣れた白い天井が出迎え、カーテンは開け放たれている。その先には椅子があって、本来居るはずの部屋主の姿が見えず、ほっと胸を撫で下ろす。
「どうして私が保健室で寝ているのか・・・・・・何かしたっけ」
「おや、起こしてしまいましたか」
 爽やかな透き通る声が、すぐ近くから聞こえる。左側に視線を遣ると、そこにはオッドアイの樺根がにっこりと微笑んでいる。
「気が済むまで寝ていて大丈夫だそうですよ。本日の部活は大事な用があるからとお休みと言っておりました」
 名前は霞んで見える樺根の微笑みをじっと見つめる。
「今何時かわかる?」
「五時半ですよ」
「そんなに寝てたの・・・・・・帰るか」
「今朝がた朝礼で倒れたばかりではないですか。あなたは大人しく寝ていてください」
 樺根の一言ではっとした。
―――そう、今朝は珍しく一限どころか朝礼に顔を出したのだ。体育館で校長の話を聞いている最中、視界が暗転したのを薄らと覚えている。
 恐らく貧血か何かだろうが、名前はそれ所ではない。
「予定があるんだ。遅れる訳にはいかないから・・・・・・」
 樺根は大きくため息を吐いた。
「くれぐれも無理してはなりませんよ」
 名前は勢いよく飛び起きるが、目眩でふらつき壁に寄り掛かるようにベッドから這い出る。
 樺根は心配そうに名前の背中に寄り添うが、負けん気だけは人一倍強い名前は、大丈夫と言って振り切る。


 帰路についた名前は、黒耀ランドの前で立ち止まっていた。
 帰るためにはどのみち通らなければならない場所。そこは以前渡されたメモにあった『月曜日の放課後』の待ち合わせ場所でもあった。
 行った所で何が起こるでもない、無視したって構わないのだが、京本が見せた転校生の住所を思いだし、足を踏み出した。
 鉄製の赤錆びた門は施錠されており、高さは三メートルはあるだろう。格子模様の門に手をかけ、変形した場所に足をかけて一気に柵を超える。
 着地した先にはだだっ広い荒野が広がっている。
土砂崩れで建物は全て埋まってしまい、かつてあった遊園地の影は微塵もない。
「まっていたよ、名前ちゃん・・・」
 現れたのは、いつぞや屋上まで名前を追ってきた気持ち悪い後輩。
「今日は名前ちゃんの大ファンが揃って待ってるんだ。付き合ってもらうからね・・・」
 相変わらず吐き気のする見た目。
 先日の怪我もまったく治っていない後輩の顔はハリウッドの特殊メイクさながらの酷い顔だ。
「迷惑なんですよ。そろそろ消えてくれませんか。」
「気が早いなあ先輩・・・奥で待ってますから・・・・・・」
 後輩は良い終えるや否や、存在そのものが視界から消え去った。

 風に吹かれてざわざわと木々が鳴く。耳の奥がピンと張ったような嫌な耳鳴りと頭痛がする。言われるままに奥に進むと、大勢の不良がわらわらと湧き出てくる。
「はあ・・・・・・来なきゃよかった」
 鉄パイプや釘バット、ナックルや鎖など、各が武器を携えているのだが、不自然にある一か所だけ真っ直ぐに道が出来ていた。
「待ってたよ名前ちゃん」
 いつぞや屋上にまで押し掛けた気持ち悪い先輩だった。
 名前はさも迷惑と言わんばかりに肩を竦める。
「お世辞でも会いたいとは言い難いな。帰っていいか?」
「いや、帰ったら君の全てを壊す。例えば後輩の茉莉ちゃんを―――」
 名前は相手が言い終える前に、彼の下腹部を蹴り上げる。
「何か言ったか?」
 彼はにやりと口角を歪め、名前をじいっと見つめる。
 いつ見ても気持ちが悪い視線だ。
「テメェ! 剛さんに手ぇ出しやがって!」
「剛って誰だよ・・・・・・」
 名前は微動だにせず、大勢の不良を見据えている。自身めがけて釘バットが振り下ろされようとしている。
「大勢に無勢かあ。いいね、来たらいいよ」
 足で釘バットを蹴り上げる。それはクルクルと空中を回り、名前が手に収めると勢いに任せて振った。
 辺りに鮮血が飛散し、不良達が動揺を露わにしている。
「こんなん聞いてねーよ!」
「たかだか女一匹に手こずってたら後で舐められるぜ」
 自信たっぷりに言い切る男が、重圧な鎖が鞭のように名前に向けられる。
 名前は鎖をいなし、僅かに軌道を逸らす。鎖の持主は反動を吸収しきれず、自らの鎖が絡み、あっという間に地面とキスをした。


 その様子をじっと見つめる影が三つあった。
 黒曜ランドを拠点とする六道骸、千種、犬―――三人は息を顰めて動向を探るように、食い入る眼差しを向ける。
 名前の動きは喧嘩というよりは戦い慣れた印象を受けていた。
「プロには及ばない。しかしながら、彼女の洞察力は中々ですね。やや課題が残りますが、概ね良好でしょう」
「骸さん、あの人を引き入れるんですか」
「彼女は黒曜を制するには必要不可欠、取入るのは早い方がいい」
 いつの間にやら隣にいた犬が、ペキペキと指を鳴らす。
「食い散らしてーびょん」
「クフ、絶好のチャンスかもしれません。理由は充分です。千種」
「・・・・・・めんどい」
「骸さん、おっさきー」
 待ちきれないとばかりに、犬が窓から飛び降りていく。
「抜け駆けはいけませんよ。千種、僕等も出遅れてはアピールチャンスを逃してしまいます。行きますよ」

 地面に着地すると名前と目が合う。
「おはよう六道君」
 名前は眩しい笑顔で骸に笑いかける。手には血がこびり付いた木の棒が握られていた。
「クフフ、爽やかな朝ですね。お日柄もよく」
 骸は穏やかな笑みを返し、愛用の三又の鉾を不良の足に突き刺す。
「このままで終わると思うな・・・・・・」
「男女!骸さん!避けろびょん!」
 鼓膜が破れるのではないかと思うほど大きい犬の叫びが耳を刺激する。左後ろから僅かに金属音がこすれる音に気付き、骸はそっと呟く。
「至近距離です。ちょっと我慢してくださいね」
 骸は地面を蹴り、名前の肩を抱いて地面に伏せる。乾いた破裂音に似た騒音が木霊する。
「間一髪。流石だね」
 ニヤリと怪しい笑みで骸の胸板をコツンと叩く名前に、苦笑いした。

 不良はものの数分で片づいた。
 空を見上げると、千種がボケッと遠くを眺めていた。
「柿ピー感じ悪っ!」
「六道君もありがとう。さっきは命拾いしたよ。」
 名前は余計な力が抜けたのか、ぺたりと床に尻をつき大儀を遂げたようなイイ顔をしていた。
「クフ、いいのですよ。これくらいは」
 骸は手をさしのべ、名前は迷うことなく手を添えたと同時に風が止んだ。

―――景色が一瞬で草原に変貌する。
 再び風が流れると、先ほどと変わらぬ学校の、不良の山が積まれた景色に戻る。
 お互いに目を見開き、辺りを見渡す―――

 懐かしく、心地いい香りが鼻を擽る。
「不思議な感覚です」
 探し求めていたものが手に入ったかのように、心が満たされていく。
 名前は強い衝撃を感じる。何かが背中に当たっている。視線を下ろすと自身に深々とナイフが刺さっていた。
 骸は目を細めて薄い笑みを溢す。これまでに見たことのない表情は、どこか冷徹さを含んでいる。
 名前は遅れてやってくる痛みに眉を顰め、ナイフをそのままにその場に崩れる。
「たかが学生の動きを見落とすなんて初めてです」
「もう少し楽しむつもりでしたが止めましょう。犬と千種はその女性をこの場から外して下さい」
「む、骸さん! どうしてだびょん!」
 犬の只ならぬ声に、名前は地面に伏せた顔を上げる。
「その女性には少々縁があるのです。くれぐれも手荒に扱ってはなりません」
「犬。骸さんの言う通りにしよう」
 周囲には先程まで延びていた不良たちがひと塊りになり、名前と骸たちに視線を送っていた。


「骸・・・・・・? 確か骸って言えば、六道骸って人が生徒に居たはずだけど」
 青髪の彼を見つめる。
「樺根は偽名か?」
 狭い面積に犇めき合う様はまさにホラー。軽くトラウマになりそうなレベルだ。
「ここでは視線が痛いですね」
「おかえり骸様―――もう良いでしょう、言っても」
「ぎゃん!」
「後で覚えてなさい」
 名前を持ち上げ、そっと椅子に座らせる。
 胸ポケットからハンカチを取り出して体に付着した血糊を丁寧に拭っているが、茫然としている。
 犬が名前の顔の前で手をひらひらさせるが、反応は皆無。
「お前男みてーらな。オトコオンナ、いつまで固まってるんらよ」
 次に何をするかと思えば、名前の背後にまわり、怪しげに手をわしゃわしゃさせている。
 骸と千種は犬の思惑に気付いたようだ。
「それはさすがに止めた方がいいかと・・・・・・」
 骸の制止も虚しく、犬は怪しげに蠢く手で名前の胸を鷲掴みにした。
「以外に柔らかいびょん」
「・・・おい、イヌ」
「Fカップらね」
 犬以外からは名前の目つきが徐々に鋭くなっていく様子が見て取れたため、心の中で突っ込んだ。
 ふよふよと不思議な感触を掌で堪能していると、名前が目にとまらぬ速さで犬に肘を入れた。
「いっでえええええええ!」
 後ろに倒れ込んだ先には土砂崩れで空いた穴があり、犬は頭から落ちていった。
 一人が視界から消えた後、名前は再びハンカチで手を拭いていると鈍い痛みが走り、苦痛に眉を顰める。
「ありがとう樺音・・・・・・じゃないね、六道骸」
 千種に向けられた疑問に、彼は瞬きで答える。数秒ののちに言葉の意を解し、自身の名を述べる。
 先程まで固まっていた不良のうち何人かはその場に残り、勝者をひたすら見つめていた。
 不良たちは緊迫のあまり固まっていたのだが、一人が口を割って入る。
「あの―――俺、貴方達についていきます」
 突如として告げられた告白に、名前と骸は顔を見合わせる。
「剛さんは、あんな低落でしたけど・・・・・・心底惚れました!」
 骸は困惑した素振りだった。
「どうする?」
「骸様のお好きなように」
 長年付き添った二人にしか分からない程に微弱な微笑みを、骸は浮かべた。

 刹那、名前の体がかくんと地面に崩れ落ちる。
 じわじわと広がっていく真紅の体液。
 この感覚は初めて経験するものではないような、えもいえぬ錯覚を覚える。
 記憶の奥底で誰かの声が反響する。
 懐かしいような、それでいて最近聞いたような。
 名前は手放しかけた意識の中で、じっと床に蹲っていた。いつの間にか静まり返った黒曜ランドには、六道骸の気配しか感じない。
 ぞわぞわと寒気がする。

 強がってこそ居たが、背中に受けた痛みは依然消えていない。
 どうやら彼は手助けする気はないらしい。
「やっと二人きりになりましたね」
 これまでの優しげな雰囲気はどこへやら、凶器を孕んだ声に、肌が栗立つ。
 名前は痛みに震える体を死に物狂いで奮い立たせ、咄嗟に走り出す。

「やはり名前、あなたは察しがいい。さて・・・・・・仕上げと行きましょう」


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