しんと静まり返った夜の町並みに騒々しい足音が響く。
 照明の届かぬ高層ビルの合間、人間が通るために作られてはいないであろう路地は、人一人が通るのがやっと。
 自由の利かない路地に二つの人影が駆け抜ける。背後から人の気配が迫っているのに、足音が無い。
 体力の限界を感じながら、必死に撒こうとするのだが、気配は一向に離れてくれない。
 繊維は所々解れ、滲む生ぬるい血が気持ち悪い。
 街灯の薄暗い照明が壁を照らす。
 名前は足で壁を受け止めて壁に身を委ねた。行きついた先は行き止まりだった。桜色に彩られた唇がぜいぜいと大きく呼吸をする度に、体中のどこよりも胸が激しく痛む。
 汗を含んだ肌に髪がべったりと張り付いている。背後から迫っていた気配は徐々に距離を縮めていた。
「ゲームオーバーです」
 しっとりした声が響き渡る。
 迫り来る気配は存在を誇示するかの如く、砂利の混じった地面を強く踏みしめる。
 街頭の灯りで足音の主が露わになる。中性的で淡麗な顔立ちだが、どこか狂気を感じさせる―――六道骸だ。

 壁に背を凭れる者は拳をきつく握りしめ、訝しげに眉を顰めた。
 ぴんと張り詰めた空気を裂くように、口角を釣り上げ、掠れた喉を震わせた。
「それで追い詰めたつもりなの。」
「おや。まだ気力があるとは想定外でした」
 骸が嘲笑を漏らすと、再び静寂が辺りを包む。
 動けずにいる間にも、一歩、また一歩と、距離を縮めている。逃げ場など皆無というくらい、理解していた。
 諦めたように口を堅く閉ざす。
「貴方が素直に従えば、すぐ終わるのです」
 風切り音が耳に入った刹那、枯れた喉が、ひゅう、と唸る。
 残った全ての力を絞り出して両手を宙に掲げた先に、割かれた雲間から月明かりが仄かに骸を照らしていた。
 夥しい血液が壁に飛散する。それは名前の腰元から出たものだ。
 出血のショックか、視界が宵闇よりも黒く染まっていく。


猿夢


 重い瞼をゆっくりと上げる。
 最初に見えたのは灰色のコンクリート作りの天井。

 寒さのあまりに体を抱きしめようとするが、腕が動かず、手首に骨が軋むような痛みが走る。両手を縛られている。
 腕を扼する枷に苛立ちが募る。身じろぎ一つも許されない状況に焦燥感が募っていく。
 一滴の汗が首筋を伝う。
 目の前の光景はこれまで見たこともない部屋。鉄製の錆びた机、椅子から飛び出た黄色の綿、欠けた天井から僅かにこぼれる月明かりに眩暈が起こる。
 首だけを動かしてぐるりと前後左右を確認するが、どこにも扉は見当たらない。
 言葉を紡ごうと開いた唇からは乾いた吐息だけが漏れていく。

 前触れもなく自身の肩にひやりと冷たいものが触れ、全身が跳ね上がる。
 冷たいものは髪を梳かし、頬を撫で、唇の線をなぞる。ゆっくりと纏わりつく感触は喉を優しく擦り、嫌な感覚に、動くたびに体が揺れてしまう。
 冷たい感触は背中全体と、両腕を包み込む。肩に、さらりと細い髪が触れる。
 耳元からは苦しそうな吐息、肩には不規則に落ちる雫の音。
 怪我が深すぎて体に力が入らない。思考さえもうまく働いてくれない。
「再現してみたのですが・・・そろそろ思いだして頂けましたか?」
 目を伏せて視界から全てを消した。
 声が出ない代わりに首を大きく振る。
「全く強情な人だ。貴方が僕を思い出してくれる日をずっと待っていたんです。なのに、貴方は一向に思いだしてくれない」
 認めない。何度でも否定してやる。
「否定する理由が何処にあるのでしょう? 輪廻の果てに、ようやく貴方に会えたというのに」
 骸の声が脳に直接響き、じんわりと体の感覚が麻痺していくのを感じる。
 何も思わないように、現実から目を背けるように、景色は暗転した。


 追われていた私は死の恐怖から逃げ回っていた。
 全身に刻まれた小さく深い傷から生ぬるい血が滲み、拭う暇の無い状況が薄手のワンピースに沁みを作っていく。
 背後に迫る追手から逃れるべく、必死に走った。
 気がつけば1本道の路地を走っていて、既に選ぶ暇もなく道なりに進むしかなかった。
 追手の気配が遠くなっているのを感じて安堵したの。それもつかの間、進む先が行き止まりになっている事に気付く。
 逃げる場所が無い。
 追手との距離がどんどん縮まっていき、やがて触れられるほどの至近距離になり、胸に衝撃が走る。
「お前が素直に従えばすぐ終わったのにな」
 飛び散った血が自分のものである事に気がつくと、全てが絶望と恐怖に染まる。
「貴方に従うよりは幾分かマシだもの」
「この女!」
 言い終える前に、追手は胸を貫かれて地面に雪崩れ落ちた。血だまりが広がり、その後ろには待ち焦がれていたあの人が立っていた。
 視界がぼやけていくが、気力を振り絞って上体を起こすと、あの人は瞳に涙を潤ませながら、私の肩を抱きしめた。

 ふわりと揺れる蒼白のワンピース。
 風で靡くたびに、嬉しそうに笑う姿を見て自然と頬が緩んでいく。暖かい風が流れていた。
「お願いがあるの」
 どちらともなく手を差し出し、互いの手を固く結ぶ。
 胸からお腹にかけて線状に抉れる傷跡からとめどなく溢れる赤い雫で、蒼白のワンピースが染まっていく。
 結ばれた手から柔らかな感触が灰の様に崩れていくように見えた。
 虚無感が同時に胸を締め付ける。
「僕の命が尽きたとしても、再び貴方を探し出してみせます。だから―――」
 無骨な肩を強く抱きしめる。
「貴方も、僕を忘れないで下さい」

 最後に見えたのは声も、目も、体格、髪型さえも六道骸と酷似していた。
 あの時は確かに私は、胸の傷で息が途絶えた。
―――そして約束したのだ。

「せめて僕を忘れないで下さい。でないと、やりきれないでしょう?」
 目の奥から熱いものがこみ上げてくる。喉の奥が震える。
 それを静かに見ている骸が自嘲ともとれる悲しげな微笑みを見せた。
 傷の所為なのかはたまた感情が高ぶっているのか、全身に響くように切ない痛みが走る。
「例え今思い出した所で同じ筋道は辿れない。今は今だ」
「確かにあなたは前より強くなりました。外見も変わってまるで別人ですが・・・・・・僕は執着心が強いみたいですね」
 骸は名前の唇に自身を重ねた。暖かくて酷く懐かしい感触がして、また切ない痛みがした。
「六道」
「今だけ骸と呼んでいただけますか?」
「骸」
「はい、何でしょう」
「お前は今も追われているのか?」
 骸は切なげに瞼を伏せる。
「僕には野望がありますから」
 骸は切なげに目を閉じる。それはとても悲痛なものに見える。
「もう終わりにしましょう。貴方を傷つけるのはもう沢山ですから。クフフ、勝手すぎますよね」
「終わりどころか、始まったばかりじゃないか」
「それはどういう……?」
「私はやっと記憶が戻った。骸はずっと待っててくれてたんでしょ。なら話は早い。手っ取り早く……そうだね、仲間に入れてよ」
「僕と共に居るだけで貴女をまた喧騒に巻き込んでしまうんです。以前よりもずっと質の悪い悪夢を見ますよ」
「それでいい。だって約束したじゃん」
「貴女という人は……もう離しません。離したくない。失いたくないんです」
 骸は名前を出来る限り優しく抱きしめる。壊れ物を扱うように、そっと。
 名前は骸の言葉も体も、全てを受け入れるかのように腕を腰に回す。
 この時が永遠に続く事を祈って。

自重しないあとがき

三年越しにようやく完結しました。
設定を全て生かしきる余力が無かったのが残念でなりませんが、終盤の構想はずっと前から考えていたので一段落です。
気が向いたら小話やらを書くかもしれませんが、既に原作も終了して復活成分が足りなくて悶々します。