名前は教科書をはらりと捲り、シャープペンを走らせる。書き終えたかと思うと、再び教科書を捲る。
隣に位置する樺根は、黒板に書き記されていく文字をノートに写していく事に飽き、机に肘をついて思考に耽る。カリカリと聞こえるシャープペンの音。
黒板の右端のやや下に書かれた"打倒受験!!なもんクソ食らえ"の文字に目を細める。
黒耀中学校にしては心地悪い緊張感に包まれる教室は普段の姿からは有り得ない程に大人しい。というのも受験を視野に入れた勉強に必死だった。3年6組は比較的頭がましな生徒が集まっているようだった。
大半のクラスでは勉強も何もせず、日々を消化していく。授業を迷わずサボる、若しくはボイコットをしているようで、静かな教室とは打って変わって廊下は騒がしい。
骸の居る教室は半分も席が埋まっていないが、残っているのは結果を出すために努力を怠らない賢明な者達だ。
隣にいる名前に目を向ける。
彼女は先ほどから顔を上げていなかったように思う。首を傾げていると、教科書をパラパラと指で凪がすと左側いっぱいに描かれた何かが動いているように見えた。
「できた。」
満足そうに頷くと、樺根の視線に気が付き首を傾げる。
「何をしているのですか?」
声を潜めて、疑問を投げかける。
名前は口をきゅっと縛り、ノートにシャープペンを走らせて書いた文字を樺根に見せる。
"2頁目から最終頁までパラパラしてみて。"
樺根は教科書を受け取り、指定された頁を開くと左側にロボットの絵が描いてある。
パラパラと指で凪がすと描かれたロボットの絵は、背中のネジが外れかかっている。それは突如走り出し、石に躓いた反動で空中分解してしまった。そこで絵は途切れ、教科書が閉じた。
樺根はクフクフと特徴的に笑い、名前に教科書を返す。
名前は親指をぐっと立てて受け取る。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
「よし、今日はここまで。各自宿題を忘れないように」
いそいそと帰り支度を始める教師を尻目に、生徒たちは生返事で背伸びをしたり、欠伸をしたりと開放感を楽しんでいた。今日はこれで全ての授業が終了だ。
名前はふう、とため息を小さくもらし、ペンケースに入っていたメモを見た。『月曜の放課後、黒耀ランドで待っています』とだけ書かれている。
今日は金曜日だからまだ日があるけれども、呼び出しには良い思い出が無い。
入学して間もないころ、ラブレターを目にして行ってみれば男子生徒の告白を受けた。相手は先輩。それを断ってから悲惨な学校生活だった。
先輩が暴力に訴えてきたのだ。先輩は当時学校を束ねている人で、最初はしつこく付きまとう程度だったのが徐々にエスカレートしていき、人数に物を言わせて襲いかかって来るようになり、彼が卒業するまで続いた。しかし悪夢は終わらない。
先輩を打破し続けてきたのを見ていた奴等が名前に好奇の眼差しを向けるようになり、気がつけば黒耀の女一の強さの烙印を押されていた。
今では腕を見込んだとかで、熱心にアピールしてくる人もいるが良い迷惑だ。平和に過ごしたい。
「あ、噂の転校生君じゃない!?」
「こわー!!まんま獣じゃん!きもっ。誰かあいつ殺してよー」
廊下で屯していた女子生徒のけばけばしい声に、耳がピクリと動く。
白昼堂々と女性が物騒な言葉を言ってはいかん。
「お前らうるへー!」
けたたましい叫び声とともに、扉が勢いよく開き、飛び出した人物は犬だった。
女子たちの悲鳴が教室中に響いたと同時に、クラスメイト全員が逃げるために立ちあがった。
女子軍団に向かい猫のように威嚇すると、より悲鳴が増えていく。
犬は不機嫌そうに、廊下に散らばった紙クズを蹴散らす。
「それよかおめーら。名前ってオトコ女はこのクラス?」
女性たちの視線が一斉に名前に向かう。
「え。名前?」
「大丈夫よ名前なら・・・」
「何だ、あいつ絡みかよ」
不安の入り混じった眼差しが名前に向けられる。
それもそのはず、変人の指名が多い名前に対してクラスメイトは嫌なほど一線をおいている。
持て余した元気を他に使ってほしいものだ。
「あの男子のご指名っぽいけど・・・」
教室の一番後ろにある窓際の席で座ったまま振り向くと、屋上で絡まれた時に助けてくれた犬の姿があった。
手を振ると犬はこちらに大股で向かってきた。
クラスメイトは犬を避けるように道を作る。
「どうしたの犬。」
「返しに来た。・・・不味くはなかったぞ」
犬の手にはいつぞや血塗れになったはずの弁当箱。
あの後、いらないからそのまま捨てようとしたら、犬が持って行ったんだ。
捨てても良かったのに、と驚愕で目を見開いていると、手元には血糊一滴すらない弁当箱が差し出される。以前より傷が減っていた。
周囲からは名前が後輩に弁当を作ったのか、とか、彼氏か、などと小声で話しているのが聞こえる。
「うわあ、前よりピカピカになってる。ありがとう。」
赤面して口ごもる犬の腕をぽん、と軽く叩く。
昨日借りたハンカチの事を思い出して、制服の胸ポケットから小さな包みを取りだし、犬に差し出す。
「昨日の、血沁みが取れなくてね。これはお礼ってことで。」
どんどん沸騰していく犬の顔色を見ながら、名前と樺根は声を殺して笑っていた。
きっと慣れない事なのだろう。
「な、ななななななななななななあっ?!」
「クフフ、犬。好意は素直に受け取るものですよ」
「む、樺根さん・・・?!一体いつから・・・」
「僕は始めからここにいましたよ」
名前に悪戯な笑みを見せると、声を出して笑った。
「気、動転し過ぎ。」
「こんなもんいらねーびょん!別にお礼欲しさに・・・とにかく違うんら!」
名前は犬の手の平に包みをねじ込む。ただでさえ慌てふためいている犬はより一層顔を赤くして、手の内にある物を突き返す。
「髪の色にあわせてみたんだ。」
「な、ななな!」
「貰い手がいないなら、これ捨てるしかないね。」
ふい、と視線を逸らす名前を見て、犬は包みを剥ぎ取り開ける。中から出てきた黄色のハンドタオルを、感触を確かめるように握りしめた。
「そんなに言うんらったら使ってやってもいいぴょん」
名前の表情が、ぱあっと明るくなると、樺根はホッと溜息を吐く様子を不思議に思いながら、お互い声を出して笑った。
犬は羞恥に体を背けるが、丸出しの耳まで赤く染まっている。
野次が増えていく一方。
教室の入り口からゴン!と痛々しい音が聞こえる。
「これ、邪魔・・・・・・クソッ。失礼します」
やけに落ち着いた声に教室の入り口へ視線を向けると、帽子を被った眼鏡男児が立っていた。
黒耀の制服を着ているが、見た目からは中学生だなんて全く思えない。
「柿ピーだっせえ」
呼ばれた眼鏡の男は小さくため息を吐きながら犬にアイコンタクトを送る。
犬は頭をぼりぼりと掻き毟りながら千種と共に教室から去って行った。
「誰あのイケメン。」
独り言のように名前がぽつりと漏らすと、樺根は首を傾げた。
「ああ、千種ですよ。彼の様な殿方がお好みなのですか?」
樺根の問いに口ごもりながら、そうでもない、とだけ言い机に突っ伏した。