「おはようございます、樺根様」
「おや、千種。犬はまだなのですか?」
千種と呼ばれた男は黒縁眼鏡を指でなおし、呆れたように床に視線を移す。
虚ろな目の下にはバーコードの刺青。苔色の学生服は樺根が来ているものと同じものだ。
「獣と遊んでいます」
「困りましたね。もう行かなければならない時間だ。僕は先に行きますから、千種は犬を拾ってください」
「めんどい」
千種は至極嫌そうな面持ちで、フラフラと部屋を出る。
後ろ姿を見守る樺根も続いて外に向かう。
土砂崩れで道らしい道が無い地面には、粉々のガラスや鉄骨が顔を覗かせている。
軽い足取りで危険物を避けながら学校へと歩を進めていく。二、三メートルほどの門を難なく飛び越えると、数メートル先に千鳥足の女性が視界に入る。
樺根と同じ苔色の学生服を身に纏う女性は、亀のようにゆっくり、ゆっくりと歩を進めていく。
「ぬあっ!」と、野太い悲鳴を上げながら電柱にぶつかり、頭を抱えて項垂れた。
大丈夫かと樺根が女性のもとに駆け付け、恐る恐る女性の肩を揺らす。
「もうやだ―――寝る」
女性はそれだけ告げて、力尽きた。
樺根は女性が地面に叩きつけられる寸前で抱き止めると、漸く女性の顔が露わになり、樺根は目を見開く。
「名前さん?」
―――彼女は確か、昨日保健室で会ったばかりの名前という女だ。
まさか二度目の顔合わせが路上で、しかも寝落ちによって終了とは予想外にも程がある。朝が苦手とは言っていたが、これは苦手と言うレベルでは無い。
どうするか、と思案を巡らせていたら千種と犬が此方に走り寄ってきた。
「何して―――げ、その女どうしたんれすか」
犬が名前を見て眉間に皺を寄せる。
「落ちていました」
「その辺に放置しとけばいいんらないですか?」
「いえ・・・少々気がかりな事が」
黒曜ランド周辺はかつての土砂崩れの名残で地盤が緩く、立ち入り禁止区域が多い。普段ならその辺に放り投げているが、昨日も、今日も僅かに感じる感じた違和感が気がかりだった。
樺根が名前を抱き上げると犬と千種は顔を見合わせ、暫しの沈黙ののちに歩き出した。
厄介な物が落ちていたなと思う反面、懐かしい感触に心が安らぐ。ずっと昔にも触れた事があるような奇妙な感覚に戸惑う。
初めて握手した時もそうだった。
学校に近付くにつれて徐々に人気が増えてくる。
髪の色はカラフルで、制服は人により若干デザインが異なっているが、紛うことなく黒耀中学校の生徒だ。
数多のアクセサリーをひけらかす様に身に付けている男が樺根にぶつかる。明らかにわざとなのだが、数人の厳つい男に囲まれる。
「こいつらうぜーぴょん」
やや離れて状況を見守っている犬が男どもに向かってメンチを切っている。対する厳つい男達も負けじと犬に詰め寄ってく。
「噂の転校生君じゃん。女連れちゃってさあ、調子のって―――ん?」
樺根の腕の中にいた名前が、顔をゴシゴシ擦りながら目を開けた途端、文字通り空気が凍りつく。
「君たち私の安眠を妨げたね」
名前は顔だけを厳つい男どもに向けると、不機嫌そうに睨みつける。
男どもは途端に体色が蒼白に変貌し、ぴんと伸ばした背筋は行儀よく腰を45度に折り曲げる。
「名前さん!お、おはようございます!」
男が律儀に挨拶すると、彼女は満足そうに頷き、目を細めた。
その姿を見るや、男どもは蜘蛛の子を散らすように消え、樺根は怪訝に眉を顰める。
「ありがとう。もう、目が覚めひゃから大丈夫。どうして樺根君がここまで連れて来てくれたのか―――今度ゆっくり話したいな」
「呂律が回らないようですが?」
「朝はサボるからいい」
名前は重い瞼を薄らと開け、口をきゅっと結ぶ。
静かに地面へ下ろすと明後日の方向に歩きだした。並のようにひいては寄せ、ひいては寄せを繰り返す彼女は、野太い悲鳴を上げ、本日二度目の電柱との出会いを果たす。
樺根はクスクスと笑いが零れる。
―――彼女を見ていると不思議と心が和む。
「知り合いですか」
「ええ」
千種が名前に焦点を合わせ、爪先から頭部を見る。
「平和ですね」
「じき、ここは地獄に変わりますから、これ位はいいでしょう?」
千種は僅かにずれた眼鏡をかけ直した。
教室の扉を開けると、樺根はクラスメート全員の視線を一斉に浴びる。
女子生徒が群がって取り囲み、黄色い声援と共に樺根はあっという間に女子の荒波にのみ込まれる。
何をするかと思えば、転校生たちに絡まれて大丈夫なのかという質問ばかり。
答えるでもなく、困ったように笑う。
「おや、朝からこれでは先が思いやられますね」
樺根はどこか儚げな笑みを女子たちに向けると、女子たちは何事もなかったかのようにクラスメートとの話に戻って行った。
教室の一番奥、窓のすぐ隣にある席に、静かに腰を下ろす。
何気なく開いていた窓に目を向けると、暫くして男子生徒の会話が聞こえてくる。声がする方向を視線で追えば、黒板から近い窓へ身を乗り出す男子生徒が数名。
「あれ名前じゃん。こんな朝から珍しいなー。いつもならあと2、3時間は遅れてくるのに」
「どこどこどこ? 居たー、ついでに男発見! 今日は誰だ?」
樺根の眉がピクリと反応する。
声を殺して笑っている数名の男子生徒につられて樺根は窓から首を出す。
「あれは―――」
ぽつりと呟くと、同時に発した男子生徒の言葉と重なり、男子生徒が悪戯に笑った。
「男女二人きりで人気が少ない所で密談って言ったら決まってんだろ?」
「結果見え見えなのに、ご愁傷さまだなー」
「面白いもんが見れるぜ」
その一言に、再び窓の下に視線を戻す。
名前は眠気が残っているのか、足元はまだ覚束ない。腕で目をごしごし擦っている。
向かいに位置する男は、黒に金メッシュの髪を逆立て、頭が可愛そうな出で立ち。
傍目にもネットリとしつこそうな、嫌な感じの男だ。
「そろそろ返事を下さいよーせんぱーい。我慢の限界なんですって」
「眠いから後にして」
「いやーん名前せんぱいつれなーい。でも可愛いね」
見ている方がげんなりする変態ぶりに、樺根は溜息を吐いて窓に寄り掛かる。
「その態度は関心しない―――邪魔」
「行かせねえよ」
名前はふらつきながら、肩の手を掃うと、男が一瞬名前を睨みつけて覆い被さる。
樺根の近くに、オカルト研究部員の友達が目を擦りながら席に着いた。
人の良さそうな笑顔で挨拶をすると、ちらりと視線を向けて直ぐに逸らされた。友達はさも当たり前のように鞄から携帯ゲーム機を取り出して遊び始める。
裏庭で起こっている厄介事にクラス中が興味をひかれる中で、場違いなほど愉快な音楽が流れる。
樺根は僅かに苛立ち始め、低い声で友達に問う。
「茶飯事なのですか、あれは」
友達は視線をゲームに向けたまま、至極面倒くさそうに首を傾けた。
一挙一動が樺根の眉間に皺を増やす。
「わりと。でも問題ないぜ、名前は剛腕だからな」
「あの細腕で?」
「そのうちわかる」
生徒達が一斉に湧き立つ。
「おう、やってるやってる」
「今日の名前は弱ってんぞー!いけんじゃね?」
「あんなんに落ちるわけねえじゃん。物凄く嫌がってるし」
「俺泣いちゃうかもー」
「げっお前まさか!」
男子生徒がわらわらと窓に集まる。
「やれやれ・・・煩くなってきましたね」
「お前ら何やってんだ?席に着け、朝礼始めるぞー」
何時から居たのか、教師の掛け声に教科書やカッターナイフなどありとあらゆるものが投げつけられる。
思春期真っただ中とはいえ、最早教師など必要ないのではないかと目を疑う光景だ。
樺根は一瞬、背筋に寒気に似た何かを感じた。
外から固いものがぶつかる様な轟音が響き、ほぼ同時に男性の短い悲鳴が聞こえる。
樺根は窓の下に視線だけを向けたが、先ほどまでいた名前の姿は無く、伸びた男だけが残されていた。
「な、言っただろ」
友達は惨状の跡を見もせずに、にやりと笑う。
―――この学校は異常だ。
学生たちの自由が許される時間、昼休みにさしかかり、屋上には早々にサボっていた転校生三名が真剣な眼差しで密談していた。
犬はフェンスに背を預けて唸っている。
樺根はコンビニ袋からストローのフィルムを丁寧に剥がし、牛乳パックに差し込む。
「なーんかあの女引っかかるぴょん」
「犬もそう思いますか」
「不良の態度が変っつーか妙にヘコヘコしてるのが気にくわねー。たかが女一匹じゃん」
「何らかの形で手綱を握っているのかと。樺根様」
「クフフ、彼女は要マークですね―――おや、誰か来ますね」
階段に続く扉の向こうから足音が響く。急ぐかのように駆け上っているようだ。
犬はポケットからガムを取り出し、クチャクチャと汚い音を立てて噛み始める。
屋上の扉が勢いよく開き、話題の女性が息を粗げいた。汗をだらだらと流し、顔色は蒼白。
後ろをやたら気にしているようで、何度も振り返っている。
「先輩っ! ぼっ僕はっ先輩に苛めてほしいんです!」
「近寄るな気色悪い!」
声はとても焦っていた。
壁が邪魔でよく見えないが、今まさにブレザーを脱がされている。
「よくわかんねーけど修羅場?」
「濡れ場だろ、犬」
千種が眼鏡を掛け直す。
樺根は愉快そうに口角を吊り上げる。
「怯えるせっ先輩も、い、いいかも!」
名前が屋上の扉の奥にいる人物に振り向く。脚を大きく開き、扉の奥に強く押し込んだ。間抜けな男の悲鳴と共に、階段から転げ落ちるけたたましい音が周囲に反響する。
速攻で屋上の扉を閉め、名前は扉を守るように背中をもたれた。
轟音が響き、騒ぎが終焉を迎えるかと思えば、再び階段を駆け上がる音。
「そうやって・・・まだ僕をじらすんですかっ」
ガタガタとドアノブが空回りする。
「毎度毎度、しつこいな。君は。」
名前は全身を使って踏ん張るが男女の力の差は大きい。
じわり、じわりと扉が開く。
名前は守るのを諦め、支えを失った扉の向こうから男が飛び出す。変態発言の主は、真面目を絵に描いたような風貌。
髪はきっちり六対四に分けられ、茶縁の眼鏡をかけているが、よく目を凝らすとフレームはグニャリと曲がっている。おまけに頭から流血している。
厭らしい笑みを浮かべながら両腕を広げている姿はまさに変態。
犬と千種は緊迫した空気に息を呑む中、傍観に徹する樺根にとっては非常に愉快な光景。
「茶飯事とは聞きましたが、これほどとは」
「女のは返り血に見えますが」
「そうですね―――今は機を見ましょう」
「あいつマジうぜーぴょん」
あろう事か、犬は大股で階段へと近づいていく。
「死ななきゃ分からないみたいだね。変態は大嫌いだ」
名前は抑制のない声に含まれた殺気。それと同時に、鈴の音がリン・・・と樺根の頭に反響する。
冷たい風が樺根の頬をなで、血の噎せ返るような臭いが鼻を掠めたかと思うと景色が灰の様に崩れ、先ほどまで在ったものが消えていく。
気がつくと見覚えのないような、あるような―――不思議な空気の流れる廃墟に立ちつくしていた。
名前の居た場所には一人の女性が屈んでいた。
長い黒髪を瑠璃紺の紐で結わえ、先端には鈴が装飾されている。
(これは幻覚―――ではないようですね)
樺根は手足の自由を奪われたかのように動けない。
女性の声が直接頭に響く。
にこり、と優しい微笑みを樺根に向ける彼女に心臓が高鳴るのを感じる。
(僕は貴女を知っている。なのに、貴女が誰なのか見当がつかない。貴女も僕を知っている)
心の中で独り言つと、屈んでいる女性の瞳が切なげに揺れ、俯いた。
「せっ先輩のためなら何度でも甦りまガフッ!」
名前と変態男が触れるかといった所で間髪入れず右拳を男の首に食らわせる。
乾いた音が伝わり、男はまたしても階段から転げ落ちる音によって樺根はハッと目を見開き、右目を手で覆う。
彼女が居たはずの場所には、呆気にとられた名前が茫然と犬を見据えていた。
「おい男女」
名前は突如かけられた声に肩を揺らし、恐る恐る顔を上げる。
血飛沫を浴びたと思わせる痕跡が妙に痛々しい。
「あれ、君って今朝の?お陰で助かったよ。」
ある意味で窮地に立たされていたとは思えぬような、涼しげな眼差しに変わる。
樺根は神妙な面持ちで思考に耽る。
「犬―――俺の名前らよ」
「犬君か。私は名前だ。ありがとう」
「あんな雑魚、わけねーびょん!それと≪君≫はやめろよ。気色悪いんら」
柔らかな微笑みに、犬は口ごもる。視線をさまよわせていると、名前から数メートル先に血まみれの包みが落ちていた。
名前が犬の視線に気づき、目で追う。
「お昼ごはんが台無しだ」
「げえっ! これ弁当?!」
「うん。でもこれじゃ食欲が失せるね。昼飯買いに行くか」
名前は弁当の中を確認する。中身に血は付着していないが、鉄分豊富な香りに食欲が失せてくる。
犬はパンツのポケットをゴソゴソ漁り、手を出したかと思えばパン製品が何個か出てくる。
床に落ちた中から、カツサンドとハンドタオルを差し出す。
「お前にこれやる―――その弁当は食ってやるびょん」
「いや、いいよ。そんな事まで。あんな禍々しいものを人に食べさせるのはちょっと」
「細かい事は気にすんなぴょん」
名前は気まずそうにパンを受け取るや否や、樺根と千種とは反対側にある貯水タンクの段差に座る。
その行動が犬の反感を買ったようで、批判の声を浴びていた。
少なからず彼女と距離が開いた事に安堵のため息が漏れる。
「樺根様?」
千種が心配そうに樺根の肩を叩く。樺根は自嘲の笑みを浮かべ、小さく呟いた。
すぐ傍にいる千種には聞こえない程に消え入るような声で。
「欲しいものは、案外近くに在るのかもしれません、ね」
そろそろ飲もうか、と思った牛乳はいつの間にか空になっていた。
自重しないあとがき
ようやく骸(樺根)のターンがやってまいりました。犬はツンデレで案外イイ奴設定です。でも血まみれの弁当をリアルに想像すると・・・よく食うになれたねって感じです。