照明の届かぬ高層ビルの合間、人間が通るために作られてはいないであろう路地は、人間一人が通るのがやっとだ。自由の利かない路地に二つの人影が駆け抜けるのだが、奇妙な事に足音は一つしか響かない。
一方は息を荒げ、後ろに感じる気配に怯えるかのように必死に辺りを見回している。薄手のキャミソールは所々解れており、腕と肩からは薄らと血が滲む。
方や嬉々とした面持ちで、目前の人影を見て口角を上げる。
二つの影が街灯の薄暗い照明が壁を照らし、息を荒げている者は足で壁を受け止めたのち、壁に身を委ねた。
桜色に彩られた唇がぜいぜいと大きく呼吸をする度に、肩が揺れる。黒く短い髪は汗を含んだ額にぺたりと張り付いている。
背後から迫っていた気配は徐々に距離を縮めていた。
「ゲームオーバーです」
しっとりした声が響き渡る。
迫り来る足音は存在を誇示するかの如く、砂利の混じった地面を強く踏みしめる。
街頭の灯りでその姿が露わになる。中性的で淡麗な顔立ちだがどこか幼さを漂わせ、狂気に満ちた雰囲気を纏っている。
名前は壁に背を凭れて拳をきつく握りしめる。体中にできた擦り傷からが水滴が流れるのを感じる。
ぴんと張り詰めた空気を裂くように、口角を釣り上げ、掠れた喉を震わせた。
「追い詰めたつもり?」
「おや。そこまで気力があるとは想定外でした」
蒼髪の人物が嘲笑を漏らすと、再び静寂が周囲を包む。
名前はじっと蒼髪の人物の足元を見ていた。
動けずにいる間にも一歩、また一歩と距離を縮めている。
「貴方が素直に従えば、すぐ終わるのですから」
風切り音が耳に入ったかと思うと、辺りは急速に紅色へと染まっていく。
枯れた喉が、ひゅう、と唸る。
残った全ての力を絞り出して両手を宙に掲げた先に、割かれた雲間から月明かりが仄かに蒼髪の人物を照らしていた。
運命の邂逅
荒くれ者が集う黒耀中学校。裏庭に一つだけ設置された木製のアンティーク調のベンチが、重みを受けて軋む。
嫌でも聞こえてくる抗争とは裏腹に、隅々まで手入れされた芝生と幾ばくかの花で飾られていた。夕方には所謂校内恋愛や不良の溜まり場となるのだが本来立入禁止のため、昼間はある人物を除いて誰1人として近寄らない。
憂いを含む眼差しの少女、名前はベンチに横たわり空を仰いでいた。重厚な本を抱き締めて、眠たげに瞼を開く。
耳障りな鐘が鳴り響く。朝のホームルームの時間を告げる音に耳をふさぐ。
「すっかりサボり癖ついたな。すっごくねむい」
偏差値が異様に低い黒耀中学校ではさほど珍しくなく、教員ですら目を瞑る光景。
名前は低血圧・低血糖が原因で、毎朝少なくとも二時限までは欠席する。保健室に行く気は更々ない。どこに居ようが生徒に無関心な教師達は、これといって咎めたりせず、知らぬ存ぜぬを通すのは毎度の事。
携帯の着信音が控え目に鳴り、折りたたみ携帯を開くと、クラスメイトからのメールだった。
『今日は転校生が来たよ。なんとイケメン! 名前は来ないの?』
ふっと笑顔が零れる。
優しい木漏れ日が降りすすぐ。目を閉じてまどろむ意識に身を委ねる。
遠くから聞こえた声に意識が急上昇する。ぼんやり霞む頭で携帯を確認すると、時刻は十六時を過ぎた頃だった。あと一時間も寝ていれば登校が徒労で終わる所だった。
声は急速に距離を縮めている。徐々に露わになる声の主は、スカートを揺らしながら此方に近付いてくる。
「センパイ発見です!」
「おーおそよう」
小動物のような癒し系スマイルを浮かべて手を振る少女は、部活動の後輩だ。名前は茉莉といって、前髪をバレッタで留めている。
手を振り返そうと立ちあがった瞬間、名前は猪のような勢いの抱擁を受け止める。息苦しさにのあまりに野太い悲鳴が漏れ、呼吸を整えながら背中を優しく叩く。
「茉莉、まずは落ち着きなさい。それと、パンツが見えてしまうよ」
茉莉の頬は瞬く間に熱で染まり、丸くて形が整った眼を見開きながら、両手を頬に添えた。
「センパイ! それはそうと、今日こそは部活に顔出して下さいよ。名前センパイがいない間、先生が暴走しちゃってて怖いんです」
≪顧問≫の単語に、名前の表情が強張る。
名前は顧問である保険医との折り合いが悪く、滅多な理由では部活に出ない。
反面、名前が所属する部活は黒耀中では随一の活動率を誇っている。
なぜならば他の生徒達は学校行事を重視せずに遊び呆けているからだ。存続している事自体が奇跡と言っても過言ではない。
「面倒臭い駄教師。」
「お願いです、来て下さい! 私じゃ手がつけられないんです」
部活に関しては話が合うのだが、互いに譲れない持論が多く「どちらが正しいか」で衝突する。
最後は名前が非難して矛先を失った顧問が、部室を破壊してしまうのが落ち―――真面目に活動していると言っても、黒耀中は教師までもが破綻していた。
名前は小さくため息を吐き、寝起きで覚束ない足を慣らながら歩き出すと、後を速足でぴょこぴょこ付いて回る茉莉が可愛らしい。
「せ・・・センパイぃっ!」
小柄な茉莉の身長は120㎝に対して、名前の身長は170㎝ほどもある。茉莉の性格を体現するかのようにおっとりした歩調に合わせ、歩を緩めたつもりでも気を抜けば差が広がってしまう。
足の踏み場に困るほど塵に塗れた廊下に誰のともつかない奇声が木霊していて、名前は不快感のあまり顔を顰める。
―――この廊下を歩くのは好きじゃない。
ヘドロの様なものが沁み出た謎の袋や、プリントだった物、果ては黴が生えた鞄など、散乱した異物を見ていると泣きたくなる。
保健室までの距離が近くなればなるほど、廊下に溜まった塵が途端に少なくなっていくが、光景とは反比例するように奇声はどんどん近くなっていた。胃が締め付けられる思いで白い文字で≪保健室≫と掘られたプレートの下で立ち止まる。
深呼吸していると、心の準備がままらぬうちに茉莉が保健室の扉を盛大に開けてしまった。
「名前センパイ入りますう」
「ちょっと待って―――」
奇声がぴたりと止み、気まずさのあまりに言葉が途中で切れる。
保健室の中にいた三名の視線が扉に向けられ、白衣を纏った長身の男が名前目掛けて猛突進する。寝起き間もない名前は反応が遅れ、躱す事も出来ずに全身で男を受け止め、本日二度目の野太い悲鳴を漏らす。
「名前? お前どこ行ってたんだよ!」
「出る、臓腑が―――でる」
透き通るような灰色の瞳に涙を携え、名前を強く出し締め―――否、締めている男こそ保険医兼、名前所属部活の顧問である京本先生だった。ホストさながらの甘い容姿に、地毛だというこげ茶色の短い髪。語尾を伸ばす口調に、苛立ちを通り越して殺意が湧きおこる。
顧問は十数分あまり泣き続け、ようやく解放された名前は、顧問の弁慶の泣き所を思い切り蹴った。
「蜂密よりも甘いねぇ君は。俺のタフな体を見くびっちゃ駄目だよー」
気が晴れないので鳩尾に膝を打ち込んでみたら、よく効いた様で痛みに耐えながら蹲った。冷ややかな視線で見下ろし、ため息を吐きながら身近なパイプ椅子に腰を下ろす。
「仲良くなりましたねっ。これで安泰ですう」
笑顔で胸を撫で下ろした様子の茉莉に、苦笑いが止まらない。
「久しぶり、名前」
背後からの細い声に振り向くと、腰まで長く伸ばした黒髪の女性が花の様なにこりと笑顔を向けた。彼女は同級生の美紅、部活仲間だ。
その隣には茉莉のクラスメイト、無言で銀髪不良少年の友達が軽く会釈した。
「やっと揃ったね? 始めましょっかー」
いつの間にか立ち治った顧問京本が溢れんばかりの笑顔で、ベッドの縁に寝そべる。さりげなくお腹を押さえているあたり、堪えているのであろう。
京本顧問の部活は奇科学専門の研究部、通称電波部。所謂オカルトを追及していく趣旨の部なのだが、名称からして怪しいこの部は計四名のみの少数部員で構成されている。
時には歴史、時には宗教を教え説く。全てを理解するには必要不可欠なのだと京本は言う。
活動は部員が二人揃えば行うという気まぐれぶりだ。普通の学校なら自然と消滅していくのだろうが、活動しているだけで存続が認められるの黒耀中ならでは。
「オカルト研究部員が揃うの何日ぶりかな。先生嬉しくて泣いちゃうよー」
「勝手に泣け」
「いっそ逝け。早急に頼む」
無口の友達と悪態が被り、穏便派の茉莉が名前と友達をなだめる。人懐っこい笑顔は京本最大の売りなのだが、打ち解けすぎて泥沼化してしまっている取っつき易いのも考えものだ。
「まぁ本題ね。今日が輪廻についてをやろうかと」
顧問京本は薬品棚の横からホワイトボードを引っ張り出し、美紅が予め用意されていたプリントを其々に配る。
プリントには、
[生]魂―現世
[死]三途の川―最後の審判―霊界―転生
と書かれ、妖怪画が印刷されていた。それを配り終えた所でニヤケ顔の京本が説明を始める。
「先ず、人は魂として精神体を得、魂は現世で肉体を得る。
肉体の死後、現世で人生を終えた者は三途の川を通り審判を受けるんだけど、現世の行いによっては新たな肉体を受けられる。これが輪廻転生。そうでない者は地獄で永遠に肉体を与えられない」
名前は話も程々に、鞄に突っ込んでいた分厚い書籍を取り出す。適当にページを開いていると、突如氷が胸から左わき腹にかけてをなぞる様な違和感に襲われる。驚きを表に出さぬよう注意しながら部屋中を見渡すが、何ら変わり映えはしなかった。しかし奇妙な感覚は徐々に強まっていき快感に似た痺れが全身に駆け巡り、突き抜けるような頭痛と共に一瞬で消えた。
たった数秒のことに、異常なほど手に生温いものを感じていた。
汗にしても、短時間でこんなになるものだろうか―――視線を移すと、紅色の液体がべっbノ鳴る。
「・・・失礼いたします。おや?」
控え目にドアが開かれると、茉莉、美紅、友達の視線を浴び、男子生徒が首を傾げた。
蒼みを帯びた髪がさらりと靡く。
蒼髪の少年はお辞儀をして、保健室内へと歩を進める。
「クフ、始めまして」
しんと静まり返った保健室に、年の割に落ち着きを含む、優しげな声が響く。
興奮気味の茉莉が名前の袖をグイグイ引っ張ると、名前はシャープペンの手を止めて茉莉の頭を撫でる。
「転校生の?」
「樺根、と言います」
独特な発音に名前は茉莉の頭を撫でる手を止めた。
体ごと振り返り、転校生を見ると視線がかちあい、樺根は名前に笑顔を向けた。
クラスメートの報告通り、彼の容姿は端麗。
目鼻立ちが整っており、細いフェイスラインに美しい項。髪はアップスタイルがパイナップルのようだ。
よく見ると瞳の色が左右で違う。猩々緋と瑠璃紺の瞳。
―――所謂オッドアイか。
「お邪魔してしまいましたね。すみません」
オッドアイの男は名前に視線を向け、弱々しく呟く。
「はじめまして転校生の。私は苗字名前だ。クラスメイトに聞いたが君も3年6組だね」
「名前さんと仰るのですか。席が一つ空いていたのは、貴女だったのですね」
「朝はどうも苦手だからね。」
名前は含みのある笑顔を返すと、転校生の樺根は眼をクワっと見開いて固まった。心なしか樺根の頬が熱を帯びている。
嫌な予感がしながらも、名前は右手を差し出すと樺根が冷たい手を控え目に添える。
「ああ。よろしく」
「いえ―――ええと」
手を放そうとする名前の手を、樺根は力を込めて阻止する。
何かを思い出したように、握っている手を離してパンツのポケットから紙切れを取りだした。
「危うく忘れる所でした。部活動の視察をしていまして―――此処が最後なのですが、渡されたプリントには一つだけ名称が塗り潰されていたものですから来てみたんです。ここはどのような部活動を?」
「男子禁制なのーごめんね樺根君」
「男の俺はどうなんだよカス本。男装の麗人かよ死ねカス」
「キミは女の子みたいな顔してるでしょ? だから問題ないねー」
「何こいつ腹立たしい・・・・・・」
馬鹿らしいやりとりに、名前は我関せずとばかりに奥のカーテンを閉め、ベッドに潜り込む。
樺根が表情を緩ませ「仲が宜しいのですね」と発したが二人には聞こえていない。
見かねた美紅が樺根に耳打ちする。
「ここ、奇科学、もとい、オカルト研究部。多分、一番真面目に頑張ってるの、ここだけ」
樺根の眼が怪しく輝く。
口角を釣り上げ、クフフ、と独特の笑みを漏らす。
「素晴らしい! 入部届を出してきますよ」
「物好きね」
樺根は上機嫌で保健室を後にし、職員室へと向かう。
「彼は―――樺根君は危険な気がするんだよなあ」
「確かにあいつは顔が胡散くさい」
「でも先生。彼、入部するって。職員室に行ったわ」
「は?」
京本、友達の間抜けな声が保健室に木霊した。