Camouflage


 視界いっぱいに花畑が広がる。
 フローラルな香りに包まれる中、ある一点にブラックカラーの物体が草花に擽られていた。革製の黒と黄色のコートを羽織った女は、風に髪を靡かせて、一際違和感を引き立たせている物に歩み寄る。
 黒い物体との距離が短くなるにつれ、それが何であるかが見えてくる。頂点に二つの目玉が付いていて、小さな切れ込みが二つあった。見覚えのあるそれは蛙を模したヘルメットだった。
 女の表情は次第に険しいものに変わり、一人と一個の距離凡そ五十センチの所で蛙のヘルメットを思い切りけ飛ばす。
すると景色は硝子が割れるように弾け、見えてきたのは殺風景なコンクリート作りの部屋だった。女はドアを荒々しく開き、ひたすら長い階段を三段ずつ飛ばしながら大急ぎで上る。
 頂上には飾り気のないドアがあり、押しても引いても開く気配がない。苛々をぶつけるかのごとく行き先を隔てる物を何度も蹴りつけると、ドアが割れて明るい一室に出る。
「フラアァァァァン! また幻術にはめたなー!」
 階段の壁と同じコンクリート作りの肌寒い一室の端に、先程の花畑で見た蛙のヘルメットを被るフランが居た。
 彼はベッドに仰向けになり、クッションを両手で掲げている。
「ちっ。もう出てきたのかよー」
 やる気をまるで感じさせない棒読み口調に、名前は眉間の皺を深める。
 ずかずかと部屋を横断し、フランの手中にあるクッションを叩き落とすと、そのまま顔に直撃した。のろのろと視界を塞ぐものを避ける彼は僅かに表情を緩めていた。
「怒りんぼのボスみたいで気持ちわるー」
 名前はむっとして唇を尖らせ、クッションを睨みつける。
「あんたの暇つぶしに付き合ってる時間はないの! 勘弁してよ、今日は予定があるんだから」
「あっさり幻術にかかるとは思わなかったんでー。ミーほどの幻術師が直々に相手してるんだから、いい訓練になるんじゃないかなーって」
「任務に遅れるじゃない! 訓練なら別の日にして欲しいものだわ!」
「それならとっくに終わってますんで安心していいですよー」
 フランは人差し指を壁のやや上に向ける。名前は視線で辿ると、時計の針が予定の時間から半日経っている事に気がついた。途端に青ざめて部屋を出ようとする動作をフランが止める。
「とっくに終わらせたんでー。ボスにも話は付けてありますから報告もいりませーん」
「ほんっと最低!」
「あんたは根を詰め過ぎなんですよー。部下の体調管理は先輩の勤めですからー」
「頼んでないし、すんごく迷惑」
「・・・・・・また幻術世界にトリップしたいようですねー。お望みとあらば今すぐにって、どこに行くんですかー?」
「部屋に戻る」
「駄目ですよー。悪い子にはお仕置きが必要なんで。拒否するならうっかり殺しちゃうかもしれませんねー」
 踵を返す名前の腕フランが遮るように強く握る。触れた部分の血が止まり、ぐっと手が開く。指先が見る見るうちに紫色を帯びていく。
 名前は何を言っても無駄だと悟り、諦めて項垂れる。
「で―――フラン様は何をなさるおつもりでしょう?」
 皮肉交じりに蛙帽子を睨みつける。
 フランは表情を一切変えずに、僅かに見える別室の作業用デスクを指さす。
 名前は目を細めてデスクへと向かう。
 フランは几帳面な方ではなく、数枚の書類が乱雑に置かれていた。一枚手に取り内容を確認すると、任務の代理報告書だった。
「然るべき場所に届けて下さいねー」
「こんなの自分でやんなさいよ・・・・・・」
「ミー残業残業残業で意識がぶっ飛びそうなんでー」
 そう言ったフランの下目蓋はくっきりと黒い隈ができていたが、つい数秒前までは無かったはずだ。
「自ずと代理になったのなら、責任は負うべきよ」
 先輩命令は部下である立場を加味しても頷くべきなのだが、今日は虫の居所が特に悪かった。
 フランはヘルメットを被ったまま気のない返事をして、ベッドにうつ伏せになり、ぼんやりと壁を見つめていた。
 名前は何も無かった事にして、再度出入り口へと向かう。

 廊下を出て暫く歩いていると、ある筈のない赤い絨毯の上を通っている事に気がついた。ボスの一室がある階の廊下にしか存在しない筈だ。
 名前は首を傾げ、その場に立ち止まる。

 自分は階段を通ったか―――否、覚えがない。
 どこかで方向転換したか―――否、覚えがない。
 誰かの罠に嵌ったか―――。

「フラン・・・・・・もう我慢できない」
 頭の中で事象を否定しようとするが、何の変化も来さない。いつもならすぐ幻術が解けるのだが、今回は手抜き一切無しということか、それとも幻術とは違うのか。
 ボスの部屋がすぐそこにある。名前は逃げるように真逆の方向へと体を向けて歩き出すが、歩いて数分後に同じ場所へと戻ってしまう。
 諦めてボスの部屋に入ると、ボンゴレマークが入ったアンティークの椅子とデスクがあるのみで、人気を全く感じない。
 名前がデスクの前に歩み寄る。そこにはメモがあり≪思いのたけを素直に吐き出せば幻術は解ける≫とだけ殴り書きされていた。苛立ちがピークに達し、紙切れを破く。
「素直? 素直ですって? 本当にふざけてる!」
 正直な気持ち―――フランには迷惑していた。暇がなくても幻術をかけて遊ぶわ、仕事を奪うわ、貴重な時間をフランに取られてばかりだった。
 今でさえ沸々と沸き起こる黒い感情を抑え込むのに必死で、折角なら気分を晴らそうと部屋を壊滅的にしてしまいたい所だが、場所が場所なだけに気が引ける。これがもしフランの部屋なら迷わず破壊している―――心の中で悪態をついていると、景色がフランの部屋へと変化していく。
 先程のボスの部屋とは違い、ベッドには忌まわしい彼が寝そべっている。隣には名前自身が死んだように目を瞑っていた。
「こっちに居る名前と、そこに立っている名前―――どっちが本物なんでしょうかー?」
 名前はその場に凍りついた。
「フランの仕業じゃないの?」
「違いますよー。あんたが二人も居たら気が狂いますんでー」
 思い当たる節はあった。フランの前任幻術師マーモン、もしくは師匠の六道骸なら高度な術をかける事が出来る筈だ。
「さっきボスの部屋で手がかりを見つけたの。≪思いのたけを素直に吐き出せば幻術は解ける≫って」
 フランは目を丸くして、考え込んだかと思えば両手をメガホンのように使い声を天井に向ける。
「ゲロー最悪ですねー。悪趣味じゃないですかー最低ですー」
 名前は怪訝に眉をひそめる。フランには主犯が解ったようだった。
「ミーは常に素直なんで特に言う事は無いですねー」
「私には何だかさっぱりなんだけど・・・・・・それより、私の頭を撫でるのはやめてくれない? 幻術と言えど不愉快だわ」
「そっちが本物くさいですねー・・・・・・非常に残念ですー」
 フランがベッドで寝ている名前から手を離すと、忽然と姿を消した。残ったのは立ちつくした本物の名前と、ねそべっているフランだけになる。
「どういう意味?」
 フランは視線を泳がせた。
「どういうって、あんた鈍いですねー。もう幻術は切れたんで安心して行っていいですよー。寧ろあっちいけよー」
「さっきの言葉の意味を教えてくれるまでここにいる」
「ですからミーは・・・・・・」

 陰でひっそりと聞き耳を立てていたマーモンは、すっぽりと被ったフードから僅かに見える口角が弧を描く。
 フランが言い放った言葉を聞いた名前は顔を真っ赤にして、その場に立ちつくしていた。

自重しないあとがき

一万打企画のリクエストを頂き「上司と部下」をテーマに好き勝手やらせて頂きました。
当初はこんなに掲載が長引く予定ではなかったのですが、どうにか書き切る事が出来て一安心。
遅くなりましたが、リクエストありがとうございました!
私が書くとフランが一向に素直にならないので、マーモンが一肌脱ぎました。