蛙は王子様
後頭部に強い衝撃を受け、鈍くて痺れるような感覚が広がっていく。水滴の滴る音たてて鮮やかな赤が飛散する。
記憶の軌跡を走馬灯のように辿っていた。
事は半日前。
名前は週7回フルタイム出勤、という過酷な労働環境に耐えきり、ようやく掴んだ休暇をフランの部屋で過ごしていた。
恋人であるフランとソファに隣り合い、右肩に暖かい体温を感じて胸が高鳴る。顔を合わせるのは久しぶりな上に、手を繋ぐだけの行為ですら指折り数える程度。緊張のあまりに思考回路が働かない。
「「あの・・・」」
「見事に被りましたねー。以心伝心ってやつですー」
「う、うん。」
付き合ってからというもの初めて二人でゆっくり過ごせる一日。所在が不安定な視線がフランと絡み合った。
フランは真剣な表情をして、名前の手をぎゅっと握る。整った顔がどんどん迫ってくる。鼻と鼻が触れあい、呼吸音がすぐそこに聞こえる。
「う゛おおい! 名前!」
防音処理がなされている筈の扉の奥から、スクアーロ隊長の騒々しい呼び声に、肩がビクリと跳ねた。
フランは唇に人差し指を当てて『しっ。喋ったらいけませんよー』と、小さく囁いて名前の肩を抱き寄せた。再び襲い来る羞恥心と、扉の向こうから聞こえる声。激しい葛藤が頭の中をぐるぐる回っていた。
「どっかにいるなら返事しやがれぇ! お前の部下の緊急事態だぁ!」
「え、嘘でしょう・・・。」
背筋が凍りつく嫌な感覚。フランの腕を振り払い、一直線に扉を開くと挙動不審になっている平隊員と、剣を振りまわして見るからにご乱心のスクアーロ隊長が居た。
聞けば、後輩が密輸の現場を一般人に見られてしまい、事もあろうか取り逃がしたのだそうだ。取引先の信用が下がってしまうため、相手が誰であろうと排除しなくてはならない。
フランは食い下がらなかったが、部下の尻拭いは上司の勤め。迷うことなく現地へ直行した。
追跡だけは真面目に行っていたようで、足取りはGPSで簡単につかめた。標的の後ろ姿を視界にとらえ、銃のトリガーに添えた指を弾くと、標的はあっさり倒れた。
手早く処理を済ませるために場を離れる。
怪しげな男が数人、名前の元に駆けつけた。サングラスをかけ、その姿はダークスーツに身を包んでいる。
「その男を渡せ」
ぶっきらぼうな要求に、名前は再び銃口を上げた。任務を煩わせるものは例外なく亡き者にするのが掟だ。
乾いた銃声の後、地面に横たわる姿を目にした男達は、一斉に兵器を露わにした。それは紛れもなくマフィアオーゾの間で取引されている匣。
「俺たちのボスを殺った例は高くつくぜ。怨むなら馬鹿な仲間を恨めよ」
―――とてつもなく単純な情報ミスだった。
名前は髪の濡れた感触に舌打ちする。生温かい体液が肌を伝い、服の中にじんわりと広がっていく。
忌々しいほど重くなりゆく体を追い打つように、どんどん増えて行く的に焦りを覚える。思うように上がらない腕を奮い立たせ、足を大きく開いてトリガーを引く反動に耐える。
フランを残していった手前、まだ倒れるわけにはいかない。
銃を持つ手に力を込めるが、あっけなく手から滑り落ちてしまう。銃に視線を遣ると、赤黒く変色した血がべっとりと纏わりついていた。
遠くから聞こえる僅かな足音に重い瞼を上げると、ダークスーツに身を包んだ男達が、体感したよりも近くに迫っている。
耳がうまく機能していない。視界が黒く塗りつぶされていく。意思とは正反対に膝が地面に接触した。不思議と痛みはない代わりに、どこからともなく広がっていく寒さが五感の全てを蝕んでいく。全身が限界を告げていた。
名前は目を閉じ、行く末をその場に委ねた。
フランとの思い出の大半が任務で共に過ごしただけだなんて、悔しすぎる。
「人生諦めが肝心、ですかー?」
とても愛おしい間延び声に、恐る恐る瞼を上げる。そこには名前を取り囲んでいたはずの男達が倒れていて、居るはずの無いフランの姿があった。
「フラン、どうして」
「ミーの第六感がピーンと来たんですよー。大事な女を守れない男は人として失格ですからー。あ、今、ミー格好いい事言っちゃいましたー?」
むず痒い感覚が体の奥底から這い上がってくる。目の奥が熱くなり、視界が歪んでいく。
フランの穏やかな表情を見て、せきを切ったように涙が溢れる。
「泣き過ぎですー。顔にモザイクしときましょうかー。誰にも見せられないんでー」
フランは割れものを扱うような手つきで、名前を胸に閉じ込める。暖かい体温が冷え切った体に伝わっていく。
「あ、あの、フラン様。我々はどうしたら・・・。」
「ちゃちゃっと片付けちゃって下さーい」
「フラン、ごめん。」
「後でご褒美貰いますから覚悟ー。ちゅーだけじゃ足りませんねー」
一気に顔が熱くなった。ここから逃げてしまいたいが、生憎フランの腕から逃れる術が無く、身じろぎするだけで終わってしまう。
程なくして医療部隊が到着し、ストレッチャーで運ばれた。
怪我の程度は相当なものだったようで、強制的に麻酔で眠らされた後は覚えていない。
昏々と深く眠り続け、麻酔を切れるようになっる。ほとんど全快に近い状態だったが、未だICUのベッドに居る事を余儀なくされた。というのも、一般病棟に移ったら最後。再び任務に駆り出されるため、ヴァリアー直属の医療チームは通常よりも長く時間を取っている、と説明を受けた。
僅かに残る浮遊感に浸っていると、アクリル造りの管理室でもめるような声がした。見ると医療チームの人が、壁に繋がった連絡回線で会話をしている。見るからに嫌々といった仕草だ。
もしかして―――と期待に鼓動が高鳴る。
「ここではくれぐれも静粛に・・・お願い致します。」
病室のロックが解除され、扉が開くとスクアーロ隊長の姿が見えた。
「よ゛お。随分と顔色が良くなったな゛あ!」
珍しく控え目にかけられた声に驚愕する。
出来れば普段からボリュームを下げてもらえると耳に優しいのだけど。
「任務、ですか?」
「俺が伝えに来たのはお前にとっては朗報だぁ。俺らにとっちゃ凶報だがな゛ぁ!」
興奮していくスクアーロ隊長は徐々に声が張っていく。鼓膜がびりびり揺れ、失礼かなと思いながらも耳を塞ぐ。アクリル越しの管理室から『スクアーロ様、静粛に』と、抑制の声が響く。
スクアーロ隊長は、ばつが悪そうにせき払いした。
「・・・で、だぁ。療養を終えた後に三日間の休暇をやるぞぉ」
「三日?そんなに必要ありません。それに、もう任務にも出られますから。」
「お前の熱意をふざけた野郎どもにも分けてほしいぜぇ・・・。決定しちまったから変更は効かねぇ。フランも休暇を合わせるからな゛ぁ!」
声を荒げるスクアーロ体調に、医療チームの力ずくの抑制が入る。恐らくあからさまに実力行使できるのは、彼らとボス以外には居ないだろう。
そこから時間が経つのは早かった。
フランは愛嬌のある笑顔で出迎えてくれた。いつもと違う雰囲気を醸し出していて、視線を落とすと体のラインが出るようなラグランパーカーを着ている。後ろには蛙を模したフードがついていた。
おずおずと手を伸ばし、一気にフードを被せる。常に被っている蛙の帽子とは違った趣があり、円らな目が可愛らしい。
「ベル先輩が今日一日中これを着ろって煩いんですよー。羞恥プレイですよねー」
フランは唇を尖らせて斜め下を見ている。
怒らせてしまったのかと顔を覗き込んだ途端、ふわりと体が浮いた。
「ふ、ふらっ?下ろして!」
「嫌ですー。この間の続きをしましょー」
フランは迷うことなく部屋の奥に進み、漸く解放されたと思った先はベッドだった。
「色々通り越してる気がするんだけど。」
「抱っこしながらゴロゴロするの夢なんですよー。年頃ですからー」
面映ゆさのあまりフランの肩を押しだすが、逆に引き寄せられて見動きが取れなくなった。体重が圧し掛かった勢いのままベッドに倒れ込むと、二人分の重みを受けてベッドのスプリングが軋む。華奢な見た目とは裏腹に、合間見せる力強さに心臓が大きく跳ねる。
フランは名前の首筋に顔をうずめ、猫の様に擦り寄せた。
もしかしたら、触れる事すら出来なくなったかもしれない。そう思うと、途端に物寂しさが胸を締め付けた。
フランの腰に腕を回して精一杯抱きしめる。
「名前さーん、ちょっとこっち向いて貰えます?」
フランの間延びした声に顔を上げると、頬を両手ですっぽりと覆われた。伏し目がちなエメラルドグリーンの瞳には、名前の顔がぼんやりと映り込み、気恥かしさが一層引き立つ気がした。
どちらともなく自然と目を閉じ、唇でそっと触れ合う。
フランは名前の背中に腕を回してより深く唇を貪る。苦しい、と伝えようにもくぐもった声が出るばかりで言葉にならない。何度も角度を変えてお互いを貪るうちに、体の奥底に熱の伴った疼きがこみ上げ、艶めいた切ない吐息が漏れる。
漸く離れたフランは何時になく切なげな眼差しを向けた。
「ミーへのご褒美にプラトニックな関係は卒業しちゃいましょー」
「駄目、心の準備が・・・。」
「ミーは準備万端ですよー。それともまだ足りませんかー?」
「じゅ、充分すぎて心臓に悪い。」
ふと、近くに殺気を感じた。
身を翻そうとしたが、先に反応した抱きかかえられてベッドを転がる。先ほどまで二人が居た場所には上等なナイフが突き刺さっていた。
弓なりの形状に、繊細な掘りのあるナイフ。持ち主と言えば、一人しか思い当たる人物がいない。
「ほんっと最悪なタイミングですねー。確か鍵かけたはずなんですがー」
「しししっ、だって俺王子だもん」
「ピッキングかよ。性格歪み過ぎて修正不可能ですねー」
「ベルフェゴール先輩、あの・・・。」
「馬鹿王子に構ってると汚されますよー?」
「うしし、逃げんなし」
フランは名前を俵担ぎし、窓から飛び降りる。
「明日は小旅行に行しょー。二日以内に何か起こるんで覚悟してくださーい。」
「え、何、唐突すぎ!」
ベルフェゴール先輩の間の手から逃れた頃、気がつけば日付が変わっていた。