恋の終わりは始まりの合図


手元にあるリストには、名前が愛していた恋人の写真が載っていた。その下に書かれた名前は、慣れ親しんだものではない。
2人は同期で、周囲の誰よりもお互いを信頼していた。
名前の後輩に当たるフランは幻術師で、誰よりも勘が良い。名前の恋人に少なからず違和感を抱き、時間が許す限り監視していた。
ある時、厳重に保管していた兵器が喪失する事件が起こる。
一見すれば完璧にも見えるほど痕跡が無い。しかし、監視を行っていたフランだけが知った事実。それは内部犯―――名前の恋人が、敵対ファミリーのスパイであると。
情報はすぐに幹部に伝わり、雲の守護者である名前も例外ではない。

ボスの勅命により、終止符を打つ為の任務が与えられた。
スパイは名前の恋人以外にも複数名存在した。
名前は事実を知った上で、恋人の処分に頷く。そして、自身の手で葬りたい、と名乗りを上げた。
しかし、90パーセント以上の確率で成功する任務のみを執り行うヴァリアーにとって、名前の行動は危険なものと考えられた。
任務を受けたのはフランとレヴィだったが、経験を考慮して名前の要求を受け入れた。

かの事件から2か月が経ち、任務を決行する時が来た。
「フラン、今日の作戦だけど・・・今、いい?」
手筈を整えていると、名前に呼び止められる。
裏切りを知ってからというもの、目も当てられないほどに落ち込んでいた。
目の周りが腫れていて、今にも泣きだしそうだった。見ていられない。
「オカマに代わってもらったらどうですかー?」
「気付かなかったのは私の責任。後には引かない。」
「強情ですねー・・・」
気の利いた言葉が出てこない。ここで一発、ガツンと言えたならどんなに楽か。
取り寄せたばかりの匣を、手の平で転がす。
名前をこんなにかき乱す男が憎くてしょうがない。2ヶ月の間、どのように息の根を止めてやろうかと、凄惨な殺し方を思い描いていた。
自分の手を下せないのは残念極まりないが、名前の心が晴れるならそれでいい。加担した者を食い荒らせば、少しは楽しめるかもしれない。
フランは高揚する心を抑え、名前と共に、アジトを後にした。





一方、名前はアジトのすぐ近くの森林に居た。
そこには名前の恋人が居た。誰かを待っているような素振りがあった。
「残念だけど、待ち人は来ないの。」
彼は顔色一つ変えず、俯いた。逃げる気配はない。危機を脱する手立てはどこにも無いからだ。
「あなたを殺す日が来るなんて、考えたくもなかった。」
名前は恋人を抱きしめた。顔を見上げると、僅かに哀愁を帯びた瞳が写る。
自身の感情が冷え切っていくのを感じながら、一切の躊躇いもなく胸を貫く。
両手に鮮血が伝う。
肉塊と化したそれは、力なく地面に崩れ落ちた。

彼は裏切ったのだ。ファミリーを、ボスを、私を。
好きだと言う気持ちはとっくに捨てた。ほんの僅かに残ったのは、ただの情。
屈んで彼の肌に触れると、まだ熱が残っていた。先ほどまで開いていた瞳から、一滴の涙が流れていた。
風穴が開いたような物寂しさ。

遠くから、乾いた破裂音が鳴り響いた。銃声とは違う。
耳に当てた無線機のイヤホンから、後輩にあたるフランの声がする。
「名前センパーイ。そっち片付きましたー?」
「今終わったとこ。さっさと合流してアジトに帰ろうか。」
「イエッサー。早く風呂入りたいですからー。」
ポケットに入れていたペットボトルの水を出し、両手を洗う。皮膚に若干の赤みが残るが、こればかりは仕方ない。
無線の周波数を切り替え、処理班に連絡し、リストを参照しながら名前を伝える。


すぐにフランの元へと向かうと、居場所は簡単に解った。
視界は赤い霧でモヤがかっていた。
息を吸うにもむせかえるような臭いに、たまらず口を隊服の裾で覆うも繊維越しでも臭う。
匣を使った痕跡が生々しく残っていると共に、血脂が放つ悪臭が濃いからだ。相当手酷くやったのだろう、もはや人の原型を留めていない。
後で回収に来る処理班が泣きを見るだろう。歯形すら参照出来ない状態だとリストの処理に時間がかかる。

フランは欠伸をしながら眠そうに目をこする。
裏切りは御法度。温情をかける必要は皆無なのだ。
名前は鼻で笑い、一刻も早くこの場から立ち去りたい一心でアジトの方向に足を進める。



徐々に霧が晴れて視界がクリアになっていく。嫌な臭いも薄らいでいき袖を口から離す。
普段は黒い隊服がうっすらと赤茶色になっていた。

「やっと障害が消えてましたねー」

フランは拳を掲げる。一難去り、清々したのだろう。
一時でもヴァリアーに脅威をもたらした者達の、偽りの時間が終わった。なのに、手放しで喜べない。
陰鬱な感情が頭のなかに渦巻く。
「暗い顔をしていたら幸せが逃げますよー。何ならミーが幸せを運んであげましょうかー?」
「じゃあ、報告書と始末書お願いしようかな。」
「それとこれとでは話が別ですー」
もやもやと渦巻いていたものが、吹き飛んだような気がした。
口を開けば毒ばかり吐くフランが、今は頼もしい。
「ミーはコウノトリですからー」
名前は腕をとられ、フランの方へと引き寄せられる。何が起こったのかと慌てていると、頬に柔らかいものが当たった。
「はぁっ?何、急に。頭おかしくなった?」
「先輩は本当に馬鹿なんですねー」

ほんの些細なことだけれど、勇気づけられた。
ずっと見て見ぬふりをしていただけで、気にかけてくれていたのだ。
頬に暖かいものが伝う。
「そんなに嫌でしたかー?90%以下の可能性にかけてみたんですけどー」
「違う。馬鹿でごめん。ありがとう。」
「返事はどっちかにしてくださーい。あ、やっぱ今じゃない方がいいですー。」
あたふたしているフランを見ていると、笑いがこみ上げてくる。全身が軽くなったような爽快感。

「返事は書類が終わったらね。」
「ずるいですー・・・」

フランは不満そうに口を曲げる。その仕草がほんの少し、愛おしく見えた。
移動速度を限界まで早めて、一直線にアジトまで駆ける。