自身のダミーを放り投げ、名前は再び自室の扉に向かう。
今度は人気を感じず、すんなりと部屋を出られた。
足音を立てぬようにつま先で地面を蹴り、リズミカルに廊下を駆けて階段に向かうと、肌に突き刺さるような気配を感じて足を止める。
角に身を顰め、全意識を集中させる。
歩調が乱雑で仄かに金属の臭いが鼻孔を掠める。
名前は目を細めて戦略を練りあぐねる。
上の階で複数人が駆け抜ける音に身を強張らせ、じっとしていると気配の主が姿を現す。
何の変哲もない平隊員だった。嫌な気配はどこかへ通り過ぎ、階段からではなかったと悟り安堵する。
背後に敵意を感じて身を小さくして前転しながら体の向きを変え、膝を立てる。相手は名前と同じダガーナイフを手にしていた隊員だった。
相手は全員漏れなくプロの暗殺部隊、いつでも姿が見えるとは限らないのだが、ラッキー続きだ。
「先輩のご指導を賜りたく―――」悠長に挨拶をしている最中、先輩隊員は容赦なく攻めに転じる。しかし大ぶりの一撃はダメージを許さず、空を切った。再びダガーナイフを鋭く振るが、一人踊っているかのように手応えがない。とうとう業を煮やし、血走った目で名前を睨みつける。
「お、お前を捕まえられれば家族に会えるんだ!」
「家族? 先輩は休みなしってクチで?」
「違う、俺は好きでここにいるんじゃない! あいつらに無理やり連れてこられたんだ!」
先輩の言い分と酷似した境遇に、納得して頷く。
「ここの人達って酷いんだね。来たくないのに入隊させられて辛かったでしょう? 私もそうなの」
あれだけ威勢が良かった先輩はうろたえる。
「残念だけど、まだ家族に会う時じゃないみたいね」
名前は一気に詰め寄り、頸動脈に手刀を入れる。先輩は魂が抜けたように床に倒れ、赤い髪の毛を掻き上げる。
「色んな組織からも拉致してるのね。マフィアらしいっちゃらしいけど、心が痛むわー・・・・・・」
先輩を手短にあった部屋のクローゼットに押し込み、思案する。
闇雲に出歩いても身を危険にさらすだけだ。第一、ヴァリアーに標的となる女性がどれほどいるのかも知らないが、スクアーロ隊長の言い分からすると、然程多くないだろう。
同じ標的を探して協力を得るか、それとも幹部の協力者を探すか? 仮に接触して、もし協力者ではなかった場合のリスクが大きい。
「そこまでだ」
後頭部に拳銃が突き付けられる。
「今度は二の足は踏まないよ」
目深防止を被り、カーキのコートの襟を立てた男が、名前の背後でにやりと笑う。
彼は名前をヴァリアーまで運んだ、嘗ての同僚だ。攻めが得意な彼とは相性が良く、コンビを組んだ事も数え切れぬほどあった。しかし肝心の銃裁きを目にする機会はあまりなかった。
彼も名前と同じくストライク・ガンを愛用していた。
「吹っ切れるのが早いな」
彼のストライク・プレートには焼きついた血脂が見える。
「あんたが参加してるって事は、暗殺部隊も暇なものね」
彼は銃をそのままに、視線を這わせる。
「新米はお互い様だ。就任初日にスクアーロ隊長と一悶着あったと聞いたが、元気そうだな。それより、名前。お前少し鈍ったんじゃないか?」
「毎日デスクワークよ? それも下らない事後処理が大半! 上司に恵まれてけラッキーだったわ。変人ばっかりで面白い所だし」
「思いの外、楽しんでいるな」
はあ、とため息を吐いた名前の姿が僅かにブレる。
「あんたには捕まりたくないわ。チャオー」
名前の姿が霧散して忽然と消える。標的を失った男は銃をホルスターに収める。
名前が逃げ込んだ先は場所は華美な一室だった。壁には美術画が立てかけられており、花瓶には美しい百合が生けられていて、生花の芳しい香りに混じり硝煙が鼻を掠める。
部屋の中央には大きなデスクが設置され、男性がどっしりと革張りの椅子に坐していた。
オメルタを交わした時に見た覚えがある人物だ。
「ボス―――ご無礼をお許しください」
名前は状況に不釣り合いなほど柔らかく微笑み、会釈しながら背中で隠し持つ。
大して言葉を交わしていないためボスの人柄は未知数で、名前は薄らと緊張に身を震わせる。敵に回したら命が無い、それだけは確かだ。
どの幹部にも無いような、五感に冷たく響く色濃い空気を持つボスは、名前が過去に出会った誰よりも異彩を放っていた。
「腕は治ったか」
ボスは気だるさを隠そうともせずに欠伸する。眠気を含んだ眼差しは伏せられており、視線をそらせない。
「治ったのかと聞いている」
眉間に皺を寄せるボスは、どうやら気が短いようだ。
身を打ちひしがれる殺気に気押されるが、慎重に息を吸い込み持ちこたえる。
「おおむね良好です」
ボスは隊服のポケットから、小さくも煌びやかな装飾の施された匣を取りだす。それは中央に窪みがある。マフィア界だけならず、裏方面には愛用者が多い匣兵器―――ボスは左手で転がした後、右手にはめられているリングで開匣する。
「手並み拝見だ。光栄に思え」
突如として炎と共に風が吹きすさぶ。風が止むと、猛々しいライオンが名前の前にどっしりと構えている。
「ベスタ-」
名を呼ばれたライオンは大きな咆哮を放つ。凄まじい旋風が巻き起こり、呼吸はおろか立つ事もままならない。名前は風にのまれ、窓ガラスを突き破って外に投げ出される。
体重が乗り下降スピードが増す中、落下地点を見て態勢を整える。幸い高層階だったようで衝撃を迎え入れる準備は容易い。しかし、着地先には騒ぎを聞きつけた隊員が、吹く数名待ち構えている。
名前はホルスターから銃を取り出し、スライドを軽く引いてから両手で構える。発砲と共に両手を強く叩いたけるような音を放ち、弾丸は草の深く奥に潜んでいく。
隊員が僅かに怯む様子を見せている。地面と接触すると、骨の髄まで響き渡るような痛みによろける。
隊員は隙を突かんとばかりに、隊員が一人、名前の背後に回って腕を振りおろす。後退しながら相手の首に右腕を回し、がっちりホールドしてから銃口で頭を殴る。腕を離すすと隊員は力なく倒れる。名前は振り返りながら銃を持つ手に力を込め、二発目を隊員の肩に打ち込む。
炭酸が抜けたサイダーのように態勢を崩す。
名前は俯瞰して地面に雪崩れる先輩の隊員を見遣る。
「あっぶなかったー!」
そうしている間にも人の気配が近くに迫り、身構える。
独特の身を裂くような殺気を感じ、森に身を潜める。
「あっりー? こっちに名前がいるっぽかったんだけど」
迫っていたのはベルフェゴールだった。
ベルフェゴールはどこからともなくナイフを取り出し、適当に投げると、それは的確に名前の方角へと向かい、赤い髪の毛を数本切り落とし、へらりと笑った。
「甘いのは最初だけだし」
名前の周囲に落ちている木の葉がカサカサと音を立てて小刻みに揺れ、一斉に宙へ舞う。同時に名前は足を踏み込み、一気に木々を駆け抜けて上へと登り、銃を構えてベルフェゴールの頭上へと真っ直ぐ向かう。
「お前足速いじゃん」
「そりゃ勿論、挑発するからですよ。捕まったら怖いじゃないですか」
「ほー・・・・・・不安がってるみてーだけどさー。安心していいんだぜ」
歯をむき出しにして笑うベルフェゴールに向かって、名前はトリガーを引く。乾いた銃声の後、金色のしなやかな髪がはらりと舞い落ちる。
ベルフェゴールの動きく速度が増し、見る見るうちにナイフに仕込まれた銀色のワイヤーに囲まれる。
「ちょーっと動けない程度に串刺しにしてやるから、そこで待ってろ」
「やです。待ちません」
名前は視線を僅かに動かし、どこか隙間は無いかと思案する。
「ったく気が短い女ですねー。ネッ先輩」
ベルフェゴールの頭上から現れたフランが、前髪で隠れた目元を両手で隠す。
「邪魔すんじゃねーし! こんのクソガエル!」
怒りを買ったのか、ベルフェゴールはフランに大量のナイフを差し向ける。
「いででっ酷いじゃないですかー? 可愛い後輩の無邪気な遊びに付き合って下さいよー」
「誰がお前と・・・・・・って名前いねーし! マジありえねーし!」
結局、散々な邪魔のお陰で休暇を得たのはフランだった。
「ミーの部下なんですからミーが確保するのは必然ですんでー」
誇らしげなフランに、ヴァリアーの士気は一気に下がった。