添えるはアネモネ
スニオン岬を目前とした寂れたギリシアの大地に一軒の建物があった。
裏手には、草むらに埋もれるように二つの十字架がある。
向かいには、杯の彫刻がなされた銀の箱、聖衣箱がある。
それをやさしい手付きでそっと触れる。反して目付きは鋭い。
ぎりり、と歯軋りが小さく響く。
乾ききった唇、しなやかな体躯は程よく筋肉がついているが、黒いローブによって隠されている。
ビリジアングリーンの鋭い瞳が、聖衣箱を見つめる。眼光には恨めしさを含んでいる。
聖衣箱は何かに共鳴するように光を帯び、箱が開く。中には聖域で行方不明とされているクラテリスがそこにあった。
クラテリスは宙に浮いた後、ゆっくりと大地に舞い降りる。
杯の中は空だ。
しかし、空だった杯が、みるみるうちに水に満たされていく。
当たり前のようにそこにローブ姿が映し出される。
唇を強く噛み締め、端から血がにじむ。
目深にフードを被り直した頃には、クラテリスの水は空になっていた。
場所は移ろい、ローブの者は聖域の入り口に立っていた。
背には杯が彫刻された聖衣箱を背負っている。が、それはローブに隠されている。
門番を任されたらしき雑兵が、怪しげに佇むその者に食らいつくように立ち塞がり、ほんの瞬きほどで地面に倒れる。
怪しげなその姿は、一歩、また一歩と聖域に足を踏み入れる。
そのうち宮に差し掛かる。
宮の主は不在、不在、不在続き。
その全ての入り口には金色に輝く聖衣があるばかりだ。
警備は弱い兵がいるだけで手薄だった。
ローブの姿はものの数秒で教皇の間に辿り着く。そこで漸く強靭な人の気配があった。
教皇の間の扉を開く。
重厚な音を立てて開いたそこに、青銅を身に纏った姿が見てとれた。その中心には美しい藤色の人、アテナが立っていた。
青銅を身に纏った者共は警戒の色を露にするが、アテナはそれを制した。
「よく来てくださいました」
聖母のように笑みを浮かべるアテナは、ローブの者を歓迎して見せる。
「何を今さら」
ローブ姿の者の声色は、男とも女ともつかない。
「聖戦は終わった。私に用など無いはずだ。アテナ」
「ええ、聖戦は終わりました」
「聖戦は黄金全員の命と冥界の存在を引き換えに終わった。貴方がくだらない愛を語るばかりに、冥界は存在を失った」
そこまで言って、ボロボロの聖衣を纏う星矢がアテナの前に出る。
「お前は冥界のヤツか?!」
「いいのです星矢」
「あんなに言われて腹が立たないのかよ!沙織さんは!」
「・・・彼女もまたこの聖戦で大事な人を失ったのです」
名前はここを訪れてからと言うもの、平静の仮面を張り付けていた。
しかし、アテナの一言に目付きに鋭さを含み始める。殺気が放たれ、つられて青銅達が身構える。
「話はそれだけか」
「お待ちください。アテナ神殿へ参りましょう。星矢達はここで待っていてください」
「そんな危険な事ができるかよ!」
「彼女は、名前は危険などではありません」
ローブ姿の名前は、アテナに導かれアテナ神殿へと向かう。
「余計なことを」
名前は忌々しげにアテナの後ろ姿を睨み付ける。
「彼等がいなければ聖戦を制することは難しかったでしょう」
「その代わり、黄金聖闘士はいなくなった」
「ええ。貴方が伝えてくださった通りに、痛ましい代償を受けました」
長い階段を経て、アテナ神殿にさしかかる。そこにアテナ像はない。
「犠牲が多すぎた。聖域はとうに機能していない」
「まだ白銀や青銅の皆が居ます。いずれ彼等が未来を育むでしょう」
「アテナは神として覚醒しても中身は変わっていないな。最低で、残酷だ」
「名前、どうか聖域に」
「クラテリスは後の聖戦を映していない。だからあれは返して私はここを出る」
「なんということを…!」
「私はアテナに忠誠を誓うのをやめている。最後に墓参りくらいはさせてくれるだろうか」
名前は忍ばせていた赤い花束を二つ、大事そうにアテナの前に差し出す。
アテナは憂いを帯びた眼差しで頷く。
「私が案内致します。彼らのもとへ」
名前は悲しげに笑いながらアテナの申し出を受ける。
程なくして、小丘が見えてくる。足音だけが響くそこには、生ぬるい風が吹いていた。
あの頃の私は、こんな日が来ることなんて思いもしなかった。
一歩、また一歩と現実に歩み寄る度に昔のことが頭にちらつく。
それは幸せな日々だったと思う。
「ねえ、ねえ、今週はお休みないの?」
若くして黄金の位を頂いたサガは、詰め寄る白銀の聖衣箱を背負った名前に優しく笑みを漏らす。
「丸一日は無理だが、近々教皇任命式がある。それに鍛練もせねばならないからな」
「束の間だなあ」
「寂しくさせてすまない」
そう言ってから、名前の頬にキスを落とす。
一度したら止められないもので、次に瞼、額、唇の端にキスの雨を降らす。
名前はくすぐったそうに身を捩り、はにかみながら笑う。
「その分、教皇が任務を軽減してくださったのだ。休息も必要だとな」
「珍しいねえ、いつもなら缶詰なのに、飴と鞭ってやつかなあ」
名前は間延びした喋り方をしていた。
うんと背伸びして白銀の聖衣箱をその場に下ろし、その上に座る。名前は常にマイペースで、笑顔を絶やさなかった。
サガは名前の頭を優しく撫で、跪いて手の甲にもキスを落とす。
サガの手が離れたと思いきや、名前はゆったりした動作で草むらに寝転がり青空を仰ぐ。そして、人差し指で空いている隣をトントン、と叩く。
するとサガは誘われるがままに名前の隣に寝転がった。
暖かい風は気持ちよく、今が平和そのものであることを実感できた。
「こうしていられるのもあとどれくらいなんだろうねえ」
「アテナがお生まれになられたから、数年、数十年したら聖戦が始まるだろう。そうなった時はアテナと名前はこの私が命に変えてもお守りする」
「クラテリスは纏うものじゃないし、大して戦えないから悔しいねえ」
「とはいっても、纏わずとも強いではないか?」
「腐っても聖闘士だからねえ」
ふああ、と欠伸を漏らす名前は、ごろんと体ごとサガに向き直った。
「ねえサガ。愛してるからねえ」
「先手をとられてしまったな」
サガはそっと名前の頬を擦り、額をくっつけた。
「私も名前を愛している」
そのまま触れるだけのキスをした。
それが表での会話としては、最後となった。
教皇任命式の後、サガは行方をくらませたと見せかけ教皇になりすましたことを、名前は気付いていた。
配下となるにはそう時間は要さなかった。
最初こそ闇に蝕まれたサガが名前の首に手をかけようとしたが、名前は忠誠を誓った。
愛すべき人が近くにいる、それがどんな歪な形でも、名前にとってはどうでもよかった。
ある時、闇に蝕まれたサガに聞かれたことがある。
「お前の正義とは何だ?何故アテナを手にかけた私を受け入れる?」
名前はそれに対して「サガはサガだし、教皇は絶対でしょー?」と飄々と答えて見せた。
サガが誰を殺そうと構わない。どんな理由であっても、愛したサガと居られれば良かった。
ふとした時に良心の、いつものサガに戻った時に、頼りなく泣き崩れた姿を見たその日から罪を共に背負うと決めた。
サガが心に刻んだ傷を本の少しでも和らげればいい。いつか再び日の目を見られるときが来るまで。
しかし願いは最後まで叶わなかった。
大人になったアテナが降臨し、サガが自害し。
そんな頃、大切な人を失った私は聖戦の行方をクラテリスで知った。それをアテナに託し、名前は行方を眩ませた。
思えば現実から逃げたかっただけかもしれない。
サガだけが全てだった聖域が失われた事が、ただただショックだったのかもしれない。
名前は小丘の頂きに立ち、見下ろす限りの墓標を呆然と眺める。
現実がすぐそこにある。
花束をぎゅっと握りしめ、アテナを静止し、誰にも知らされていないはずのサガの墓標に真っ先に向かう。
あれから表情を失い、感情の表現の仕方まで忘れてしまった。
いつまでも拭えない喪失感は、心を確実に蝕んでいた。
聖域を去ってからも、クラテリスは教えてくれた。
サガが死してなおアテナに償いと忠誠を誓っていたことを。
名前は真新しい墓標に刻まれた彼の名を見て、無表情のまま花束を一つ放り投げる。
そして背負っていたクラテリスの聖衣箱を墓標の前に下ろし、そこにもう一つの花束を置く。
「あっという間だなあ」
突然変わった名前の間の抜けたような口調に、アテナは内心驚きを隠せなかった。
しかし名前が振り替えれば、先程と変わらない無表情のまま。
「アテナには手間をかけた。私はお暇する」
「貴方はそれで良いのですね?」
サクサクと音を立てて丘を登る名前は、アテナとすれ違い様こう言った。
「願わくば、彼の願ったこの世の平和をどうかー…」
小さすぎる声は震えていた。語尾はアテナには聞こえなかった。
「お待ちください!!それでは貴方はー…」
振り返ったアテナだが、そこにはもう誰もいなかった。
人知れず、アテナな清らかな涙を溢し、その場に崩れ落ちた。
アテナが最後に見た、名前の目には一筋の滴が垂れており、どこか諦めにも似たものが含まれていた。
その後、アテナは財団の総力をかけて名前を捜索したが、手懸かりが掴めぬまま、月日だけが刻まれていった。
アネモネの花言葉:消えた希望