夢は夢だから輝く
夕焼けが辺りを朱に染める。
コロッセオで修練に励む雑兵達がぽつぽつ居なくなっていく。
それでも白銀の名前とミロの二人だけは、うっすらと汗を流しながら真剣に組手を止めようとはしない。
残った雑兵のうち、一人が歓声をあげる。
それを皮切りに雑兵達が一斉に組手に励む二人を食い入るように見やる。
組手をしているうちの一人、名前は片手で顔を隠しており、仮面が遥か先に転がっている。
勝敗は決したと思いきや、名前は片手で顔を隠しながらミロの足に蹴りを入れる。
それは誰の目にも悔し紛れで、ミロ自身も避けようとはしなかった。
「くやしいー!!」
「仮面を剥がしたんだから今日の飲み代はよろしくな!」
これは組手という名の賭けだったのである。
先に宣戦布告をしたのは名前だが、賭けを上乗せしたのはミロだ。
ミロが非番の時は必ずと言っていいほど行われる賭けは、時に聖衣不要の激突勝負だったり、早く水を飲み干した方が勝ちだったりと、くだらないものまで様々だ。
「名前さんの素顔が見てみたい」
雑兵の誰かがぽつりと呟いた。
「私に殺されたい奴はどいつ?出てきなさい」
勿論名乗り出るような正直者がいるはずもなく、雑兵は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「俺も見てみたいんだけどな」
ミロは両手を頭の後ろで組み、口笛を吹く。
仮面を取りに行ってる名前の尻を凝視する。
「安産型のいい尻だ」
「何か言った?」
「いや何も。それより素顔ってどこからが素顔なんだろうな」
「顔の全部でしょう」
「なーんだ、目だけならちろっと見えたのに」
名前はミロの膝の裏を思いきり蹴りあげる。
その場にしゃがみ膝を折るミロは、完全におふざけムードだ。
「いつかスコーピオンの席を剥奪してやる……!」
ミロははいはい、と名前の肩を叩き、夜に待ち構える酒の席に思いを馳せる。
名前には夢があった。
白銀から黄金への昇格。
明確な道筋も方法も明らかではないが、そのためにミロに絡んでは特訓を申し出る。
ミロには軽くあしらわれているが、名前は戦いの最中目で追うのがやっと、と言うほどまでに実力は上がりつつある。
手を抜かれているのは明白だが、それでも進歩は進歩だと、地道に打倒ミロを目指す。
そうなったのも、過去に遡る。
教皇の間を目指すミロが光速で十二宮を独走しているとき、不運にも名前はミロにぶつかった。
当時は青銅だった名前にミロの動きが見切れる筈もなく、あっけなく。
しかもその際に仮面を割られている。
素顔こそ見られてはいないものの、屈辱という名の怨みは今なお名前に息づいている。
それが今や情けないことに、最も酒を飲み交わす仲……というのも不本意だが、現になっているのである。
すっかり夜も老け込み、私服に着替えた名前は口元が拓けた仮面につけかえる。
奇しくも飲む機会がすっかり増えたせいで、特注で新しい仮面を作ったのだ。
待ち合わせである聖域の入り口へと向かう。
「あんた、またミロに負けたんだってね。黄金様にゃ勝てやしないのに懲りないね」
「煩いわねシャイナ。いつかミロの聖衣を私が剥奪してやるんだから」
「馬鹿は星矢で充分だよ。しかしどれだけあんたは鈍いんだい?」
「何の話?」
「さあね、そのうちわかるんじゃないのかい。さ、黄金様が待ちくたびれるよ」
シャイナはそれだけ言ってさっさと走り去っていった。
名前は怪訝に思いつつ、十二宮を下るとすでにミロの姿があった。
見慣れた私服は悔しいほどに似合っている。
「お……おせーじゃねーか」
「途中でシャイナに絡まれたの。とっとといくよ」
ミロの視線がやけに熱く感じるのを、気にしないことにして早々に行きつけのバーに行く。
聖域近くのバーはいつもながら聖闘士がそこらかしこで飲み散らかしている。
見知った顔ぶれもあったが、それもまた気にせずいつもの席に座る。
ミロは店主に赤をベースとしたスコーピオンというカクテルを二つ頼む。
「何たって私があんたのイメージカラーのカクテルを飲まなきゃならないのさ」
「スコーピオンの聖衣が欲しいんだろ?なら赤ほど似合うものはない」
珍しくまともな発言に、名前はミロを凝視する。
ミロは何故か顔を赤くしてそっぽ向く。
何か可笑しいところでもあるのだろうか。
「いい唇しすぎだろ……」
ミロの呟きは回りの会話にかき消され、名前に届くことはなかった。
飲み始めれば時間がたつのは早いもの、既に出来上がりつつある名前はミロにもたれ掛かるようにして飲んでいる。
これはそろそろまずいか、と察したミロは名前の飲むウォッカを取り上げる。
「私のお酒ー」
「そんだけ飲めば充分だろ」
まだほろ酔い程度のミロ。いつも酔いつぶれるのは名前だ。
「店主、悪いが水と勘定を頼む」
組手の約束はどこへやら、カウンターに突っ伏して拗ねる名前を余所にミロはさっさと勘定を済ませ、水を名前に飲ませる。
すっかり出来上がって馬鹿舌になった名前はそれを酒だと思っているのだから質が悪い。
しかしミロはまんざらでもなかった。
普段は見せないような姿の名前が、ここにいる。
ミロへ名前と肩を組み、引きずるように外に出る。
ひんやりとした空気が火照った体を心地よく冷やしてくれる。
ほんのちょっと、いやかなりミロは葛藤していた。
あろうことか名前はミロの首に腕を回している。
理性がいつまでもつかわからない不安に、ミロは苛まれていた。
「んな事やってると仮面外すぞ?」
「やってみなしゃいよ」
呂律が回っていない名前に、理性の糸が一つ弾ける。
ミロは名前の仮面をそっと外す。
今日の組手で目にした瞳と、露になった唇が想像したよりも愛らしく、ミロの理性がまた一つ糸が弾ける。
「ミロにとられた……」
拗ねる子供のような名前は最早ただの酔っぱらい、と言えど素早くミロの双眸を塞ぐ名前は、己の本分まで見失っては居ない。
この調子だと明日は記憶が飛んでいるだろう。
ミロはそのまま名前の唇を奪う。
ミロは艶やかな唇を堪能しながら、足りないとばかりに深く食いつくように貪る。
やけに素直に唇を受け入れているかと思えば、急に視界が開ける。
腕の中で力なく垂れた名前は目を閉じており、一定のリズムで呼吸を始めている。
今なら全てを奪えるんじゃないか、と理性が語りかける。
「黄金様の名が泣くな……」
最後の理性の糸を保ったのは、今はあどけない表情を晒す、記憶の中の名前の口癖だった。
いつの間にか唇を奪っている最中に眠りに落ちてしまったらしい。
ムードもへったくれもない、と内心へこんだが、持ち前の根性で直ぐに持ち直す。
もしこれが素面のまま己を受け入れたなら、きっと理性など紙切れのようになってしまうだろう。
飽きることなく真っ直ぐに立ち向かってくる名前の姿に見惚れた。
発端は不慮の事故ではあるが、その時本人は素顔を見られていないと思っているが本当はあの時に、見てしまっている。
それはミロが上手く茶化したことで、名前の怒りを買うことになり、現状を作っている。
だからこそ名前本人は既に顔を見られている事を知らない。
この気持ちは女神の掟を知っているからでもなく、仮面に隠れた端麗な容姿に惹かれたというでもなく、純粋な瞳が映し出す輝きが気に入ったなど、言えたものではない。
だからこそ幾度となく申し込まれる決闘すれすれの組み手には必ず反応する。
そして必ず仮面を割ってやる。
組み手の時だけ垣間見れる、綺麗な瞳が怒りに染まってるとはいえ自分だけを映しているのが、たまらなく嬉しいのだ。
敗者が酒を奢る、というのもミロが酒好きを名目に、ただ単に肌や少しでもいつもと違う名前を頭に焼き付けたい一心だった。
間違っても他の聖闘士など呼びはしない。
「今日はお前に免じて我慢してやるが、次は堂々と落としてやるからな」
寝息を立てている名前はミロの思いなど露知らず、すやすやとミロの腕の中で深い眠りについている。
ミロは再び仮面をつけ直し、名前を寝室まで運ぶ。
今度こそは、と思いを馳せながら。