>確かに掴んだもの
しんと静まり返った夜枷は闇を地上に落とす。
聖闘士候補生であるアナスタウロオーは眠りに落ちることなく、どこかで弾ける衝動をひたすら感じていた。
それはとても情熱に満ち溢れ、揺ぎ無い意思を持った小宇宙。ほぼ毎晩のように聖域に充満する小宇宙に、アナスタウロオーは筋肉痛だらけの体を起こす。
こんな時間だ。知ってはならないかのような錯覚すら覚えるが、それでもこれだけ小宇宙に満ち溢れた聖闘士の溜まり場でこれだけの力を持った聖闘士が居るなど、鍛錬場では感じたことがない。
しかし一つ引っかかることがある。
アナスタウロオーは何だったかな、と思考を凝らすと小汚い濁声の雑兵の言葉が頭を過る。
『忌み子の聖闘士とも呼べない、アイツは目障りだ』
『凶星に生まれたって奴だろ?』
『そ。これからアイツをとっちめに行かねーか?』
『乗った!』
鮮明に思い出したそれは下種極まりない。品性の欠片もない。
聖闘士になれなかった人は皆ああなってしまうのだろうか、と一瞬考えたが、いつも訓練をひっそりと見てくれている先輩のような人は、聖闘士になれなくても兵長として凛とした眼差しで候補生達をいつも見てくれているし、面倒見もいい。
それを思うと、この聖域はてんで狂っている。
聖域に携わったものは一歩足を踏み外せば、粛清される。
いつかあの雑兵たちが粛清されることを切に願い、あわよくば己がそう出来るだけの力を一日でも早く手に入れたい。
アナスタウロオーは自己の思考が徐々にずれている事にも気付かず、うーん、と唸り背伸びをして布団を被る。
一日でも早く尊敬する聖闘士になる日を夢見て。
高く日が上ったある日、毎日欠かしていなかった鍛錬場で何度も組み手をした。今日は黄金聖闘士達が組み手の指導を行っており、普段から怠慢している者達ですら躍起になって体を動かしている。
たまにはいい刺激だな、と思いながらアナスタウロオーは自分の腕を見てくれる黄金聖闘士の顔をじっと見つめる。相手は双子座の聖闘士、アスプロス。
自分より年下に目を向けられるのは忍びないが、小宇宙は実力を物語っている。ここは聖域、実力と知性、そして何よりも意思の強さが全てなのだ。
「随分と成長したな。これならばお前はいつか女神のお導きに身罷られるだろう」
「ありがとう・・・・・・ござ、い、ます」
「大丈夫か?体も泥だらけだ、水場で洗い落としてくるといい。組み手の時間も終わる頃合だからな」
アスプロスとの組み手が終わり、すっかり疲弊し地べたを這いずるアナスタウロオーを、アスプロスが優しく抱き起こす。
そう、黄金聖闘士との組み手となればアナスタウロオーは必ず双子座の聖闘士が担当だった。これも何かの縁なのだろうか、と今なら思う。
水場へと向かう途中、道から反れた場所から嫌に響く濁声が聞こえる。
『凶星の坊やがまた昼間に鍛錬場に来ていたらしいな。アイツに身を弁えさせねーと、先輩の俺達がな!!!』
いつぞやの雑兵だった。
嫌な予感がし、アナスタウロオーは小宇宙を出来る限り抑えて雑兵を尾行する。
どんどん鍛錬場から離れた、候補生達には凡そ縁のない岩場に出る。岩場の奥は絶壁、それもかなりの亀裂が入っており復興が必要かと思わせるほどに凄惨な跡があった。あれだけの跡をつけられるのは黄金クラスの聖闘士くらいではないだろうか。
アナスタウロオーは息を押し殺して、岩場の影からそっと雑兵に視線を送り続ける。それは衝撃的な光景だった。
青い髪をした少年の、髪の毛が引き千切れんばかりに振り回す。それだけではない、腹に蹴りまで入れている。雑兵のしている事はただの虐待といってもいい。
ぷつん。
「何やってんだあんたら」
理性のタガが外れ、考えるよりも前に手が出ていた。相手は二人、自分は一人。
とはいえずっと憧れの双子座の聖闘士に手解きをして貰っていたアナスタウロオーは、自身があるとは言えないがそれなりに力をつけていたつもりだった。
振り返った雑兵はぐにゃりと表情を愉しげに歪め、新しい標的が見つかった―――そんな顔をしていた。それがアナスタウロオーの苛立ちを一層煽る。
「聖域で何やってんだよ・・・!それも、こんな少年を相手にさぁ!」
アナスタウロオーは小宇宙をありったけ集中させ、少年に当たらぬよう雑兵の顔目掛けて拳を放つ。顔面で拳を受けた雑兵はものの見事にその場でふらりと体を捩じらせながら倒れていく。
「怪我はな―――」
アナスタウロオーは少年の顔を見て言葉を詰まらせた。
『忌み子の聖闘士とも呼べない、アイツは目障りだ』
『凶星に生まれたって奴だろ?』
この子が、凶星に生まれた、人知れず名も知れず、孤独に身を置いている少年。彼はなぜかは知らないがマスクをしている。
見た目はあからさまに無残で、体のあちこちに殴られた跡がある。しかしこの少年からは、凡そ雑兵などにやられるような小宇宙など感じなかった。膨大で、眩しい、それいで決意に満ちた、ずっとずっと気になっていた小宇宙。
「あ、ありが、とう、ゲホッ!しかし俺に構うな、お前まで・・・」
「酷い傷なんだから喋っちゃ駄目」
先ずは自分の服の切れ端を破り、できるだけ丁寧に少年の血を拭う。
少年は困惑し、あれこれと騒ぎ立ててはいるがアナスタウロオーは一切無視して治療に専念する。
体の止血は大体終わり、いつも止血に使っている塗り薬をここぞとばかりに塗りつける。更に己の服をビリッと小気味いい音と共に破り、特に酷く出血している腕に巻きつける。
服を破くたびに肢体が危うく見えるか見えないか、と言った所だがアナスタウロオーは気にしないが少年は視線をさ迷わせ、明らかにうろたえる。
「あっ・・・・・・」
少年のマスクが、はらりと地面に落ちる。アナスタウロオーはマスクの無くなった少年の顔を、呆然と見つめている。顔が、双子座のアスプロス様と瓜二つだった。しかし血に塗れたそれは痛々しいものにしか見えず、アナスタウロオーは再び自分の服を破る。
「何故俺のためにそんな事をする・・・?このマスクが取れた今ならもう解っているんだろ?俺がアスプロスの弟にして凶星に生まれたデフテロスだと」
「こんなになっている人を放っておける訳がないじゃないですか。凶星だとか、そんなのはどうでもいいんです」
デフテロスはアナスタウロオーの真っ直ぐな眼差しに、射抜かれたかのように動けなくなる。その瞳はすぐに悲痛なものに変わり、頬をぐいっと布で血を拭い去る。
「どうして・・・その、デフテロスはやられっぱなしなの?そんなに強い小宇宙を携えているのに・・・・・・」
デフテロスは目を大きく開け、その場に固まった。
「俺が反旗を翻せば、兄さんの立ち位置が危うくなってしまうから・・・・・・」
「じゃあ、さ。こんな事が起こらないようにまた来るよ」
その言葉にデフテロスの瞳に輝きが戻る。
「しかしそれでは君にまで危うい立場に・・・!」
「私まだ聖闘士候補生だけどさ。こんな風に聖域が乱れているのは耐えられんだ。立場を利用して・・・こんな風にデフテロスみたいに傷ついているのを目の当たりにしたなら尚更。だからあなたは私が守り抜いてみせる」
デフテロスは迷っていた。
あれだけ尊敬していた兄以外にこんな言葉を、それも会って間もない女聖闘士候補生に言われるなど、思っても居なかった。
雑兵たちに虐げられ、逃げるように身を隠す日々。
そんな中、この女聖闘士候補生はデフテロスに心の救いを与えた。たった一言、それだけで。
胸がざわつく。これを何と形容したらいいのか。
「君の名前を教えてくれないか」
「アナスタウロオー」
「・・・・・・このマスクが必要なくなるよう、俺は・・・聖域に認められるその日まで頑張ろう。アナスタウロオーのお陰だ」
痛々しい傷跡はさておき、デフテロスの表情は晴れ晴れとしていた。
影と言われなくて澄むように。
ありのままの自分で居られるように。
それにはアナスタウロオーが必要だと、心の奥底で渇望していた何かが、ほんの少し解った気がした。