遅い朝
時計の針は午前十一時を指している。
小窓からは眩しすぎる陽光が照り付け、シングルのベッドの上で布団が動く。
名前はもぞもぞと這い出て、時計を見るなり顔面蒼白になる。
他の女官の寝台は当然もぬけの殻だ。
慌ててバスローブを脱ぎ去り、正装に着替えるまでに五分。
ああ、まだ頭がくらくらする。
名前は気合いを入れ直し、普段より遥かに遅い仕事へと向かう。
行く先は双児宮。
やたらと長く感じる廊下を慌ただしく駆け抜ける。
「遅い」
執務を適当にこなしながら、名前が仕えるカノンは開口一番に吐き捨てる。
明らかに不機嫌な声色。米神に青筋をたてているその様子に、思わず体が強張る。
「申し訳ございません!」
深すぎるほどのお辞儀を何度もし、頭はより一層ぐらつく。
「・・・・・・もういいから、茶を持って来てくれ」
未だ不機嫌冷めやらぬ様子のカノンはぶっきらぼうにペンを置く。
取り急ぎキッチンスペースに向かい、湯を沸かす。
「あわわ・・・・・・カノン様を怒らせてしまった」
兄であるサガとの喧嘩以外に見たことのない形相に、心臓が嫌なくらい脈打つ。
うっすらと冷や汗が吹き出す。
いつの間にか沸いていた湯でカップを暖める。合間にいそいそと茶葉を棚から取り出し、ティーポットに適量入れる。
いつもなら毎朝やるべき仕事だ。しかも密かに想いを寄せている相手なのだから、平静ではいられない。
そろそろカップが暖まる頃かと、張っていた湯を捨てようとした矢先、指が震えてカップが床に落ちる。
手際の悪い己を呪いながら、欠片を一つ一つ拾い上げる。
「いっ・・・痛ぅ・・・・・・」
あろう事か、カップの破片で指を深く切ってしまった。
鮮血がぽたりと床に落ち、慌てて水道の蛇口を捻ろうと立ち上がる。
「今の音は何だ?・・・・・・って、怪我してるじゃないか」
いつの間にか近くにいたカノンに己の失態を目の当たりにされ、目眩がしそうだった。
「かなりの出血だが、大丈夫か?」
「はっはい・・・・・・床を汚してしまって申し訳ございません!」
「そうじゃなくて」
カノンは名前が怪我している方の手を握る。
その表情は相変わらず険しい。
叱咤される事を覚悟し、目をぎゅっと瞑る。
しかし、言葉はなかった。
拾い上げたカップが手から落ち、更に細かく割れる音がする。
変わりに指先に生暖かく、ねっとりとした感触がする。
驚いて目を開くと、カノンが指に付着した血を自身の舌で舐め取っている光景。
名前は驚きと羞恥のあまり頬を紅潮させ、絶句した。
官能的な光景に肌が栗立つ。
執拗なまでに与えられる刺激に、名前は全身がカノンに支配されたような錯覚を覚え始める。
ゆっくりと唇が離れた頃には、傷一つないまっさらな肌に戻っていた。
小宇宙を使って治してくれたのだろう。
しかし、心の奥底では物寂しさを感じていた。もっと触れて欲しいと貪欲な自分が顔を出す。
礼を言おうとカノンを見ると、眉間には先程より深い皺が出来ていた。
「あまり慌てなくていい。ただでさえ名前は間抜けなんだから」
表情とは裏腹に、声色は穏やかだった。
「申し訳ございません」
カノンは何かを考えるように顎に手を添え、名前を一瞥すると広角を吊り上げる。
「そうだな。遅刻してくれたし、備品も壊したな。罰を受ける覚悟は当然あるんだろう?」
概ね予想出来た答えに、がっくりとうなだれる。
何を与えられるのだろうか。
きっとスパルタな仕事を要求してくるだろう。そう思わせるほどにカノンは意地が悪かった。
「因みに言うと執務はとっくに終わった」
名前は愕然とした。
何しにここに来たんだと内心で自分を叱咤する。
気が付くと視界がぼやけていた。涙で前が見えない。
「午後の予定はない、という訳だ。つまり名前は仕事らしい仕事をしていないな」
「はい・・・・・・」
「決まりだな。私服に着替えて戻ってこい。そうしたら俺の気がすむまでアテネ市街地に付き添ってもらう。いいな?」
名前は耳を疑った。
カノンは相変わらず意地の悪い笑みを浮かべている。
息を吸うのを忘れて、呆然としていた。
つまりそれはデートではないか。
「そんな罰で許されるのですか?私はてっきり・・・・・・」
「虐められるのが好きなのか?そいつは知らなかった」
「なっ・・・違います!」
「んじゃ早く行ってこい。俺は気が短いから、光速でな」
そんな無茶な、と思いつつもこれからの事に想いを馳せ、浮かれる心臓は持ちそうにない。