小波に消ゆ


鍛錬も程々に切り上げ…否、サボったカノンは眉間に皺を寄せていた。

運悪く修練場に居合わせたアイオロスと喧嘩になった。
理由は“だらしない”からだそうだ。
己の信条は常に揺らいでいる。いざとなれば兄であるサガに代わり、自身をアテナに捧げるための鍛練。
そんな一生などごめんだと、常日頃から己の宿命を呪った。
表面上だけは周りに合わせたように見せかけ、適当に日々を消化する。
一方でひっそりと悪事に身を染め、腐っていくばかりの欲求が満たしていた。
しかし、それは一部で噂になっていたらしく、面倒な程に正義感の強いアイオロスに担架を切られたという訳だ。

殴られた頬が薄らと痛む。
沸々と湧き上がる苛立ちを左拳に集中させ、身近にあった石柱に全てぶつける。それはあっという間に罅割れ、倒れていった。
双児宮のプライベートスペースに行くと、想像はしていたがサガが居た。
自然と眉間の皺が深くなっていく。
―――お前さえいなければ。
そうは思っても、この世に生を受けた事実は消えない。ましてや血を分けた兄を殺すなど、想像はしても殺すには至らなかった。
僅かばかりでも情がある。それに、いざという時は腹が立つ程に頼れる、唯一の理解者でもあった。

「カノンか。さっきの音は何だ?それに、その頬の傷……まさか、また」
「黙れ愚兄」

石柱にぶつけた怒り、苦悶が再び息を吹き返し、カノンはサガの言葉を遮る。
今度はサガを偽って雑兵を弄り半殺しにしてやろうか。
それではただの当てつけだと、心の中で自嘲を漏らす。

「なんだと愚弟!流石にこの私も黙ってはいられんぞ!」

米神に青筋を立てるサガの背後に、人の気配を感じる。サガもそれに気がついたようで、二人同時に其方に視線を移す。
すると、おずおずと石柱から顔をひょっこりと出す子供が、驚いたようにこちらを見ている。

「えっと…サガ様が二人?」

顔や体、到る所に泥が付着していて、身だしなみは酷いものだ。
ぱっと見、歳は少しばかり下だろうか。
華奢な体は一捻りで壊れそうだと思うほど、線が細かった。

「すまない、取り乱してしまったな。向こうにいるのが弟のカノンだ。唯一無二の双子の弟でな。よく似ているだろう?」

サガは誰にでも向ける【神のごとき微笑み】を浮かべる。
子供はカノンを見るや、丁寧にお辞儀をする。
それが妙に気に食わずカノンは子供を無視する。
サガは横目でカノンを見遣り、ふぅ、と一息ついて子供の元に駆け寄り、抱きかかえる。

「それはともかく、沐浴に行けと言ったではないか、名前」
「サガ様……でも、私には到底見合いっこないです」
「これから君はゆくゆくはここの女官になるのだ。名前も教皇の言葉を聞いていよう」

うろたえる子供―――名前を余所に、カノンはたまらず近くの椅子を蹴りあげる。
名前は分かりやすい程に怯えた表情を見せる。

「こんな孤児とも見紛えるような女が女官とは笑わせる。泥だらけでみすぼらしい餓鬼じゃないか」
「……名前、早く行くんだ」
「でも、カノン様が」
「行くんだ」

サガに諭され、名前は小走りで逃げるように去って行った。

「幾ら何でも子供相手にそれはないのではないか?」
「あんな小汚い餓鬼風情に媚びへつらって何になる。血迷ったかサガ。それとも慰み者にでもするつもりか?」
「なっ……戯言を!」
「俺には無縁だけどな」
「……名前は見習いとはいえ、教皇の勅命で唯一私達二人の顔を見ることを許された人材だ。くれぐれも下手な真似はしてくれるな」
「なら、精々可愛がってやることだ」

そう言い捨てて、苛立ち冷めやらぬまま寝室に向かう。
後ろからサガの怒鳴り声が聞こえるが、無視を決め込みベッドに身を投げ出す。
暫くすると、ふわりと嗅ぎなれた石鹸の香りが鼻孔を掠める。
遠くでサガの叫び声が聞こえたが、知らないふりを決め込む。

「いらつくんだよ。アイオロスと言いサガと言い。さっきの餓鬼にしたってそうだ」

兄のスペアだから俺はこうしてここに居るが、日の目を見ることはそう多くない。
カノンとサガが双子の兄弟という事実を知っているのは、この聖域には一握りしかいない。
それは存在していないも同然だ。
その事実がカノンの心に大きな穴を作っていた。
しかし名前は事実を知らせた上で、ここに仕えるという。
女官や神官、文官でさえ双児宮に立ち入るのは、基本的にはない。しかし名前は違うようだった。
教皇が何を考えているのか、推測しかねていた。
―――調子が狂う。
掠れた声でひとりごち、茫然と天井を見つめる。

「カノン様、先ほどは失礼仕りました」

扉に視線を向けると、キトンを身に纏った名前が立っていた。濡れそぼった髪は艶々としていて、泥が消え去った顔は愛らしく、ぱっちりと大きい黒眼がこちらに向けられている。
一瞬だけ時間が止まったように感じた。
名前は小走りでカノンに駆け寄り、深々とお辞儀をする。

「これから双児宮でお世話になる名前と申します。まだ見習いですが」
「……名前と言ったな」
「はっはい!」
「俺は寝るから出て行け。見習いとはいえ女官となる者なら、主の言いつけは守るものだろう。後はサガにでも構って貰え」

名前は少しの間きょとんとしていたが、花のような笑みを見せてその場を立ち去る。
誰も居なくなった寝室で、盛大に溜息をつく。



常に表舞台に居るサガとは違い、双児宮に籠りがちなカノンは、必然と名前に接する機会が多かった。
最初こそカノンとサガを見間違えることがあり、その度に皮肉を飛ばしていた。
気配の違いで完璧に判別できるようになるまで、多くの時間は要さなかった。
要領は良いんだな、と、それだけは素直に褒めた。
他の女官達とは決定的に違う。

食事の際は双児宮に申し訳程度に据え付けられたキッチンスペースで、名前がカノンの好みを汲んだ上で作っていた。
毎日のように摘んだ花を花瓶に活けていた。それは決まって青みを帯びた二輪の桔梗だ。
ある時「邪魔だからもう活けるな」とカノンが半ば呆れ気味に口にしたら、それが二人を表す決定的な違いなのだと名前は嬉しそうに言った。
意味を問うたら、僅かに花の色が違う。
名前はやや色の淡い方がカノン、濃い方がサガだと言った。
それにどれほどの意味があるのか些か疑問だったが、餓鬼の戯れだと自分に言い聞かせ、徐々に溶けていく心をそっと仕舞い込んだ。

名前はよく喋る。
カノンが外に出られない日は、時に嬉しそうだったり、憂いていたりと実に様々な表情を見せながら、あらゆる話をしてくれた。
相槌だけ打ち、興味のない素振りを見せながら、もっと名前の声を聞いていたいという感情が芽生えた。
名前はサガの前では立派な“女官”らしく振舞っていた。



どれだけ呆けていたろうか。
見慣れた天井ではなく、湿っぽい洞窟の中でカノンは昔のことを思い出していた。
そこはスニオン岬。
カノンはサガによって幽閉されていた。
何者かが地を踏みしめる音が聞こえる。
毎日訪れるそれは名前のものだった。

「カノン様、お食事です」
「いつもすまない。サガに小言など言われてはいないか?」
「大丈夫です。野良猫を飼い始めたと適当に誤魔化してますから」
「俺は野良猫じゃない」
「すみません、他に良い案が無かったんです」

苦笑いする名前は、見紛えるほどに大人になった。
幽閉されてからというもの、事実を知った名前はいつも食事を運んでいる。
牢の隙間は名前の華奢な体をすんなり通す。こうして中に侵入してくるのも、茶飯事だった。

「女とは便利なものだな」
「カノン様が大き過ぎなんですよ。小人になれればこのような牢、容易く出られますのに」

名前は皮肉を口にしながら不安に揺れる瞳をこちらに向ける。
当たり前になった二人の時間は、安らぎを得ると共に心苦しくもあった。
差し出されたトレーに手を伸ばし、波の音を聞きながら食事を始める。

一人でも、満潮になれば魚が牢に入り込んでくる。
食物に事欠くことなど無かったが、十二宮で口にした事のない味に飾り付けは、名前の手料理である事を伺わせる。
それはとても心地よいものだったのだが、ここは潮の満ち引きが激しい。
干潮の時刻である今はいい。しかし満潮になってしまえば帰ることはおろか華奢な名前では一夜ももたないだろう。
そればかり気にして、味わう暇もなく大急ぎでかきこむ。

「そんなに急がなくても、食べ物は逃げませんよ」

相変わらず花のように微笑む名前を余所に、無言で租借する。


「今日も美味かったが…やはりここは危険だ。それに、いつかはこの事実が明るみになった際は名前の身に危険が及ぶかもしれない」
「私は好きでやってるんです。偽善だとしても、この身が危機に晒されようとも、私は双児宮の女官なんです」
「俺はもう双児宮には戻ることがないだろう。名前が仕えるべきはサガだ」
「私が来たいんです」
「そうか。飯、美味かったぞ。じき潮が満ちてくる。帰り道が消える前に帰路へつけ。それにサガも心配していよう」
「もう少しだけここに居させてください。お顔色が優れませんし、体調を悪くされてはこの名前、夜も寝るに眠れません」
「駄目だ」
「そういう強情な所だけサガ様にそっくり」

名前はクスクスと笑いながらトレーを片付け始める。
また明日来る、と言い残してするりと牢をすりぬける。

彼女の存在だけが今の俺にとっては生きる楽しみだった。
名前の身を案じるようになったのはいつからだろうか。
投獄される直前、カノンは日々の憂さ晴らしをひっそりと雑兵に当てつけていた。
どれだけ名前と打ち解けようと、生来の性をかえる術がわからなかった。

牢から出られぬ身となった己を只管悔いる。
この手で彼女を抱きしめたい願望が、日増しに強くなっていく。
それでも思いを告げることは決してしなかった。
代わりに兄への憎しみと、己への劣等感が日増しに加速していく。
あの時に彼女と知りあわなければ。いや、もっと早く彼女を知っていたら―――懺悔の一つも、言えただろうか。
そう思いながら、アテナの封印を解いた品々に手をかける。
明日、彼女が来たら共に海界へと下ろう。
そして、何物にも邪魔されることのない場所で、名前に思いを告げよう。

足下が潮に飲まれるのも、今日で最後だ。

カノンは決意を胸に、海にのまれていった。