「海が見たい」
静かなジュデッカに、絶対君主ハーデスの声が響く。
その場に居合わせたパンドラと名前は互いに顔を見合わせ、目配せする。
なりません、と穏やかな口調でパンドラがいい放つ。
ハーデスは伏し目がちに唇を尖らせ、つまらなそうに玉座に背を凭れる。
地上を忌むハーデスがなぜ突然海をなど…と考えた名前は、素直に質問を投げ掛ける。
すると彼は最近やってきた亡者がやたら海を恋しがり、余暇をもて余したハーデスは聞き相手になっているうちに、長年目にしていない海が恋しくなったようだ。
しかし依り代に逃げられ……否、失った彼が地上に出てしまえば、瞬く間に地上は闇と化してしまうのは明白。
パンドラは単純にハーデスを外に出すと面倒なだけのようで、然り気無く顰めっ面をしている。
ハーデスには前科がある。
やはり亡者の入れ知恵で地上を恋しがった彼が、冥界三巨頭に取り押さえられながらも必死に地上に駈り出ようとしたところでヒュノプスに眠らされ、大惨事を免れた矢先だ。
これはまずいとパンドラ含む冥闘士達の懇願で、見張りとして名前が宛がわれた。
名前は冥王相手にも遠慮をせず、ハーデスもまたそれをよしとしている。
「我が儘ばかり行っているとまたヒュノプスを呼ぶよ」
「ならぬ。ヒュノプスを呼ぶならば余はタナトスを呼ぶ」
「タナトス様を呼んだとしてもハーデスが取り押さえられるのは必須でしょう」
「……それでも余は海が見たいのだ!」
米神を押さえるパンドラは、眉間の皺がどんどん深くなっている。
「仕方ない。名前、お前が海に向かえ。そして写真と……何かしら土産を持ってくるのだ」
「何で私が!」
「監視役ならばパンドラが居るであろう?お前にしか頼めぬ」
ハーデスが何かをぽいっと名前目掛けて投げる。
それをキャッチすると、何故か今時のスマホだった。
つまりそれで写真を取ってこい、という意味らしい。
パンドラと名前は盛大に溜め息を吐く。
「ああなった大本の原因はアテナだな」
「う、うん……」
「早くハーデス様の癇癪を収めて参れ、名前」
意味がわからずにいる名前は仕方なく地上に出向く。
合間にフォルダをぽちぽち漁っていると、海で楽しげに騒ぐ青銅達の動画や写メが沢山保存されていた。
「地上の女神というよりは、地上の悪魔だなぁ……ハーデスのどアホー!」
その声は冥界中に木霊し、偶々それを耳にしたラダマンティスもまた、溜め息を吐いた。
地上に辿り着いた名前は、まず先に大失態を犯していた。
なぜならばそこは聖域の中。
守護者の居る宮の、あろうことか寝室に降り立っていたのだ。
因みに主は寝ているらしい。
うろ覚えではあるが、青い髪のサガかカノン、そのどちらかだ。
名前はテレポーテーションがとにかく下手だった事を実感する。
「(また間違えた……)」
そうっと寝室を出ようとすると、寝ていたはずの主が名前の肩をがしっと掴んだ。
「お前は冥界の奴だろ」
「ええっと、サガ…?」
「この間冥界に間書を手渡しただろうが!忘れるの早すぎだろ!?というか聖域に何用だ!」
唐突に投げ掛けられる罵声やら何やらに、名前は困惑する。
前にミーノスに双子の見分け方を教えられた。
兄のサガはワーカーホリック故に目の下に隈があり、弟はない。
目の前に居る人物は隈がある。つまり。
「わかった!やっぱサガだね!」
「違うわ馬鹿めが!俺はカノンだ!」
光速で頭をバシーンと叩かれたが、加減をしてくれたようであまり痛くない。
「うっそカノン?!だってミーノスがカノンには隈がないって言ってたよ」
「海界と聖域の往復をしているのだから俺だって隈ぐらいできるわ!ええい、星々の砕け……」
ギャラクシアンエクスプロージョンの構えを目の当たりにした名前はストップをかけるべく、スマホをカノンに見せる。
「何だこれは?」
「ハーデスが海に行ってこいって……それで間違えてここに来ちゃったのごめんなさいでしたー!はっはー殺るがいいさ!私を始末したらハーデスの怒りの鉄槌を受けるけどね!」
我ながら何をいっているのかわからない名前。対してカノンは構えを解き、顎に手を当てている。
「この間の写メか……海にいく、それだけか?」
「テレポーテーションに失敗しただけで、行き先はこの海の予定だったの!」
「お前みたいな奴でも冥闘士になれるんだな、ハーデスが慈悲深いというのは本当らしい」
二重に冥界の恥を晒す事になっているわけだが、この際どうにでもなれだ。
「それならば案内してやってもいいが……お前のせいで目も覚めたしな。お前のせいでな」
「に、二回も言わないでいいから!」
痛いところを悉く突かれ、ぐさりと胸が痛み顔を背ける。
カノンはアンティークの箪笥をがさごそと漁り、小さなバッグにそれを入れる。
それを渡され、名前は頭にクエスチョンマークを浮かべるも、カノンは待ってくれない。
「俺に掴まっとけ」
カノンに言われるがままに、腕にがっしり掴まる名前は少し緊張していた。
何分頭が固い者ばかりな冥界とは違い、カノンはその正反対。
ユニークな割には誠実でストレート、名前にはそう映っていた。
名前は心臓が早鐘を打つのを気のせいだと思いながら、気が付けば風景はスマホの写真通りの場所に移り変わっていた。
その正確さに関心と尊敬を含めた眼差しをカノンに送ると、当然だとばかりにしたり顔をしている。
「すっごぉ!一発だよ!一発で!」
「当たり前だろ…寧ろお前みたいな奴でもハーデスの勅命を受ける方が驚きだ。ま、野暮用程度だろうがな」
「何をー……?!って、あれ?」
「あ、アイツ最近見ないと思ったらここに居たのか」
それは度々パンドラから話を聞かされる一輝の姿だった。
どうも一輝を気に入っているようで、耳にタコができるほど話は聞かされるし、何度かハーデスの使いで対面した事がある。
「おい、一輝!」
「喚かずとも小宇宙でわかっている……その女は」
「あ、ひさしぶり……」
実は名前の密かな想い人でもあった。
まさかの展開にどぎまぎする一方、カノンは先程渡したバッグを開けろと促す。
怪訝に開くとそこには際どい水着があった。
「お前、一輝が好きなんだろ?」
カノンはにやりと笑いながら耳打ちすると、名前は悲しいほど正直に耳まで赤く染まった。
それを傍観する一輝は眉を潜める。
「着替えはあっちの岩場でな。あとスマホ貸せ、俺がカメラマンになってやるよ」
最早思考が正常に働かない名前はカノンの言いなりになるかのように、岩場で水着に着替える。
それにしても際どい。
紐だけで止められた水着は、体をギリギリのラインでしか隠してくれない。
こんな姿を世に晒してしまうのか。あくまで聖闘士しかそこにはいないのだが。
「き、着替えたけど……カノン、これ……」
「よく似合ってる」
先に言葉を出したのは一輝だ。
お世辞でも好きな人にそう言われると悪い気はしない、が問題は一輝がカノンを酷く睨み付けている点だ。
そこで後ろからパシャリ、と音がする。
「まずは一枚!一輝、名前はハーデスの使いでここの任されたんだそうだ。そいつとよろしくな」
「何で俺が……仕方あるまい、遠泳で勝負だ」
そうして始まった一輝とのバトルは楽しいもので、いつの間にかカノンが用意していたビーチバレーや浮き輪などを用い、心踊る時間が過ぎていく。
その全てが一輝の勝利ばかりだが、お互いまんざらでもない。
どこかから聞こえていたカメラ音もいつしか気にならなくなっていた。
気が付けば日がくれ始め、最後にとカノン、一輝、名前の三人で最後の写真を収めた。
いつもは顰めっ面な一輝も、今日はなぜか優しい顔をしていた。
「気が向いたら今度は遊びにこい。歓迎してやる」
一輝の言葉が深く深く胸に残り、暖かな気持ちが一瞬で点火する。
傍観するカノンは、わかりやすい反応だなーなどと呑気に考えながら名前にスマホを返す。
「海に行きたい!行きたいのだ!」
写真を見たハーデスの海病は、より悪化した事は言うまでもない。
更に一輝だけが写った写真を現像してこいとパンドラの依頼で、再び一輝に会うのはまた別のお話である。
自重しないあとがき
映画化記念フリリク企画第三弾は「一輝兄さんと甘々で」という設定の元、書かせて頂きました。逆ハーなのか何なのかよく分からないカオスぶり。