春風吹きすさぶ城戸邸の庭にあるチェアに、名前はひっそりと頬杖をついてお茶を嗜んでいた。
元気というものがごっそりと抜け落ちた、その姿たるや非常にやつれている。
それを偶々瞬が見かけ、名前に声をかけた。
名前は瞬を見つけるなり抱きつく。
表情を伺うと名前の瞳には今にも零れ落ちんほどに涙で潤んでいる。
一体何があったのかと問うと、遂には涙がほろりと名前の頬を濡らす。
いつもなら強気で元気溌剌とした名前の姿からは想像もできないほどに、原形をとどめていない。
それをひっそりと遠目で見つめる男、一輝の姿があった。
いつも名前とはやや離れた場所で、いつ何があっても駆け付けられるように、こうして見守っている。
なぜならば名前は一輝にとって大事な恋人である。
それが弟である瞬の胸に飛び込んだものだから、一輝は内心はらはらしつつも手出しは無用とばかりに傍観している。
最愛の恋人に、最愛の弟。
一輝は複雑な思いでじっと様子を伺う。
「それがね、瞬ちゃん…最近一輝が冷たい気がするの」
「兄さんが冷たい?」
瞬の中には一つ思いあたりがあった。
一輝自体が一見ドライを装って、実は内面が熱い人なんだと認識している。
名前の発した言葉で大体の事情を察した瞬は、にこりと微笑み名前の両肩に手を置く。
それを一輝は見ているのだが、何となく見ていられなくなった。
「もしものことがあったら……」
一輝はどうすべきかを計りかねていた。
もし瞬が名前に何かをしたとしたら、俺は平静で居られるのか。それとも最愛の者達同士の気持ちを優先すべきか。
不器用が故に素直に愛情を示せない男は、やはりどこまでも不器用だった。
ちなみに一輝の位置からでは二人の会話は薄っすらとしか聞こえない。
「兄さんはああ見えて、情熱的だよ。それは兄弟の僕だから保障するよ」
「でも手を繋いだこともないし……」
「そうなの?ぶしつけだけど、聞いてもいい?」
「え?いいよ?」
「兄さんとはどこまで行ったの?ちゃんとアドバイスできるかもしれないし、出来たら聞かせて欲しいんだ」
名前は思い切り顔を朱に染め上げ、瞬の顔を見上げる。
背丈が瞬より少し小さい名前は、一輝が居る位置から見ると二人は瞬に隠れて見えない。
それが、名前が顔を上げている所でキスをしているように見えてしまった。
一輝は信じられないものを見たとばかりに目を丸くする。
「それがね……手を繋いだことも、キスをしたことも無いの」
「二人はどういう発端で付き合ったの?」
瞬はずばずばと核心を突いてくる。
名前は星の子学園を幼少から、一輝や瞬とは幼馴染み同然の存在だった。
当時もやんちゃだった名前と瞬はよくしており、一輝ともたまに会話や怪我の世話をしたりと情に熱い人だ。
だからこそ二人が恋人になったと瞬が知ったときは、素直に祝福した。
しかし肝心なところは全く知らないのだ。
「一輝から、好きだ……って」
「それで?」
「私も……昔から、好きだって言ったの。そしたら付き合おうって」
「うーん。もしかしたらなんだけど兄さんは名前を大切にしてるんじゃないかな」
「何も無いのに?あれから顔を合わせてもそんなに喋ってくれなくなったし」
遠目から見ている一輝は、目を点にしていた。
まさか恋人がそんな不満を抱いているとはいざ知らず、あまつさえ瞬の手に落ちてしまうかもしれないというこの状況。
居てもたっても居られず、隠れていた場所から颯爽と姿を現し、名前を抱き上げる。
「やっぱり来てくれたんだね、兄さん!」
もはやお約束の台詞を口にする瞬は、目が爛々と輝いている。
名前はこれが兄弟愛かぁ……と羨ましそうに二人を交互に見ていると、一輝が抱きとめる腕の力を少しこめる。
ほんのりと腕が痛み、何事かと一輝を見遣る。
一輝はといえば、ばつが悪そうな表情をしている。
「少し借りるぞ、瞬」
「兄さん、名前に寂しい思いをさせちゃだめだよ」
瞬の言葉に、一輝は押し黙って名前をどこかに連れ去って行った。
「これで少しは進展するといいんだけれど……兄さん奥手なのかな」
そこへ星矢が走って瞬の所まで来た。
どうやらこれからバーベキューをするらしく、一輝の手ならぬ火を借りたいらしい。
しかし兄の恋路の邪魔をするわけにもいかず、瞬は一輝なら旅に出るから暫く帰ってこないと適当な嘘をつく。
ちぇっと残念そうな声を上げる星矢に苦笑いしつつ、これから行われるであろうバーベキューの準備を手伝うことにした。
城戸邸が和気藹々とした雰囲気に包まれる一方、一輝は険しい表情で名前と向き合っていた。
最愛の者同士のキスシーンらしきものを目にしてしまったのだから、動揺しまくっていた。
「一輝、腕……痛いよ」
「すまなかった。それより名前、お前に聞きたいことがある」
「私も聞きたい事があるの」
まさに分かれる寸前のカップルが醸し出す重々しい雰囲気に、二人ともいたたまれない気持ちになっていた。
「何故瞬に唇を許した?」
「一輝は私のことが嫌い?」
言葉を発したのは二人同時だった。
しかもお互いにとって衝撃的な言葉だっただけに、一輝と名前は大いに混乱した。
「私は瞬ちゃんとなにもしてないよ?」
「先ほどしていたではないか」
「あれは普通に相談に乗ってもらってただけだよ」
言われてみれば、名前がそんな節操の無いことをする筈もないと、一輝は安堵した。
「そうか」
「それだけ?私、寂しいよ。折角一輝と恋人になれたのに、キスだって誰ともまだなのに……」
「どうしたらお前を安心させられる?」
「名前って、名前で呼んで?」
「名前……これでいいか?」
一輝は顔に火がついたかのように真っ赤になる。
名前はそれを見て、漸く気が付いた。一輝が何もしないのは、照れているからなのだと。
わかれば名前も同じように顔を真っ赤にして、こそばゆい雰囲気に心が押しつぶれそうになる。
「どうしたらおま……名前の、その表情を笑顔に変えられる?」
「あのね、もっと一輝と触れ合いたいの。抱きしめたり、手を繋いだり……」
「わかった」
一輝は気恥ずかしそうに、そっと名前を抱きしめる。
暴走しそうな己を制止しつつも、名前の肩に頬をうずめる。
「ずっとこうしたかったのだが、俺はアテナを守る聖闘士。お前をこの手で壊してしまわないか不安だったのだ」
珍しくしおらしい一輝が目の前に居る。
おずおずと顔を上げると、名前の目の前には一輝の顔がすぐ近くに合った。
二人はまるで引力にひかれるかのように唇を重ねるだけの拙いキスをする。
が、初めてが故に名前ははずかのあまりすぐに一輝の腕の中に顔を埋めてしまう。
一輝は名前の頬に手を寄せ、頬に出来るだけ優しいキスを落とす。
一度してしまえばまた次も欲しくなってしまう物で、名前の顎に手をかけ、ゆっくりと自らに引き寄せ、二度目のキスを名前に贈る。
そして両腕でそっと包み込めば、名前は安心したようでいて、艶やかな表情に変わっていく。
一輝は湧き上がる衝動を必死に堪え、しっかりと抱き寄せる。
「少しは伝わったか?」
「うん。すっごく。一輝、愛してるよ」
「俺もだ」
甘い雰囲気漂う二人の間に割って入るがごとく、星矢が全力疾走でこちらに駆け寄る。
後ろには瞬が居て、突っ走る星矢を必死に止めている。
それに気付いた二人はぱっと離れ、どちらともなく手を繋ぐ。
「おーい!二人ともやっぱ近くに居たんじゃねーか!早くバーベキューやろうぜ!」
「星矢だめだよ、二人の邪魔をしちゃあ」
瞬は一輝と名前の繋がれた手を見て、人知れずほっと安堵する。
「これで名前の悩みは一件落着かな?」
「星矢君、ちょっと待っててすぐに行くから」
真っ赤な顔を空いた手で隠す名前に、そっぽ向いて照れを隠す一輝。
「少ししたらそっちに行く……だが長居はせんぞ」
「わかってるって!群れるのは嫌いなんだろ?」
全く解っていないから!と瞬は心の中で突っ込みを入れながら、無理矢理に星矢の腕を引っ張って城戸邸に戻る。
ぽつんと残された二人は、顔の熱が冷め遣らぬままゆっくりと城戸邸までの道のりを歩いていく。
これまでの心のすれ違いを埋め合わせるように。
数分後、城戸邸に辿り着いた先で、焼けたバーベキューの具を「あーんして」という名前の願いに答える一輝の姿があった。
それを見た氷河や紫龍は、二人ひっそりと「愛だな…」と羨ましそうに横目でちらちらと様子を盗み見ていた。
全く状況が理解できていない星矢は「一輝犬みてぇ!」と発したせいで鳳翼天昇を見舞われ惨事が起こったことはいうまでも無い。
そんな中、沙織と瞬は穏やかに様子を見守っていた。
自重しないあとがき
映画化記念フリリク企画第一弾は「一輝兄さんと甘々で」という設定の元、書かせて頂きました。ほんのりギャグを織り交ぜてみましたが、青銅たちが絡むとほんのりギャグっぽくなってしまいます。
リクエストくださった方、ありがとうございます。
少しでもご満足頂けたら嬉しいなと思いを込めました。