真昼間から喧騒が響き渡る。
人気の少ない森林で、一本の大樹が見守る中、密やかに繰り広げられていた。
そこにはアナスタウロオーと一輝が拳を交える姿があった。
アナスタウロオーの表情には悲壮感がありありと浮き出ている。
一方の一輝は表情こそ涼しげに拳をいなしてはいるが、珍しく呼吸を乱している。
事が起こったのはほんの数分前のことだった。
アナスタウロオーは珍しく一輝の監視を怠った。
一人大樹の前で悠々自適な昼食を取っていた。
そこは一気にとっても特等席といっても過言ではない場所だ。
大樹には浅い傷が幾重にも刻まれている。そこは幼少に身長を刻んだ、大事な場所だということをデスクイーン島から出たばかりのアナスタウロオーは知る由もない。
アナスタウロオーは以前、瞬に案内されて教えてもらったスーパーで買ってきたパンに野菜やハムを挟み、簡単なサンドイッチを作り、頬張る。
あらかた平らげたところで、アナスタウロオーは急激に眠気に襲われた。
昼食を狩っていた一輝は、眠りこけるアナスタウロオーを見つけた。
静かにアナスタウロオーの寝顔を覗き込む。
「相変わらず無防備に寝ているな」
それも一輝にとっては茶飯事。
いつしかアナスタウロオーは警戒の色を見せなくなり、すっかり一輝の日常に馴染んでいった。
「こんな奴が俺の首を取るとは笑わせてくれる」
ふっと笑い、アナスタウロオーの向かい側に立つ。
自分にとって思い出深き場所で誰かと時間を共にするのは疎まれたものの、仮にも大事に思った女の身内だ。
恐らく有事の際は自分で解決できるほどの実力は感じている。
それでも放っておく事はできなかった。
近くの川で獲物の血抜きを済ませると、再びアナスタウロオーの元に戻る。彼女は魘されているようだった。
額の汗が著しい。睫毛は僅かに濡れており、一輝の心を掻き乱す。
エスメラルダに酷似した顔は、それだけで激情を思い起こさせるには充分すぎる威力があった。
一輝はそっと涙を拭ってやった。
「エスメラルダ……ギルティー……」
一輝は一瞬、ぎょっとした。アナスタウロオーの瞳は未だ閉じられている。
「また昔の夢を見ているのか?」
こうして、深い眠りについているときは決まって二人の名を口にすると共に、可憐な睫毛を涙でぬらす。
その度に罪悪感に駆られ、場を後にしようとする。が、急に加えられた引力に逆らえず、アナスタウロオーの上に覆いかぶさる形になってしまう。
アナスタウロオーの手が一輝の服の裾をがっしりと掴んでいる。
脈同感に支配されかけた頭の片隅で、これはまずいと警告音が鳴り響く。
ひき剥がそうとアナスタウロオーの手に自身の手を重ねる。
「もう、一人にしないで……」
一輝は重ねた手をぎゅう、と力強く握り締める。折れないように加減をしながら。
するとアナスタウロオーの開いているほうの手が、一輝の背中に伸びる。
甘い花の芳香が一輝の鼻腔を刺激する。頬と頬が触れ合う。体はすっかり密着している。
たまらず腰に腕を回し、女にしては力強くも、儚い肢体を抱きしめる。
エスメラルダに似ているだけが自身を駆り立てているのではないと、はっきりと自覚した瞬間だった。
アナスタウロオーの中には一輝が齎した事による孤独が魔のように巣食っている。
一輝は人知れず唇を噛み締める。
頬をゆっくりと、緩慢な動作で、恐る恐るずらしていく。
柔らかな感触に頭が少しずつ溶けていきそうになる。
薄く開かれた桜色の唇に、己のそれを重ねる。
そんな折、アナスタウロオーは最悪なタイミングで目を覚ましたのだ。
これまで幾度となく戦いに身を投じてきたが、強敵の中でも最も手ごわかった人物を彷彿とさせるほどの力で、一輝の胸を強く押しのけた。
一輝は殺気立つアナスタウロオーを前にして、目を細める。
否、それよりもどうにかせねばならない事態がある。
「落ち着け」
「どの口がほざく。聞かん」
「いいから聞け」
珍しく饒舌な自分に聊か苦笑いする。
凄むアナスタウロオーの実力はこの際認める。
だがここで引いてしまっては男として、誰よりも自分が認めない。
一輝は決して自ら先手を打たず、ひたすら激をかわすのみに留める。隙が出来るよう誘導するも虚しく、攻防戦が繰り広げられる。
アナスタウロオーは細腕には凡そ似つかわしくない重さを携えている。
圧され負けない自信はある。一輝は思い切りよくアナスタウロオーの両腕を弾く。
初めて生まれた隙に、すかさず両腕をアナスタウロオーの脇に滑り込ませ、きつく抱き留める。
するとアナスタウロオーはその場で固まり、立ち尽くした。
「何、を……」
「わからんのか?」
「だから何を」
「ああ、お前は馬鹿女だったな」
「馬鹿って……」
「お前が言ったんだ」
「はあ……?」
「一人にするな、と縋ってきたのはお前だ」
アナスタウロオーは今にも泣きそうだった。
攻防戦を繰り広げてもなお涙の跡が残る目蓋、頬。
「言うな」
「俺が一人にしたくないと言ったら?」
「言うなって」
「お前は笑い飛ばすか?お前の幸せを奪った俺が、そんな戯言をなどと」
堰を切ったようにアナスタウロオーはぽろぽろと大粒の涙を流し始める。
一輝はそれをひたすら受け止めるがごとく、胸のうちにアナスタウロオーを収める。
これまで彼女が一人涙を零すことはあった。
それが今や嗚咽交じりに、素直に己の内で泣いている。
「頭ではわかってるんだよ。一輝がとっくに過去の罪を払拭しているくらい。それでも私の頭は事実に追いつけなかった」
一輝は腕に力をこめる。
「エスメラルダの命日に毎年花を手向けていることも、見てた。だから」
「……もう黙れ」
一輝はアナスタウロオーの顎に手を沿え、可憐な唇に再び己を重ねる。
アナスタウロオーは苦しげに声を漏らし、一輝のタンクトップの裾をぎゅう、と握る。
それだけで愛しい気持ちがこみ上げてくる。
角度を変えて何度も小さな唇を貪る。時に啄ばむように、唇を舐め上げる。
暖かな溜息が漏れるのを感じ、一輝は一旦アナスタウロオーを離す。
そこに先ほどまでの獰猛な彼女は跡形もなく、戸惑いに揺れる瞳からは再び涙が零れ落ちる。
自分でも驚くほど、穏やかな心境だった。
優しく長い白銀の髪を梳かすように撫で、そこにも唇を落とす。
「俺の決心は揺るがない」
アナスタウロオーは戸惑いを隠せないと言った様子で、ひたすら一輝を見つめる。
「愛している。返答は聞かん」
再び一輝はアナスタウロオーを抱き寄せ、耳元でささやく。
ぴくりと体を震わせるアナスタウロオーは、ゆっくりと顔を上げる。すかさず唇を奪い、ありったけの思いをこめて乱暴に舌をねじ込む。
抵抗を失った身体は力なく一輝の成すがままにされている。
甘い声が口内に響き渡り、どうにかなりそうだ。
せりあがる気持ちを堪えもせず、その場にそっと押し倒す。
草木の香りが鼻腔を擽る。
アナスタウロオーは戸惑いがちに一輝の胸に手を添え、ぐい、と引っ張る。
再び覆いかぶさる形になり、一輝は真剣な眼差しでアナスタウロオーを射抜く。
そこに拒絶の色は跡形もなくなっていた。
過去の全てが今、許されたような気がした。
-Fin-