初めての恋


今は神話の時代。
ほんの気まぐれで仮初の肉体を用い、海岸を歩いていた。
ここに来る途中、村人は言っていた。
『夕暮れ時になると潮が引き、海岸の中央に対岸の島への道が姿を現す』と。
時間を待たずともテレポーテーションで移動は出来るのだが、器の影響なのか、慣れない太陽を避けるように木陰でその時を待った。
ポセイドンとアルテミスは面倒なことをするな、と思いながら。

徐々に日が暮れていく。
同時に少しずつ潮が引いていき、道ならぬ場所に足場が出来ていく。
初めて目にする光景に感慨を覚えつつ、岩で出来た道を一歩踏み出す。
まだ引ききっていない潮で足が濡れるが、構わずに歩を進める。

暫くすると、黒く染まりつつある景色に一筋の閃光が放たれた。
それは幼少より馴染みのある色濃い小宇宙。紛れもない父クロノスのものだった。
一体何を仕出かしたのかと視線を凝らすと、その先にはキトンを身に纏った少女がぽつんと横たわっている。引ききっていない潮のせいでずぶ濡れになっているようだった。
放っておけと本能は言う。しかし実際はそうすることも出来ず、ぴくりとも動かぬ少女の所まで行くと、声をかけてしまった。

「おい、娘よ」

娘は一切の反応を示さない。
良く見れば少女と思ったその人は大人びた顔立ちをしている。背丈は自分よりも遥かに小さかったがために、目測を見誤っていた。
どうしてもこの娘が気になって仕方がない。
何故ならばこの世界に住まう人間とは、やや違った小宇宙を感じるからだ。
しかし余の今の肉体は、地上の人間に直で触れるものを屍としてしまうが故に触れられない。
ハーデスはその場で暫し悩んだ。

「そうか、すっかり忘れていたが余が直接触れなければ大丈夫であったな」

ハーデスは極力、小宇宙を抑えて神衣のマントを取り払い、娘をそっと包みながら抱き上げる。
娘が何ら変わりなく息をしている事に安堵しつつ、対岸まで歩いていく。
ふんわりとした抱き心地はこれまでに体感したことの無いものだ。
ハーデスは一人心臓が早鐘を打つのを、何故かと困惑しながら残り僅かとなった道を颯爽と進んでいく。
島の民は見知らぬハーデスの出で立ちに警戒している。
どうもこの島には、潮の満ち干気と共に賊が出る事が多々あるらしく、適当に言い訳を考える。
この辺りを巡回していた騎士で、途中倒れていた娘を助けてやって欲しいと説明する。気風のいい女店主に見初められた娘は、手厚く看護を受ける。
ハーデスはベッドで一人、神衣を外しながら娘のことを思う。
マント越しの感触は柔らかく、心地いいものだった。どうにも煩い心臓がやけに耳触りだ。
この感覚は生まれて初めてで、ただただ戸惑うばかり。
濡れた足を受け渡された布で拭っていると、どうやら娘が意識を取り戻したらしいと女店主が慌てて戸を開けた。

目を覚ました女は、ここがどこかと不安がっていた。
女店主は優しくここは海に囲まれた島で、人に助けられてここに連れてこられたのだと簡単に説明する。
しかし娘はどこか腑に落ちない様子だった。
ハーデスは女店主に簡単に礼をいい、娘を寝室へと招く。

「余の名はハーデス。娘よ、名は何と言う?」
「私は双葉です。ハーデスって、神様と同じ名なのですね」

ハーデスは内心でその神なのだから当然だろう、と冷めた眼差しを双葉に送る。

「私は確かに海に落ちたはずなのです。それが何故こんな安全なところに居るのですか?」

それはまるで死を望んで海に落ちた、と暗に言っているようなものだった。
双葉をじっと見つめると、乾ききっていない髪が肌に張り付いており、双眸は涙で濡れている。

「双葉よ。お前の望みは死か?」

その時は本心からとんだ無駄骨だと思った。
それと共にもう一つ、新たな欲が芽生えるのを、確かに感じ取る。

「私が見る世界はとうに色褪せております。折角お助け頂いた命……私にはこれからどうすれば良いか、わかりませぬ」
「ならば余の手を取るが良い。それだけで双葉の望みを叶えてやろう」

双葉はハーデスが差し出した手を前に、真意を測りかねているようだった。

「何を根拠にそう言えるのですか」

明らかに警戒されている。それも当然だろうと思い、手短に近くを横切った鼠を素手で拾い上げる。
最初はちぃ、ちぃ、と泣き声を上げて抗っていた鼠は、瞬く間に動かなくなっていった。
そう、この体の特性である生気を吸い取る力で命を吸い尽くしてやった。
それを見た双葉は驚愕のあまりか目を大きく見開く。

「貴方様は死神様なのですか?」
「余は冥王であるが、何か不服か」

双葉の手が震えている。
人間は何と愚かなのだろう。死を自ら望み、目の前に願望が叶う材料があるというのに、躊躇い抗う。
ほんの僅かな希望が打ち砕かれた、ハーデスはそう思った。
しかし双葉はその瞳に確かな決意を宿らせる。ただそれだけなのに、ハーデスの心臓はどくん、と大きく跳ねる。
この感情は一体なんだというのだろう。苛立ちとも焦燥感とも違う。味わったことのない感覚に、身が引き裂かれそうな気持ちになる。

「迷いはございません。お手を拝借する事を、お許しくださいませ」
「ならば」

ハーデスはこちらに伸ばされる手を見て、言葉を紡ぐ。
口が勝手にそうしていた。

「双葉よ、お前が死した後は余が迎えに行く」

そうしてハーデスは双葉の手をきつく握り締める。
心臓はより一層高鳴る反面、双葉の体温は少しづつ抜け落ち、ぱたりと床に流れるように横たわる。
ハーデスはその場で小宇宙を燃やし、双葉のなきがらを抱きしめたまま冥界へと赴く。否、帰ると形容するべきか。
腕の中に閉じ込めた亡骸は忽ち塵と化していく。
変わりに、呆然と冥界を眺めている一糸纏わぬ姿の双葉を見つける。
そっとマントをかけてやり、一気にエリシオンへと向かう。
神に許されたもののみが立ち入ることを許可されしその場。
ヒュノプスとタナトスは立ち入った人間の気配に、僅かに小宇宙を揺らすが干渉は一切してこなかった。

「ここは……」
「余は冥界の王だと言ったであろう。お前はもう死したのだ。一切の苦痛も無く、な」
「でもこれはまるで生きているかのように感じます」
「双葉よ、寒さは感じるか?」
「いえ……どちらかと言えば心地よい暖かさを感じます」
「では何を危惧しているのだ」
「危惧など……」

困惑している双葉に、ハーデスは軽く口付ける。
そして初めて胸を焦がす感情の名を知る。
これは確かに恋なのだ、と。
触れるのを躊躇っていたのは己だったのだと気付いた頃には、色んなものが遅かった。
彼女の肉体はもう失われた。だが、ハーデスの視界はこれまで色褪せて見えていたが、今は景色が鮮やかに移る。

「これからは何の心配も、苦痛もお前には襲ってなど来ない。安心して過ごすが良い」

双葉は双眸に涙を溜め込んでいる。

「私の願いは叶ったのですね」
「そういった感傷も、全て忘れさせてやる」
「本当ですか?」
「余はこれまでに嘘を付いたか?」

双葉はぶんぶんと首を横に振る。

「これからは余と共にあれ」

それがとても愛らしく、ハーデスは双葉をきつく抱きしめる。
双葉もまた、安らかな表情で背中に手を回して答える。



「今のは……」

幾重にも変えてきた新たな寄り代は、先ほどまで深い眠りに付いていた事に気が付く。

「おのれヒュノプスめ」

地上に暗雲を齎すために過酷な日々を送っていたせいか、眠りに付く前にヒュノプスに術をかけられたまでは覚えている。
しかしそれも肉体の限界を思ってのこと、咎めまど不要ではあった。
それにしても懐かしい夢を見た。
初めて恋をした、遥か遠い神話の時代の夢。
あの娘は結果、アテナとの初聖戦に破れる寸前で輪廻転生の輪に戻してやった。
今はどこかで生きていることだろう。
いつか聖戦に勝つ日が来たら、その魂ごと再び愛そうと、あの日に誓った。

自重しないあとがき

フリリク記念第二段は、ハーデスの初恋というお題を頂き書かせてもらいました。
リクエストくださった方、素敵な題材をありがとうございます!
余様って心理描写が難しいですね。今後ハーデス夢も増やしたいなと思うこのごろ。
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