お風呂に入ろう ※現代パロ

夜の帳が下りた住宅街に、ふっそりと佇む上品な黄色いマンションが一つそびえ立っている。この辺りでは一番大きい建物だ。
私はスマホでラインのメッセージを入れ、返事を待たずにポケットに忍ばせる。
スモークガラスが張られている入り口に入ると、中には大きな観葉植物が綺麗に羅列している。ナンバープレートの付いた鍵を片手に、エレベーターのポタンを押す。部屋に着くまでの時間が惜しい。
ようやく着くと、だだっ広い通路に出る。この階層はたった三部屋しかない。私はいつも通りキーを鍵穴に差し込み、部屋を開ける。
愛しい人の匂いが僅かに香るその空間は、綺麗に整頓されている。薄暗いリビングと寝室を確認するが、誰もいないことを証明している。端から期待していなかったが、毎回これなのだから恋人としてはもの悲しくなる。
私はリビングで間接照明の灯りだけを点けて、三人掛けはできるであろうソファーに座ると、腰が沈んでいくのが分かる。
座り心地は最高だ。最初は慣れなかった上質な皮の冷たい感触もすっかり馴染んだ。鍵をガラスのローテーブルに置いて、ソファーに身をゆだねる。
部屋の中には立派な掛け軸や壺、日本の伝統的な芸術品があちこちに展示されている。
寛ぐ場というよりは展示室みたいだな、といつも思う。
不意にスマホのバイブレーションが鳴り、ポケットから取り出す。『すぐに帰るよ』と短く綴られた言葉。返事にかなりラグがあったから、いつもみたいに研究に没頭していたんだろう。
控えめに言ってめちゃくちゃ舞い上がっている自分がいた。
彼はここから五百メートル圏内の研究所に勤務しているから、何か彼の興味を惹くものに引っ掛からない限りそう遅くはならない。
簡単な夜食でも作ろうか。思い立ってキッチンの冷蔵庫を開けたら、ものの見事にからっぽだった。
考えてみれば、彼は一日のほとんどを研究所で過ごしているし、帰らない日も多いとも言っていた。色々備えておいて、疲れて帰ったら腐った破棄物だらけなんて嫌だろう。
彼らしいと言えばまあ彼らしい。

「ただいま」

いきなり耳元に囁かれた言葉にびっくりして体がびくっと跳ねる。
後ろから優しく抱きしめられ、求めていた感触にほっとした。

「気付かないほど何に夢中になっていたんだい?」

いや待て、音すらしなかったぞ。彼は忍者か。度々似たようなことで驚かされるのは、慣れるわけがない。
くすくす笑う彼の吐息が首筋にかかってくすぐったい。

「な、何でもない…。おかえり、博士」
「まだそうやって私を呼ぶのかい?」

何でこう呼ぶのかといえば、私は彼の研究所の元事務員だったから。
それも到底自分の手に届きそうにない地位に鎮座する上司なのだから、癖が抜けないのも道理というものだろう。
体をひねって博士に向き、分厚い眼鏡を取れば眉根を下げて、手探りで私の腕に手を這わせる。

「いつも寂しい思いをさせてすまないね」

そのまま私の手をふんわりと包み込む。
いつもスパコンを相手に、ひっきりりなしにキーボードをたたき続けている博士の指は、しっかり固くて手は武骨な男らしさが感じられる。

「こんな状態じゃきみの顔も見えやしないよ」

首筋に顔をうずめる博士は寂しそうに嘆く。
どうやら僅かな報復という名のゲームは、敗北してしまったみたいだ。
博士の手を開かせ、掴んだままの眼鏡を手渡す。
ゆっくりと装着する動作はちょっと色っぽくて、見ているのがつらい。博士は何度か瞬きをして、私の体ごとくるりと反転させる。
お互い向き合う状態に、こっぱずかしさがこみ上げるあまり、俯いて博士の胸に頭をぽすんと埋める。
体を抱きしめられて、博士は私のほっぺたに頭をすり寄せたのち、髪の毛を梳かすように撫でる。
やっぱりくすぐったい。

「ご飯はちゃんと食べたの?」
「アイーシャに貰ったものがあるから、明日一緒に食べよう。日付が変わってしまったし、こんな時間に食べたらお腹がぷよぷよになってしまうからね」

アイーシャは彼の同僚だ。その人の夫と博士とはとても仲が良く、三人で歩く姿は以前よく見かけていた。
とりわけ料理上手で部下思いの彼女から、料理をご馳走になったりもしたし、忙しいのによく相談に乗ってくれるお姉ちゃんみたいな人だ。
博士の言動に嫉妬したのは否めないが、私が博士と付き合うきっかけをくれたのは、ひとえに彼女の功労あってのことだ。

博士は腕を離し、どこにあったのかわからないビニール袋から何個かのタッパを冷蔵庫に詰める。
周りにリードされっぱなしな状態で、自分がひどくお子ちゃまに見える。

「さてと。今日は入浴に付き合って貰うよ」
「は!?」
「目が悪いから一人じゃ「むりむりむりむりむりむりむりむりぜえったいむり!」そんなに嫌がらなくても……」

声色はしょんぼりしているが、いつもより笑顔が輝いている。

「大丈夫だよ。ばっちり舐め回すように眺めたいところだけど、眼鏡をかけていたら湯気で見えなくなる。つまり視力の悪い私はほぼ何も見えないに等しい。それにほんの少しでも近くに居られる時間が増える。だからキミはは恥ずかしがる必要なふごぉ!」
「それ前半が本音でしょ!」

博士に弱々しくアッパーをかます。いくら何でもでもこれは譲れない。
恥ずかしいもんは恥ずかしい。
顎をさする博士が少し可愛そうに思えたのは、一瞬だった。

「ふおおおおおお?!」

視界は暗転。体が宙に浮き、抱き上げられていると認識するまで時間を要した。
腕力の欠片もなさそうな見た目に反して、やっぱり男なんだなと思い知った瞬間だった。
あれよあれよと浴室で服をはぎ取る博士の手を止めようとするが結果は惨敗だったけど、眼鏡は先に回収してその辺に投げておいた。
視界なーし!心の中でほくそ笑んでいると、浴室に押し込まれた。
電灯はつけないで、と念を押したけど果たして聞いてくれるのか心配だ。
扉越しに布ずれが聞こえるから、早めに身ぎれいにしてとっとと退散…ってあれ?
バスタブに水が溜まっていた。試しに手を突っ込むと、やっぱりというか、お湯だった。ほかほかと湯気が立っている。
計算済みだというのか。
学生だった頃の悪友の言葉が頭をよぎる。
『教訓は三つだ。まずは隠れろ。襲われそうになったら殴れ。そんで逃げろ。運が良ければ隙を突いて急所をぶっ壊せ。あ、これじゃ四つか?』
リンドウ、この場合どうしたらいいの。
こうなりゃ自棄だ、どうせ博士が来ても殆ど見えないだろうし、さっさとシャワーを済ませるに限る。
コックを捻りぬるめの温度に調節し、頭からお湯を浴びてシャンプーで髪を清涼にする。博士の髪の毛とおんなじ匂いがして、胸が締め付けられる。
好きな気持ちがあるから恥ずかしいのに。
水気をきって体を大方泡でいっぱいにすると、背後からにゅっと手が伸びてきた。
驚いて硬直していると、仄かな薬品の香りが鼻腔を刺激した。博士の腕が私の体を優しく包み込む。密着した肌は、お互いが一糸纏わぬ姿だと主張している。
恥ずかしさとかそんなもの以前に、どうしても緊張してしまう。
浴室は依然として薄暗いまま。ささやかな願いは守ってくれたようだ。
博士は名残惜しそうに腕をほどいて背を向け、先に入浴してほしいと言ったので、私はいそいそとシャワーで泡を洗い流す。何度か振り返ったが、しっかり見ないようにしてくれていた。
浴槽に身を投じる。
全く、紳士なんだか悪戯っ子なんだか掴めない。